改訂新版 世界大百科事典 「ドブロジャ」の意味・わかりやすい解説
ドブロジャ
Dobrogea
東ヨーロッパ,ドナウ川が黒海に注ぐ下流の地域名で,下流の湾曲部からドナウ・デルタ地帯,黒海にかけての地域をさす。現在はルーマニア領とブルガリア領にわかれている。ルーマニア語ではドブロジャ,ブルガリア語ではドブルジャDobrudzhaという。地形は北部は低い山脈(最高峰は467m),丘陵地帯,デルタ地帯から成っているが,南部には丘陵と平地がひろがっている。気候はおおむね乾燥した大陸性気候であるが,黒海沿岸にはわずかながら地中海式気候の影響もみられる。現在は農業が主要産業ではあるが,港市コンスタンツァのほかにメドジディアMedgidia(金属・セメント工業),トゥルチャTulcea(漁港,魚加工業)のような工業都市も発達している。また近代的なホテルのたちならぶ海岸の観光諸都市には外国人旅行者の姿も数多くみられるが,このような景観が生まれたのは比較的新しいことである。
古代以来この地方は南ロシアとバルカン半島を結ぶ重要な交通路にあたっていた。最初の文化的発展は,前7世紀以降黒海沿岸にトミスTomis(現,コンスタンツァ)やカラティスKallatisなどの植民都市を築いたギリシア人によってもたらされたが,都市の周辺にはダキア人,ゲート人が住んでいた。前29年までにローマ領となり,初めはモエシア州に編入されたが,ローマ時代はむしろスキュティア・ミノルScythia Minorの名で知られていた。ローマ皇帝トラヤヌスはここに城壁を築き,アダム・クリシAdam Clisiには皇帝の偉業をたたえる記念塔が建てられたが,この地方はその後のビザンティン帝国時代も,南ロシアや中央アジアのステップ地帯から殺到する諸民族にたいする防衛線の役割を果たした。この地を通過した諸民族にはアバール人,スラブ人,ブルガール族,ペチェネグ人,クマン人等があり,ビザンティン時代にはトルコ系のブルガール族やクマン人の独立国家がこの地方を包摂した時期もあった(ドブロジャという名称はクマン人の王朝名ドブロティチDobrotićiに由来するという説もある)。オスマン帝国のバルカン進出にともないこの地の要塞も漸次その手に落ち,1484年以降おもにシリストラのパシャ領に編入された。以後17世紀まではオスマン帝国のウクライナやポーランドへの遠征の軍事拠点となり,帝国の衰退の始まる18世紀以降はロシアにたいする防衛線となった。オスマン支配期の特徴は黒海沿岸諸都市の荒廃に反してドナウ川沿岸の要塞地とその周辺(シリストラ,チェルナボダCernavoda,フルショバHîrşova,マチンMacin,イサチェヤIsaccea,トゥルチャ,ババダグBabadag等)が発展したことで,とくにシリストラは18世紀にはブカレストと同人口(6万)を有していた。またこの時期にパシャ権力の興隆にともなって独自の地域的性格をもつようになった。
住民構成についてはオスマン支配期にトルコ人,タタール人の入植が目だつが,18世紀にはロシアから移住したウクライナ人,コサック,リポベンLipoveni人(ギリシア正教の異端派のロシア人で独自の村組織をつくり,おもに漁業に従事してきた)やドイツ人もいた。他方18世紀後半からはオスマンの圧政を逃れたブルガリア人,トルコ人(その中にはガガウズGagauz人とよばれるキリスト教徒もいる)もこの地方に定着した。18世紀末からドブロジャはいわゆる東方問題の係争地となり,しばしば露土戦争の戦場となったが,そのたびに住民の移動が行われ,複雑な民族構成が地域的特色の一つとなった。1878年ドブロジャの大半はルーマニア王国に編入され,農業地帯として発展しはじめたが,南部(カドリラテルKadrilater地方)をめぐってルーマニア,ブルガリア間に領土問題が生じ,1940年のクラヨバ協定で現在の国境が設定され,その後47年のパリ条約で再確認された。
執筆者:萩原 直
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報