日本大百科全書(ニッポニカ) 「ベルリン」の意味・わかりやすい解説
ベルリン
べるりん
Berlin
ドイツ連邦共和国の首都で、国内最大の都市。面積883平方キロメートル(うち旧西ベルリン側480平方キロメートル、旧東ベルリン側403平方キロメートル)。人口338万2200で、西ベルリン側6に対して東ベルリン側4という比率となっている(2000)。2002年の人口は339万2400。人口の約12%、42万が外国人で、うち83%は西ベルリン側に、17%は東ベルリン側に住んでいる。
[佐々木博]
概容
1961年8月13日に構築され、東西ドイツ分裂の象徴であった「ベルリンの壁」は、1989年11月9日、29年目にして崩壊し、1990年10月3日のドイツ統一への契機となった。ドイツ統一に伴って東西ベルリンも一つの都市となったが、統一ドイツの首都を旧西ドイツ(ドイツ連邦共和国)の首都ボンからベルリンへ移転するについては長い間論議され、1991年6月、連邦議会はわずか17票差(ベルリン移転賛成337票、ボン残留賛成320票)でベルリンへの移転を再確認した。また1993年には移転の期限を2000年とすることが決定された。
ベルリン移転が決まった1991年の時点でボンで働いていた連邦公務員2万2000人のうち、ベルリンへ移るのは7300人、連邦議会の4500人の職員はすべてベルリンへ移動することとなった。ベルリンへ移動する連邦機関は、大統領府、議会、連邦参議院、首相府、新聞情報庁、外務省、財務省、内務省、法務省、経済技術省、運輸・建設省、労働社会省、家庭省、婦人青年省の14機関、ボンに残留する機関は、国防省、健康省、食糧農林省、経済協力省、環境省、教育研究省の6省で、ベルリンにそれぞれ出先機関を置く。1999年の春から年末にかけて、旧東ドイツ政府の建物を利用して主要官庁が移転し、新首都として機能し始めた。なお新しい官庁街は、ベルリン1区の、北に向かって湾曲したシュプレー川の一部(シュプレーボーゲン)に、国際コンテストの結果決まったドレスデン在住の建築家アクセル・シュルテスAxel Shultesの設計によって建設がすすめられている。これはワシントンの「モール」のアイデアを生かしている。この一角を占める議事堂は旧帝国議会議事堂を改修したもので、1999年4月に完成した。
ベルリンを統一ドイツの首都にするにあたっては、統一直後、時代に逆行するとの見方もあったが、ビシェグラード四国(ハンガリー、スロバキア、チェコ、ポーランド)や中欧自由貿易協定(CEFTA=Central European Free Trade Agreement)参加国(ハンガリー、スロベニア、スロバキア、チェコ、ポーランド)のEU(ヨーロッパ連合)への加盟が実現するに至って、時代を先取りした決定であったといえる。また、首都ベルリンの大発展を予想して、ベルリン市とブランデンブルク州は合併に合意していたが、1996年5月の国民投票で否決された。ベルリン市は54%対46%で合併に賛成であったが、ブランデンブルク州は37%対63%で反対が多かった。この結果の背景には、人々が巨大なベルリンに人口254万(1995)のブランデンブルク州が飲み込まれることを恐れたことと、急激な変化を望まなかったことがあった。
[佐々木博]
自然と市街地の発達
北ドイツ低地東部、オーデル・ナイセ川の西側に広がる「ワルシャワ・ベルリン原流谷」とよばれる幅広い低地に位置し、市街は、北はバルニム台地、南はテルトウ台地にまたがっている。この原流谷低地を流れるシュプレー川が市域をほぼ東から西に貫流し、市の西端を南北に流れるハーフェル川に合流する。両河川の流域には大小の湖が散在し、繁華街クーアフュルステンダム通りの名にみられるように、湖の堰(せき)を意味する「ダム」の語尾をもつ地名が多い。最高点はベルリン東部のミュッゲルベルクの115メートル。ほかにシェーネベルク(103メートル)、ハーフェルベルク(97メートル)、クロイツベルク(66メートル)などの丘陵地がある。これらは更新世(洪積世)における大陸氷河の残したモレーン(氷堆石(ひょうたいせき))の丘である。なお、ベルリン西部のトイフェルスベルク(115メートル)は、第二次世界大戦中破壊された建物の瓦礫(がれき)を積み上げた人工の山である。
北緯52度31分、東経13度25分に位置するベルリンは、強い内陸性気候下にある。平均気温は最暖月(7月)18.7℃、最寒月(1月)零下0.2℃、年較差は18.9℃と大きい。年降水量は589.4ミリメートル。水面の凍結日数は年間40日に及び、ドイツ北海岸エムデンの5日と比べて冬の寒さは厳しい。しかし5月の空気はさわやかで、快晴の日の快適さは「ベルリンの空気」としてよく知られる。
市域は都心部の(1)シティと、約5キロメートルの幅でシティを取り囲む内側居住地区の(2)ウィルヘルム環状地区、さらにその外側に広がる(3)外縁地区の三つに分けられる。
(1)シティはプロイセン首都時代の1825年当時の市域で、ベルリン1区=ミッテ(中央)区にほぼ相当する。西は東西ベルリンの境界にあったブランデンブルク門から、旧ベルリンの中心街ウンター・デン・リンデン通り、マルクス・エンゲルス広場、市庁舎通りを経て、東のアレキサンダー広場に至る道筋の南北両側の市街である。南北に通ずるフリードリヒ・シュトラーセは、新首都の中心街として装いを一新し、西ベルリン側のクーアフュルステンダム通り(クーダム)と並ぶショッピング通りとなった。都市機能の高まりにつれてシティの人口は減少し始め、1925年29万6000、1939年26万4000、戦災後の1946年12万5000、1963年9万1000となった。減少した人口はシティ周辺部に移動し、いわゆる「ドーナツ化現象」が生じた。都心部は近代的なビルと、社会主義時代の住宅アパートが改装されて共存する混合都市景観を創出し、ベルリンの歴史を示す文化的でユニークな都市景観となっている。
(2)ウィルヘルム環状地区は、ウィルヘルム2世(在位1888~1918)時代に形成された市域である。かつての市壁を撤去してつくられた環状道路から遠隔地へ向かう道路が放射状に発しているところに特色がある。もっとも人口稠密(ちゅうみつ)な地帯で、ミッテ区を除く旧ベルリン市6区およびシェーネベルク区、ウィルマースドルフ区、シャルロッテンブルク区などを含む。西部は裕福な市民の好む住宅街となっている。
(3)外縁地区は、19世紀末以来、「緑の中へ」を合いことばにさらに外側に市域を広げ、1920年に成立した「大ベルリン」の外縁部に相当する。放射状道路沿いに多階層の建物が並び、その間に墓地、運動場、シュレーバーガルテン(小農園)などの都市周辺施設が散在している。周辺の湖の近くには、北西のコンラーツヘーエ、テーゲルオルト、南東のカロリネンホーフなどの、また森の中には西部のグリューネワルトや北部のフローナウなどの住宅地区が広がる。さらにジーメンスシュタット、テーゲル、シェーネワイデ、マリエンフェルデなどの工業地区もできている。グリューネワルトは市民の日帰り行楽地ともなっている。
[佐々木博]
東西ベルリンの分裂――ベルリンの壁
第二次世界大戦後、ベルリンはアメリカ、イギリス、フランス、旧ソ連の4国共同占領地区となり、うちソ連の管理下にあった東側部分(東ベルリン)と、ソ連を除く3国共同管理下にあった西側部分(西ベルリン)に分割された。東ベルリンは、1949年10月ドイツ民主共和国(東ドイツ)建国に際してその首都と宣言された。西ベルリンは、1949年の「基本法」(ドイツ連邦共和国憲法)と1950年の「ベルリン憲章」により、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)の一州に準じる地位を与えられていた。戦後、西ベルリンは東ドイツ領内に取り残された「陸の孤島」と化し、1948年6月~1949年5月のソ連による「ベルリン封鎖」に際してはアメリカ空軍が空路で物資の供給を行った。また1961年8月東ドイツが東西ベルリンの境界線上にいわゆる「ベルリンの壁」を築き、東西ベルリン間の住民の移動を遮断した。その後、1971年成立の4か国協定と東西両ドイツ間の各種取決めにより、西ベルリンの西ドイツとの政治的、経済的、社会的な結び付き、鉄道、道路、水路、空路による交通上の結合、西ベルリン住民の東ベルリン訪問、東西ベルリン間の電話連絡などが認められ、1987年にはベルリン市生誕750周年を迎え、東西ベルリンでそれぞれに多彩な記念行事や記念碑づくり、都市整備事業などが行われた。しかしその2年後の1989年夏、プラハの西ドイツ大使館に12万6000人の東ドイツ人が逃げ込み、またハンガリー経由で数千人がオーストリアへ逃げた。同年11月6日、ライプツィヒで行われたデモには50万人が参加した。東ドイツ指導者は退陣し、11月9日、急激な民主化のなかで、29年続いた「ベルリンの壁」がついに崩壊した。
[佐々木博]
産業
1936年の工業部門別の従業員数は、第1位が電気工業で全ドイツの49.8%を占め、生産額においても48.3%で第1位であった。ジーメンスやAEG(アーエーゲー)など世界的電気工業会社がベルリンに立地していた。第2位は衣服工業で、従業員数の22.7%、生産額の35.6%であった。第3位は印刷業、第4位は機械工業で、この上位4部門をあわせて30万人、全ベルリンの工業従業員数の53%を占めた。サービス業では、公務員が第一次・第二次両大戦間の数字で全ドイツの10.8%、文化・教育部門が15.5%、保険業19.7%、金融業20.4%などとなっていた。1939年には全ドイツ人口の6.3%がベルリンに住み、サービス業と工業の生産所得がほぼ等しかった。
1995年のベルリンの総生産額は1478億ドイツ・マルク(DM)(約11兆円)であるが、このうち35%がサービス業、21%が工業、19%が公務・非利益団体である。工業は統一以来、それまで各種税などの優遇措置に恵まれていた西ベルリン、東ドイツの首都として国策で支えられていた東ベルリンともに、深刻な危機に直面してきた。反面、自由化と首都移転などで、サービス部門は着実に成長している。
ドイツ統一以来、ベルリンの就業者数は毎年減少してきたが、首都移転の2000年になって初めて0.5%増加した。就労者154万人のうち最大の就労分野はサービス分野で、124万人(80.8%、うち15万9000人、全体の約10%が公務サービス)、製造業18万人(11.7%)であり、農業従事者もまだ7700人いる。失業率は、ドイツ全体が9%台であるのに、ベルリンは15%台と非常に高く、旧東ドイツ諸州と同様に、経済状態の停滞を反映している。ちなみに失業率が高い州は、ザクセン・アンハルト20.2%、メクレンブルク・フォアポンメルン18.8%、ブランデンブルク17.9%、ザクセン17.6%の順であり、もっとも低いのはバーデン・ウュルテンベルクの4.9%である。
工業就業者数は電気、食品・タバコ、機械、出版・印刷の順で多くなっている。ベルリンの「黄金の20年代」にはドイツ帝国の52%を占めていた電気工業および預金額の49%を抱えていたベルリンの九大銀行の独占的地位は失われて久しい。しかし、東ベルリン時代からの科学研究のポテンシャル(可能性、潜在的な資力)は大きく、付加価値の高いハイテク工業化を推進すべく、科学産業団地Berlin-Adlershof(WISTA(ビスタ))やその管理機構としてのWISTA管理有限会社、さらにはベンチャー企業を育てる技術創業者センターなどを設立して、工業再興政策を進めている。
ベルリンの地理的位置関係と社会主義時代の遺産として、ベルリン企業の旧社会主義諸国との結び付きは強い。とくにポーランドは位置的にも近く、ポーランドへの経済協力や工業・企業家の教育、指導にも力を入れている。
[佐々木博]
地域計画
市街西部にあるメッセゲレンデでは各種の見本市メッセMesse(教会のミサに由来することばで、転じて市(いち)などをさす)や文化的催し物などが行われ、内外の多くの客をベルリンに集める要因となっている。大学は17あるが、そのうち、フンボルト大学(旧ベルリン大学)、自由大学(第二次世界大戦後アメリカの寄付で西ベルリンに創設)、工業大学(旧シャーロッテンブルク工科大学)、ヨーロッパ経済大学(私立)の四つが総合大学である。
空港はベルリン封鎖当時活躍したテンペルホープ空港が狭いためローカル化し、かわってテーゲル空港が西ベルリンの表玄関となった。しかし、現在年間2500万の乗降客が今後4500万まで増加すると予想されるため、旧東ドイツの表玄関でベルリン市の東南に隣接するシェーネフェルト空港を、唯一の国際空港にすることが1996年に決定し、建設が進められることになった。鉄道網はルール地域、ミュンヘン方面への整備が整い、ハンブルクとの間には1998年、新幹線の建設が開始された。また、1992年以来人口流出が始まり、「孤島」から脱して、世界の大都市と同様に都市機能の郊外化が始まっている。それに伴って郊外電車も50キロメートル圏まで拡大整備されてきた。
ブランデンブルク門南のライプツィヒ広場を囲んで、メルセデス・ベンツ、ABB(アセアブラウンボベリ。スイスに本拠を置くヨーロッパ最大の重工業企業)、ヨーロッパSONY、ヘルティー(百貨店)などの国際企業群による再開発が行われている。その東側には、ザクセン館、ヘッセン館、ラインラント・プファルツ館など、連邦を構成する共和国が国内大使館を新築中で、新首都の息吹を感じさせる。
[佐々木博]
歴史
発展の基礎
現在のベルリンおよびその周辺の地域には、民族移動期以後スラブ民族のウェンド人が定住していたが、1160年ごろアスカニエル家のブランデンブルク辺境伯アルブレヒト熊伯(ゆうはく)Albrecht der Bär(1100ころ―1170)によってこの地のウェンド人の平定とドイツ人の入植が開始された。交通の要路シュプレー川の川中島に商人の基地がつくられ、この集落が1230年ごろ都市権を得てケルンKöllnとよばれた。続いてその右岸にベルリンが建設された。史料に最初に現れるのはケルンが1237年、ベルリンが1244年。この2市が後の大都市ベルリンの基礎となった。
水車の堰堤(えんてい)によってつながっていたベルリン、ケルン両市は、辺境伯の保護と交通・商業上の地の利を得て急速に発展し、なお1307年には共通の市参事会のもとでベルリン・ケルン市として行政上一つに結合されることになった。1320年にアスカニエル家が断絶、以後1世紀にわたって辺境伯の権力が弱体化するが、その間ベルリン・ケルン連合市は自治都市として自力で発展、14世紀中葉にはハンザ都市同盟にも加盟し、またブランデンブルクの中心都市として領邦議会の開催地ともなった。しかし1415年ホーエンツォレルン家のフリードリヒがブランデンブルク辺境伯に任ぜられて以後、君主権力との力関係が逆転、次代のフリードリヒ2世のもとでベルリンとケルンは自治都市としての特権を奪われ、またふたたび分離されて君主の行政下に入ることになった。
[坂井榮八郎]
王宮・官庁都市として
それ以後商業都市としての両市の地位は低下するが、反面ケルン北部にホーエンツォレルン家の居城が造営されたことにより(建築開始1443年、常時居住は1486年以後)、両市はこののち王宮・官庁都市として発展することになる。1539年には宗教改革が行われて新教の都市となった。三十年戦争中両市は多大の被害を被るが(ベルリンは845家屋中300が、ケルンは364中150が破壊される。戦争終結時両市の人口はあわせて約6000)、大選帝侯フリードリヒ・ウィルヘルムのもとで両市の発展に新たな基礎が置かれた。ベルリン・ケルンを囲む共通の城壁が建設され(1658~1683)、それはシュプレー川左岸の第三の都市フリードリヒスウェルダーをも囲み込んだ。同じころ左岸城外に第四の都市ドロテーンシュタット、第五の都市フリードリヒシュタットが成立している。フリードリヒスウェルダーおよびドロテーンシュタットにはフランスから多数の新教徒(ユグノー)が移り住み、彼らはベルリンの商工業の発展に多大の貢献をした。またオーデル川とシュプレー川を連結する運河の建設(1662~1668)によって、ベルリンはハンブルクとブレスラウ(ブロツワフ)を結ぶ商業水路の重要な拠点都市となった。そして1701年最初のプロイセン国王となった次代のフリードリヒ1世のもとで、1709年、ベルリン、ケルン両市に上記新興の3市を加えた5市が統合されて、ここにプロイセン王国の首都ベルリンが成立した。当時の人口は軍隊を含めて5万6600であった。
[坂井榮八郎]
プロイセンの首都
18世紀にベルリンはフリードリヒ・ウィルヘルム1世とフリードリヒ2世のもとでヨーロッパの主要都市の一つに発展する。軍隊が国の根幹をなしたプロイセンの首都として、軍隊色の強い都市であった。1725年に住民6万中軍人1万2000で、5人に1人は軍人だったのである。他方、国王の重商主義的産業振興策により、ベルリンには木綿および絹織物業が栄え、また1763年設立の国営陶磁器工場も経済的に重要な役割を果たした。人口は1800年までに17万2000に増加している。この間市街も整備され、1647年大選帝侯によって開かれた大通りウンター・デン・リンデンの両側には、武器庫(1706完成)、皇太子宮殿(1732)、皇女宮殿(1737)、王立歌劇場(1742開場)、王立図書館(1780)などが建ち並んで威容を誇った。
1806年プロイセンがフランスに敗れたのち、ベルリンは2年間フランス軍の占領下に入るが、プロイセン国家立て直しのために断行されたプロイセン改革は、ベルリンにも新たな生命を吹き込んだ。都市条令(1808)によって、ベルリン市民は市議会と参事会の制度に基づく自治の権利を得た。ベルリン大学の創設(1810)は文化都市としてのベルリンの地位を高めるものであった。ツンフト(同職ギルド)の廃止(1810)や国内関税の廃止(1818)はベルリンの商工業に活気を与え、19世紀のベルリンは既製服、家具、機械、また電気機械などの分野における重要な工業都市としても発展した。この地に創立された企業としてボルジヒ(1837)、ジーメンス(1847)、AEG(アーエーゲー)(1883)などがある。1838年にベルリン―ポツダム間に鉄道が開設されて以後、ベルリンは北ドイツ鉄道網の中心の地位を占めた。他方ベルリンの工業化はこの地にプロレタリアート層を生み出し、その社会問題と市民の政治運動が結び付いて、1848年3月にはベルリンで革命が起こった。3月18~19日の市街戦では市民側が勝利し、5月プロイセン国民議会がベルリンに招集されて憲法を審議したが、秋には反動勢力が台頭し、革命は実を結ぶことなく終わった。
[坂井榮八郎]
ドイツ帝国首都
1871年ドイツ帝国の成立とともに、ベルリンは新帝国の首都となる。1861年に54万8000だった人口は、1880年には132万5000に達し、ドイツで最初の100万都市となっている。ウィルヘルム通りは帝国官庁街の別称となり、ティアガルテン南辺には各国大使館が建ち並ぶ外交官街が出現した。富裕な市民は西部郊外に邸宅を構えたが、他方東部・北部郊外には非衛生的な裏長屋が密集した労働者街がつくられた。1900年に270万のベルリンの住民中約半数は裏長屋の住民であった。ベルリンは社会主義運動の中心地となり、第一次世界大戦の敗戦後1918年11月にはふたたび革命の舞台となったが、勝利者として残ったのは、急進派を徹底的に弾圧した社会民主党政府であった。
1920年、ベルリンは周辺の7市、59村、29騎士農場をあわせて面積8万7810ヘクタールの「大ベルリン」となった。ドイツが政治的、経済的に危機にさらされた1920年代に、ベルリンは文化面で「黄金の20年代」を謳歌(おうか)した。この時代ベルリンは、音楽、演劇、絵画、文学において、また映画やキャバレーといった大衆文化においても世界をリードしたのである。しかしこれもヒトラーの権力掌握とともに終わる。ベルリンは1936年のオリンピック・ベルリン大会で世界の人々の目をひきつけ、1937年には都市建設700年祭を祝い、1943年に人口は史上最高の448万9700に達したが、第二次世界大戦中の空襲と戦争末期1945年4月23日から5月2日までの激烈な市街戦によって、中心市街は廃墟(はいきょ)と化した。全市の家屋の20%が破壊され、50%が損傷を受け、人口は280万に減少した。
[坂井榮八郎]
第二次世界大戦後
戦後ベルリンは連合国の共同管理下に置かれ、ドイツ全体と同様にアメリカ、イギリス、フランス、旧ソ連の4占領地区に分けられて分割統治されることになったが、連合国管理理事会のもとで統一的市参事会は存在し、市議会選挙も行われた。しかし東西対立の激化により、連合国の共同管理は1948年6月以降機能を停止し、ソ連によるベルリン封鎖(1948年6月~1949年5月)のなかで、当初ソ連地区に置かれた市議会と参事会は1948年9月西側地区に移り、他方同年11月にはソ連地区に独自の参事会がつくられてベルリンの市政は東西に分裂する。1949年ドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)の成立に伴い、西ベルリンは条件付きで連邦共和国に組み込まれ、東ベルリンは民主共和国の首都となった。1990年東西ドイツの統一により、ベルリンはドイツ連邦共和国の首都となった。
[坂井榮八郎]
世界遺産の登録
ベルリンでは「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」(1990年、1992-1999年、文化遺産)、「ベルリンのムゼウムスインゼル(博物館島)」(1999年、文化遺産)、「ベルリンの近代集合住宅群」(2008年、文化遺産)がユネスコ(国連教育科学文化機関)により世界遺産に登録されている。
[編集部]
『永井清彦著『現代史ベルリン』(1984・朝日選書)』▽『橋口譲二著『ディ・マウアー――ベルリンの壁1981~1991』(1991・情報センター出版局)』▽『木村直司編『未来都市ベルリン――ベルリン2000年のビジョン』(1995・東洋出版)』▽『坂井榮八郎・保坂一夫編『ヨーロッパ=ドイツへの道』(1996・東京大学出版会)』▽『木戸衛一編著、小松恵一他著『ベルリン――過去・現在・未来』(1998・三一書房)』▽『ブリジット・ソゼー著、宇京頼三訳『ベルリンに帰る――1997年ドイツ日誌』(1999・毎日新聞社)』▽『谷克二文、鷹野晃・武田和秀写真『図説 ベルリン』(2000・河出書房新社)』▽『笹本駿二著『ベルリンの壁崩れる――移りゆくヨーロッパ』(岩波新書)』▽『杉本俊多著『ベルリン――都市は進化する』(講談社現代新書)』