百科事典マイペディア 「ドイツ社会主義統一党」の意味・わかりやすい解説
ドイツ社会主義統一党【ドイツしゃかいしゅぎとういつとう】
→関連項目ドイツ|ドイツ民主共和国|ピーク
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東ドイツの体制政党。1946年,ソ連軍政本部を後楯とする共産党の優位のもと,共産党と社会民主党との合同によって成立した。政治権力の独占を進める党は,ソ連占領区にも成立したブルジョワ政党に対し,ドイツ民主共和国建国時には閣僚ポストを与えるなどしたが,やがて「ブロック政党」と呼ばれる形式的存在におとしめていった。50年代以降書記長のウルブリヒトやホーネッカーが最高権力者として党を率いた。「ベルリンの壁」崩壊後の人民議会選挙以降は,党名を変更して党の存続を図った。東西ドイツ統一後も,統一に対する旧東ドイツ地域の市民の不満などを代弁する党(民主社会主義党〈PDS〉)として勢力を保っている。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…ソ連に逃れた者も少なからぬ数がスターリンの粛清の対象とされたが,自由ドイツ国民委員会などとともに反ファシズム活動に従事した。 第2次大戦後,指導部の帰国によって旧党員を集め党の再建がなされたが,ソビエト占領区では46年4月社会民主党と合同してドイツ社会主義統一党(SED)が成立,以後ドイツ民主共和国(東ドイツ)の国家党の地位にあった。1989年11月のベルリンの壁開放後,改革とドイツ統一を求める国民運動が拡大するなかで,党内改革派を中心に統一党・民主的社会主義党と改名し,翌年2月正式にSEDから民主的社会主義党(PDS)に移行した。…
…党指導部がプラハに逃れ国外組織(ゾパーデSopade)を作ったほか,ある者はイギリスなどに亡命し,ある者は国内で非合法活動をなお数年続け,そして多くが強制収容所に送られた。【西川 正雄】
[戦後]
1945年ナチス・ドイツの敗戦後に,米英仏ソの4占領地区で再建が行われ,ソ連地区のSPDは46年共産党と合併しドイツ社会主義統一党(SED)が結成される。西側占領地区では46年5月第1回党大会が開かれ,シューマッハーKurt Schumacher(1895‐1952)が党首,オレンハウアーErich Ollenhauer(1901‐63)が副党首に就任。…
…この措置は,プロイセン軍国主義の基盤であるユンカー支配を打破するうえで決定的な意味をもつものとして評価された。 46年4月,共産党と社会民主党の合同によってドイツ社会主義統一党Sozialistische Einheitspartei Deutschlands(以下SEDと略記)が創立された。その影響力を十分に拡大することのできない共産党を強めるためとされるこの合同は,ソ連占領地区におけるその後の発展を規定する重要な要因となった。…
※「ドイツ社会主義統一党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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