ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)の政治家。ザール地方ノインキルヘンに炭坑労働者の子として生まれる。小学校を終えて屋根葺(ふ)き職人の徒弟となる。1926年共産青年同盟に入り、1929年共産党員、1931年ザール地区共産青年同盟書記。1933年ナチス支配下で地下活動に入り、1935年逮捕、10年の懲役刑。第二次世界大戦後、1946年自由青年同盟(FDJ)の建設をゆだねられ、1955年まで同議長。1946年よりドイツ社会主義統一党(SED。現在の民主社会党の前身)幹部会員。1950~1958年政治局員候補、1958年以降政治局員。1955~1957年ソ連で訓練ののちSED指導部内で軍事・保安関係を担当。1958年より党中央書記および教育相、1971年ウルブリヒトの辞任後党第一書記、1976年以降国家評議会議長(元首)も兼務。1987年9月懸案のドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)訪問を実現、両独関係の進展に新局面を開いた。1989年10月18日SEDの中央委員会において彼の後継者と目されたエゴン・クレンツおよび秘密警察長官エリッヒ・ミールケらは、現存社会主義の穏やかな体制内改革を策してホーネッカーに辞任を迫り党から追放したが、時すでに遅く民衆の激しい不満の前に党組織は瓦解(がかい)した。1989年11月ベルリンの壁が崩壊し、1990年4月ベルリン近くのソ連軍病院にかくまわれた。ドイツ再統一後の1991年3月、ドイツ当局がソ連軍に引き渡しを要求するとモスクワへ逃れた。1991年12月ソ連崩壊後モスクワのチリ大使館に庇護を求めたが、1992年7月29日ドイツへ護送され、ベルリンの壁越境者への殺人命令、汚職、背任の容疑で告発、11月12日裁判が開始された。明白な証拠が発見されず、憲法裁判所は彼の「不治の病」を理由に告訴を取り下げ、チリの家族のもとへ行くことを許可した。1994年5月29日死去。
[中川原徳仁]
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1912~94
東ドイツの政治家。1971年,前任者のウルブリヒトに代わりドイツ社会主義統一党(SED)の第一書記(在任1971~89),76年には国家評議会議長(在任1976~89)となった。出身母体の青年団体関係者を側近として党指導部を固め,ソ連に忠実な路線を踏襲した。国民の消費生活の向上をめざしたが,逆に経済を破綻に追い込んだ。そのうえソ連や東欧諸国における体制改革の波にも逆らい,治安対策を強化したため市民の間に抗議運動の高揚を招いた。89年10月失脚,その直後,「ベルリンの壁」が崩壊した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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