改訂新版 世界大百科事典 「ディポネゴロ」の意味・わかりやすい解説
ディポネゴロ
Diponegoro
生没年:1785-1855
インドネシア,ジャワ島ジョクジャカルタのスルタン,アマンクブウォノ3世の長男で,ジャワ戦争(1825-30)における反乱軍の指導者。インドネシア共和国の民族英雄の一人。イギリスのジャワ統治期間(1811-16)中の1814年に父王が死去したが,ディポネゴロの母の地位が低かったため,王位は弟ジャロットによって継承された。ディポネゴロは少年時代から宮廷の腐敗ぶりや陰謀を嫌ってイスラム寄宿学校に住み,一般民衆とも接触があった。22年に弟アマンクブウォノ4世が死去したが,オランダ植民地政府はディポネゴロを後継者とせず,故王の満3歳の子が5世となった。ディポネゴロはその後見人に任命されたが,彼は王宮を去って山中にこもった。
当時オランダはイギリスからジャワ島を返還された直後で,東インド総督ファン・デル・カペレンはそれまで行われていた中部ジャワでのヨーロッパ人による借地契約を弊害が多いとして23年に禁止したため,ジャワ人貴族は財政難に陥った。また25年には新しい道路が建設されることになり,これに反対するディポネゴロを捕らえるため,オランダがジョクジャカルタから軍隊を派遣したのがジャワ戦争の発端である。ディポネゴロは民衆の支持を受けていたので,反乱はたちまち中部・東部ジャワ全土にひろがり,ジョクジャカルタは反乱軍の手に落ちた。オランダ軍は準備不足のため苦戦したが,辛うじてスラカルタの宮廷の反乱軍への参加を防ぐことができ,27年以後は要塞構築作戦(オランダ語でベンテン作戦と呼ばれる)により,徐々に反乱軍を圧倒した。コレラ,マラリア,赤痢などにより反乱軍は衰え,有能な部下も次々と降服し,30年にディポネゴロは和平交渉に出向いたところを捕らえられ,最初メナドに,のちにはマカッサル(現,ウジュン・パンダン)に追放され,55年に死去。なお流刑生活の間に,反乱の経過を回顧して《ディポネゴロ物語》を自ら執筆した。
執筆者:永積 昭
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報