ピット(読み)ぴっと(英語表記)pit

翻訳|pit

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ピット」の意味・わかりやすい解説

ピット(小)
ぴっと
William Pitt, the Younger
(1759―1806)

イギリスの政治家。大ピットの次男。ケンブリッジ大学、リンカーン法学院で学んだのち、21歳で下院議員となり、1782年7月にはシェルバーン内閣の財務大臣に就任した。翌1783年春この内閣がフォックス‐ノース連合によって倒されると野党に回り、同年末、国王ジョージ3世がフォックスを中心とするホイッグ党内閣を更迭したのち、首相に任じられた。成立当初、彼の政権は下院の多数の支持を得られず議会対策に大いに苦しんだが、ホイッグ党の攻撃に屈せず国王の大臣任免権を擁護し、1784年3月には議会を解散した。世論は彼を支持し、以後17年間にわたって首相を務め、首相の政治的地位を強化した。その最初の数年間、自由主義的な改革派として、インド統治制度の改善、財政改革、フランスとの通商条約締結といった治績をあげ、失敗に終わったものの、議会改革も提案した。しかし1790年代に入ると、フランス革命と国内の改革運動を恐れる保守的なトーリー党を率い、内政面では人身保護法の停止や団結禁止法の制定などによって国民の政治的自由を圧迫し、対外的には対仏大同盟の結成によりフランス革命の圧殺を図った。1800年アイルランド合同法を成立させ、イギリス・アイルランド連合王国を誕生させたが、アイルランド安定化のために必要と考えていたカトリック教徒解放政策に国王が反対したため、翌1801年辞任した。この後しばらく後継首相アディントンを閣外から支持したが、対仏戦が再開された1803年5月以降、政府の戦争政策に徐々に批判的となった。1804年5月に首相の座に戻り、再度対仏大同盟を組織したものの、1805年12月のアウステルリッツ戦いナポレオンが勝って同盟は解体し、1806年1月、イギリスの将来を案じながら世を去った。優れた改革派の政治家でありながら、フランス革命期の首相として保守的政策をとらざるをえず、戦争指導でも父ほどの成果をあげられなかったという意味では、不運な生涯であった。

青木 康]

『坂井秀夫著『イギリス外交の源流――小ピットの体制像』(1982・創文社)』


ピット(大)
ぴっと
1st Earl of Chatham, William Pitt, the Elder
(1708―1778)

イギリスの政治家。インドで財をなしマドラス総督となったトマス・ピット(通称「ダイヤモンド・ピット」)の孫。イートン校、オックスフォード大学に学び、1735年に下院議員となった。野党に加わり、王家がハノーバー出身であるためにイギリスの外交政策がゆがめられていると政府を攻撃し、「愛国派」として人気を博した。しかしそのために国王ジョージ2世に嫌われ、ようやく1746年になって閣外のポストを与えられた。人事をめぐる争いから1755年に更迭されたが、「七年戦争」の勃発(ぼっぱつ)によって世論が彼の政権入りを望むに至り、1756年12月に国務相となり戦争を指導する地位についた。翌1757年いったん辞任したが、同年7月に国務相に返り咲き、ニューカッスル内閣下で事実上の首相としてイギリスを勝利に導いた。とくにインド、北アメリカなど海外植民地でフランスの勢力を破り、イギリス帝国の基礎を築いた。しかしジョージ3世の即位(1760)以後、自説が内閣で受け入れられなくなると、1761年に下野した。1766年にはチャタム伯に叙され、王璽尚書(おうじしょうしょ)として事実上首相を務めたが、病気のために十分な政治指導力を発揮することができず、2年後には辞任のやむなきに至った。その後、本国とアメリカ植民地の関係が悪化すると、ノース政府の強圧政策に強く反対した。1778年、上院で演説中に倒れ、まもなく死去した。雄弁で知られたホイッグ党の大政治家であったが、政界では孤立していた。

[青木 康]


ピット
ぴっと
pit

くぼみまたは穴の意味であるが、普通には水道管や電線を土中に埋設するための角形の溝やU字形の溝をいう。コンクリートでつくられることが多く、前者を「配管ピット」、後者を「配線ピット」とよんでいる。またピットは、エレベーターの籠(かご)が停止する最下階の床面から下の穴の部分をさすこともある。機械工作のほうでは、溶接部表面に生ずる小さな穴の意味にも使われる。発生の原因は、水分、錆(さび)などによるといわれている。

[小原二郎]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ピット」の意味・わかりやすい解説

ピット(大)
ピット[だい]
Pitt, William, 1st Earl of Chatham

[生]1708.11.15. ウェストミンスター
[没]1778.5.11. ケント,ヘイズ
イギリスの政治家。 R.ピットの子。ピット (小) の父。オックスフォード大学,ユトレヒト大学で学んだのち,近衛騎兵連隊の将校に任官。 1735年下院議員になり,R.ウォルポール首相の施政を攻撃し,雄弁家としての名声を確立,ウォルポール退陣 (1742) 後頭角を現し,46年2月アイルランド副会計官,2ヵ月後ウォルポールの後継者 H.ペラム内閣の軍事支払 (陸軍主計) 総監に就任。買収されて政府攻撃を弱めたと非難を受けると,軍事支払総監のすべての特権 (軍の資金を個人的利益をはかるために投資してよい) を放棄するとともに,部内刷新を行い,巨富を築いた前任者とは違い,清廉にして有能な軍事支払総監として名を揚げた。七年戦争 (56~63) 開戦とともに国務相になり,一時解任されたが,ニューカッスル (公)との連立内閣を組織し (57) ,事実上の首相として戦争を指導。 61年国王ジョージ3世がビュート伯を登用して対スペイン戦争を拒否すると,国務相を辞職。 66年チャタム伯に叙せられ,ロッキンガム侯辞任のあとをうけて再び内閣を組織したが,精神に異常をきたしたため政務を離れ (68) ,以後 10年間,グラフトン公らの政治グループを通して元老的存在となった。北アメリカ十三植民地の独立に対しては,強い反対の態度を示した。

ピット(小)
ピット[しょう]
Pitt, William

[生]1759.5.28. ケント,ヘイズ
[没]1806.1.23. ロンドン
イギリスの政治家。ピット (大)の次男。幼少の頃から神童の聞え高く,14歳でケンブリッジ大学に入学,17歳で文学修士の学位を取得。 1781年 21歳のとき,ある貴族の援助により下院議員となった。 82年シェルバーン内閣の蔵相。 83年フォックス=ノース連立政権の崩壊とともに国王の要請により少数派内閣を組織し 24歳で首相となり,翌年3月の総選挙で大勝,以後 1801年アディントン内閣の成立まで首相として活躍した。アメリカ独立戦争後の財政を建直し,インド法を成立させ (1784) ,イギリス東インド会社に対する国家の統制権を強化した。 1786年英仏通商条約を締結,フランス革命に対しては内政不干渉の立場を取ったが,93年フランスがイギリスに宣戦布告すると,第1次対仏大同盟 (93) を結成し,これに対抗する一方,国内では革命の波及を恐れて人民保護法を停止 (93,95~1801) 。ナポレオン1世に対しては第2次対仏大同盟 (1798) を結んで抗戦した。また 1800年アイルランドとの合併を定めた「合同法」を成立させた。 04年再び首相となり第3次対仏大同盟 (1805) を結んだが,ナポレオン戦争の終結をみることなく死没。ピット (大) ,W.チャーチルと並ぶイギリスの三大政治家の一人とされる。

ピット
Pitt, Thomas

[生]1653.7.5. ドーセット,ブランドフォードセントメリー
[没]1726.4.28. バークシャー,スワローフィールド
イギリスの商人。ピット (大)の祖父。 1674年から東インド貿易に従事。特許状をもたなかったため,83年以降イギリス東インド会社に訴えられたが,94年和解して同会社に入り,97~1709年までマドラス知事。その間,01年マドラスで巨大な盗品ダイヤモンドを入手し,17年フランス王室に 13万 5000ポンドで売却したため,「ダイヤモンド・ピット」と呼ばれた。また下院議員をつとめた (1689,90,1710) 。

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