改訂新版 世界大百科事典 「レフォルマ」の意味・わかりやすい解説
レフォルマ
Reforma
メキシコ史の用語で〈改革時代〉と訳される。狭義にはメキシコの三年戦争と呼ばれる改革戦争(1858-61)を指すが,むしろ,1854年A.L.deサンタ・アナ失脚後マクシミリアン皇帝の君主政が崩壊し,B.フアレスが大統領に再選される時期(1867)までの,保守陣営と革新派勢力との一連の闘争時期を意味すると考えるのが妥当である。そのため,レフォルマは相反する主義主張の陣営が,自己の確信する政治理念に従って,メキシコ独立以来の混迷と国土の荒廃状態から脱して,近代国家へ転換するため,建国の礎をいかに完成させるかを模索する苦悩の時代といえる。
保守派は大地主,教会,軍人,壮年層の見識者で,経済的にも恵まれたグループであった。革新派は弁護士ら若年層の自由主義派の知識人からなり,経済面では前者に劣っていた。両勢力ともメキシコの後進性と国内の矛盾を改革する究極の目的を達成する点では一致していた。保守派勢力の代表格は,老年のL.アラマンで,スロアガF.Zuloaga,ミラモンM.Miramónらがいた。彼らは強力な安定国家を求め,穏健思想に立脚した秩序と伝統,とくに宗教団体の保護と教会所有財産の厚遇,共和制反対,それに近代化策としてヨーロッパ志向などを主張していた。革新派勢力の唱える急進的改革が断行されれば,保守派の既存の所有財産が失われることは明白であった。
一方,革新派改革推進者のリーダーはフアレスであった。そのほか理論家でミチョアカン州知事のオカンポM.Ocampo,経済通のM.レルド・デ・テハダ,穏健派でのちに大統領になったコモンフォルトI.Comonfortらがあげられる。彼らはスペイン植民地遺制としての先住民抑圧政策,教会などの大土地所有制度等のメキシコの旧体制を打破することを希求した。また,圧制的なカトリックには柔軟性を,教会に対しては国家への従属を要求した。具体的には連邦制施行と小地主制度の確立,教育の普及等を画期的な改革案の骨子とした。しかし,革新派勢力は目的達成を急ぐあまり,陣営内で急進派と穏健派に分裂する危機も生じ,一時はフアレスの指導力が問題にされ,退陣を要求される事態もあった。その時期には逆に保守派の台頭を許す結果を招き,改革の前途は困難となり長期化していったのである。革新派は1854年のアユトラ革命を契機としてフアレス法(1855),レルド法(1856),1857年憲法などを制定し,改革に着手した。そしてついに59年にレフォルマ法の断行となった。レルド法以上に教会財産を規制したこの土地所有法は,レフォルマ精神の集大成と考えられている。
しかし結果的には改革派の意図した土地の分割と解放は,富裕な新興地主を出現させ,土地所有形態の表面的変化にとどまらざるをえなかった。メキシコの改革はマクシミリアン皇帝の失脚後も,レルド・デ・テハダSebastian Lerdo de Tejadaが大統領(1873)に選出され推進されていくが,P.ディアスの台頭で再び反動政治がよみがえり,真の改革精神は1910年のメキシコ革命を待たなければならなかった。
執筆者:大垣 貴志郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報