ベルリンの壁(読み)ベルリンノカベ(英語表記)Berlin Wall

翻訳|Berlin Wall

デジタル大辞泉 「ベルリンの壁」の意味・読み・例文・類語

ベルリン‐の‐かべ【ベルリンの壁】

第二次大戦後にベルリンが東西に分割された際に造られた、西ベルリンを囲む壁。西ドイツへの人民流出を防ぐため、東ドイツが1961年に構築。1989年11月9日、東ドイツで出国の自由化が発表されたのを機に、東西の市民によって壊され、撤去された。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

共同通信ニュース用語解説 「ベルリンの壁」の解説

ベルリンの壁

東西冷戦下の1961年、東ドイツ政府が西ドイツの飛び地だった西ベルリンへの自国民の流出を防ぐため建設した壁。全長155キロ、高さ約3・6メートルで、西ベルリンを取り囲むようにつくられた。東ドイツは既に西ドイツとの全長約1400キロの国境線を封鎖しており、ベルリンの壁の建設で両国間の全国境線を障害物で固めた。2重の壁の間には監視塔が置かれ、東ドイツ国境警備隊の兵士巡回。西側に逃げようとして射殺されるなど、89年の崩壊までベルリンの壁では事故なども含めて約140人が命を落とした。(ベルリン共同)

更新日:

出典 共同通信社 共同通信ニュース用語解説共同通信ニュース用語解説について 情報

精選版 日本国語大辞典 「ベルリンの壁」の意味・読み・例文・類語

ベルリン【伯林】 の 壁(かべ)

  1. 東西両ベルリンの境界にあったコンクリートの壁。全長四〇キロメートル。一九六一年東ドイツが築き、東西冷戦の象徴となったが、八九年通行が自由化された。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

知恵蔵 「ベルリンの壁」の解説

ベルリンの壁

1961年8月12日から18日にかけて、東ドイツ政府(当時)によって東西両ベルリンの間に築かれた、総延長156kmに及ぶコンクリート製の壁。89年11月9日にいわゆる「ベルリンの壁開放(崩壊)」が起こるまで、東西ドイツの民族分断の象徴であり、ひいては西側諸国の資本主義と、東側諸国の共産主義の対立の象徴でもあった。西側からは「恥辱の壁」とも呼ばれていた。
第2次大戦後、ドイツ帝国の首都ベルリンはソ連・アメリカ・イギリス・フランスの4国の管理下に置かれていた。48年3月、ソ連と西側3国は、西側がドイツ内の占領地区の経済統合を独断で決めたことなどが原因で対立、西側3国は管理下にある地区の通貨改革を断行した。ソ連はその報復措置として、同年6月からベルリン封鎖を行った。東西冷戦の核となったこのベルリン封鎖は、翌49年9月には解除されたが、同年10月にドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立し、東ベルリンが首都となった。
53年6月から東ベルリンで労働ノルマ強化への反発から大規模な反政府暴動が発生した。その後も東西の交通が自由であったため、大量の労働者が経済的に繁栄する西側社会に向け、西ベルリン経由で亡命しつづけた。61年8月12から13日にかけて、東ドイツ政府は東西ベルリンの通行を遮断。国境検問所C(チェックポイント・チャーリー)を中心に西ベルリンを取り囲む形で有刺鉄線による壁が構築され、その後数度の改築を経て75年にコンクリート製、高さ3mあまりの障壁ができあがった。71年、ソ連を含むベルリン4カ国協定によって西ドイツ-西ベルリン間と東西ベルリンの交通は確保されたが、壁を越えようとする亡命者は後を絶たず、200名近い死傷者も出た。
85年、ソ連のゴルバチョフ書記長就任以来、ソ連はペレストロイカに入り、東欧諸国がこれに共鳴して民主化が飛躍的に進んだ。89年11月9日夕刻、東ドイツ政府によって、国外旅行と国外移住手続きの簡略化と実施が発表され、事実上の国境開放となるや、数万人の市民がゲート開放の10日0時を境に一斉に西ベルリンを訪れ、10日未明には市民の手によって壁が破壊され始めた。ドイツ民族の再統一と、東西冷戦の終結への劇的な風穴となったのである。
90年10月、東西ドイツは統一され、91年にはソ連が崩壊した。現在も、壁が撤去された地面にはそれを示す銘が刻まれている。

(椎崎亮子  フリーライター / 2009年)

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ベルリンの壁」の意味・わかりやすい解説

ベルリンの壁
べるりんのかべ
Berlin Wall 英語
Berliner Mauer ドイツ語

東西ドイツ分断の時代につくられた、旧西ベルリンを囲む壁。旧東ドイツ(ドイツ民主共和国)の首都であった東ベルリンから西ベルリンへの住民の流出を防ぐため、東ドイツ政府が1961年8月、アメリカ、イギリス、フランスが共同統治する西ベルリンを有刺鉄線等で物理的に封鎖。その後、1975年にはコンクリート製で高さ3メートル強の総延長155キロメートルの壁が完成した。東西陣営分断の象徴として、「ベルリンの壁」ということばが幅広く使われた。西ベルリンは東側における陸の孤島と化していたが、アメリカをはじめとする西側諸国の支援により、市民は豊かな生活を謳歌(おうか)することができた。壁を乗り越えて西へ逃げた東ドイツ市民は約5000人に上るが、約200人が国境警備兵の銃撃や地雷などで死亡したとされる。

 1980年代末、ソ連ではゴルバチョフによるペレストロイカが行われ、東欧諸国では独裁政権への反発と民主化要求が高まり、東ドイツも例外ではなくなった。1989年11月9日、東ドイツ政府は国外旅行の自由化を発表。これを知って集まった東西ベルリン市民によって壁は壊され、東西冷戦終結の象徴的シーンとなった。その後、平和裏に壁が撤去され、翌1990年には東西ドイツの統一が実現し、東西ベルリンは統合して新たなベルリン市になった。壁の一部はいまでも当時の遺産として残され、ペイントを施されてギャラリーのようになっている。また壁の破片は、ベルリン土産(みやげ)として売られている。

[編集部]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ベルリンの壁」の意味・わかりやすい解説

ベルリンの壁
ベルリンのかべ
Berliner Mauer

1961~89年まで西ベルリンを囲い込み,東ベルリンおよび周辺の東ドイツ地域との交通を遮断した障壁。ドイツが東西に分裂後の 49~61年の間に約 250万人の東ドイツ市民が西ドイツに脱出。特に熟練労働者,専門職,知識人の脱出がふえ続け,東ドイツ経済の命運を脅かす事態となった。そこで東ドイツは,東ベルリン市民の西ベルリンへの通行を遮断する障壁を構築した。壁の構築は 61年8月 12~13日の夜間に開始された。有刺鉄線とブロックによる障壁はその後,監視塔と銃座,地雷に守られた有刺鉄線付きのコンクリート壁 (高さ最大5メートル) に変った。 80年代までに,壁と電流フェンス,堡塁による障壁は 45キロに及び市を分断,その後さらに 120キロ延びて西ベルリンを囲い込み,東ドイツから完全に隔離した。こうしてベルリンの壁は,冷戦によるドイツおよび欧州の東西分断を象徴する存在となった。この間,約 5000人の東ドイツ市民が,さまざまな手段で壁を越え西ベルリンに逃げ延びた。一方,壁を越えようとして東ドイツ当局に捕えられた市民も 5000人に及び,ほかに 191人が壁越えの最中に射殺された。 89年 10月,東欧を巻込んだ民主化の波のなか,東ドイツの共産主義政権は崩壊。 11月9日,東ドイツ政府は西ドイツ (西ベルリンを含む) との国境を開放,ベルリンの壁も打ちこわされて通路ができ東ドイツ市民は西側と自由に往来できるようになった。これを境に,東西ドイツの政治的障壁としてのベルリンの壁はその役目を終えた。 (→冷戦 )

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ベルリンの壁」の解説

ベルリンの壁
ベルリンのかべ

1961年8月ドイツ民主共和国によって突如建設された,東西ベルリンを分ける壁
1948〜49年のベルリン封鎖後,西ベルリンへの若年労働者の亡命が相次いだことにより,東ドイツ政府が建設した。「資本主義のショーウィンドウ」である西ベルリンを遮断するためであった。全長156kmにもおよぶ壁は,東西冷戦の象徴ともいえたが,1989年11月の東欧革命の中,市民の手によって破壊された。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「ベルリンの壁」の解説

「ベルリンの壁」(ベルリンのかべ)
Berliner Mauer

1961年8月13日,東ドイツ政府は突如ベルリン周囲と市内の東西境界線を遮断,特に東西間交通規制の抜け道になっていた市内の境界線には,その後5年間をかけて総延長約30キロに及ぶコンクリートの「壁」を構築した。89年11月9日開放され,その後撤去された。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

とっさの日本語便利帳 「ベルリンの壁」の解説

ベルリンの壁

一九六一年八月、東ドイツ政府は西ドイツへの逃亡者の激増への対抗策として、東西ベルリンの間に壁を作り、以後、西ベルリンは陸の孤島と化した。八九年一一月、東ドイツ政権は国外旅行の自由化を宣言し、ベルリンの壁は崩壊。翌年一〇月、東西ドイツの統一が実現した。

出典 (株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」とっさの日本語便利帳について 情報

世界大百科事典(旧版)内のベルリンの壁の言及

【ドイツ民主共和国】より

…このため,61年8月東ドイツ政府はついに,それまで往来の自由であったベルリンの東西間の境界を遮断した。ここに生まれたいわゆるベルリンの壁は,西側の反ソ・反東独の宣伝をさらに激しいものとし,東西間の緊張はますます高まった。これより先1955年の西ドイツの北大西洋条約機構(NATO)への加盟と,これに対抗する東ドイツのワルシャワ条約機構への加入によって遠のいていたドツ再統一は,ここにいたってほぼ絶望的なものとなった。…

【ドイツ連邦共和国】より

…この年アデナウアーはソ連とも外交関係を樹立,ソ連抑留の捕虜の帰国に成功している。55年から61年(ベルリンの壁の構築)までの期間,西ドイツの西側統合はさらに進んだ。52年の石炭鉄鋼共同体の結成はフランス,ドイツ,イタリア,ベネルクス3国との協力関係をますます密にし,58年初頭にはEECの成立となる。…

【ベルリン】より

…53年6月17日,東ベルリンでは〈労働ノルマ〉強化への反発に端を発した大規模な反政府暴動が起こるが,東西ベルリン間の交通はその後も依然自由であり,若年労働者を中心に東から西への亡命が相次ぎ,東ドイツ経済を大きく脅かした。このため61年8月12日から13日にかけ,東ドイツ政府は〈ベルリンの壁〉の構築を開始,東西ベルリンの交通を完全に遮断した。 総延長156kmに及ぶ壁により陸の孤島と化した西ベルリンの地位は,69年に自由民主党との連立内閣の首相となった社会民主党のブラント(1957‐66,西ベルリン市長)の下で進められた一連の〈東方外交〉により,ようやく安定したものとなった。…

【冷戦】より

… この間,ヨーロッパでは両軍事ブロックの対峙によって〈冷戦〉が制度化し,東西ドイツがその焦点となった。ことに1958年11月ソ連がベルリンの地位とドイツ統一について新提案を行って以降,ベルリン問題はヨーロッパでの〈冷戦〉の中心的課題となり,61年8月には〈ベルリンの壁〉の建設とともに国際危機を招いた。〈冷戦〉は第三世界にも拡大していった。…

※「ベルリンの壁」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

世界の電気自動車市場

米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...

世界の電気自動車市場の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android