ブルガール族(読み)ブルガールぞく(その他表記)Bulghār

改訂新版 世界大百科事典 「ブルガール族」の意味・わかりやすい解説

ブルガール族 (ブルガールぞく)
Bulghār

ブルガリアの民族・国家形成に関与したトルコ系民族。彼らに言及した最初の文献は4世紀のものであるが,当時彼らは東ヨーロッパ南部のステップ地方で遊牧生活を営んでいた。その後5世紀にゴート族,6世紀中ごろにはアバールの攻撃をうけて離散したが,7世紀前半にはアゾフ地方とボルガ川下流地域を中心に住んでいたブルガール諸族間に同盟が成立して,クーブラートKubrat(治世584-642)が支配した。彼の死後この同盟は分裂し,7世紀後半にはハザル・カガン国ハザル族)によって征服され,一部は服従して貢納国となった。しかし他の諸地方へ移住した部族も多く,一部はクーブラートの第3子アスパルフAsparuhに率いられ,ベッサラビア南部を経て,当時ビザンティン帝国領だったドナウ下流の右岸地域(モエシア)へ移住した。この地方にはすでに南スラブ人が移住していたが,アスパルフは彼らを支配して国家をつくり,681年ビザンティン皇帝によって承認された。これがいわゆる第1次ブルガリア王国で,1018年まで存続する。アスパルフに率いられたブルガール族(ブルガリア史では,彼らをプロト・ブルガリア人と呼んでいる)が,ブルガリアの国家と民族の形成に果たした役割や南スラブ人との相互影響関係については,史料が僅少なために不明な点も多いが,彼らはやがて圧倒的に数の多い南スラブ人に同化され,国の首長の称号もハーンからスラブ語のクネズknezに変えられた。

 第2子コトラーグに率いられた他の一部はボルガ川の上流のカマ川との合流地域へ移住した。彼らも10世紀初めまではハザル・カガン国に服従していたが,922年にアルマスAl'masが諸部族を統合し,ハザルに対抗するためアッバース朝カリフと条約を結びイスラムを受容し,965年ハザル・カガン国がキエフ・ロシアに敗北したのちに独立した(これをブルガール・ハーン国と呼ぶ場合もある)。このころのブルガール族のようすは,アッバース朝カリフが派遣したイブン・ファドラーンの《旅行報告書》に記されている。このボルガ・カマ地方のブルガール国は東西貿易の中継地であったので,イスラム世界,ビザンティン帝国,ロシアと活発に交易し,住民の定住化・農耕化もすすんだ。1236年モンゴルの西征によっていったん滅ぼされたが,その後キプチャク・ハーン国に編入され,13世紀後半~14世紀には経済的に復興し,その交易都市にはインド中国商人も往来し,また手工業も発達した。こうして再び東ヨーロッパにおける重要な勢力となったが,1361年ティムール軍に敗れ,その後も台頭するロシア諸国との戦争が相次ぎ,15世紀前半に衰亡した。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のブルガール族の言及

【アルタイ語系諸族】より

…南シベリアでもサモエード系,ケート系の先住民がチュルク化されていった。ただし,バルカン半島のブルガリアでみられたように,征服したチュルク系のブルガール族が土着のスラブ系住民に同化された事例もある。(2)モンゴル系諸族 内陸アジア東部の草原に発祥したモンゴル系諸族は,モンゴル国のハルハと内モンゴルのチャハル(東群),バイカル湖周辺のブリヤート(北群),ジュンガリアのオイラートとボルガ流域のカルムイク(西群)に三分される。…

【ブルガリア】より

…彼らは,ドナウ川を数万の単位で渡河して,沿岸部を除くバルカン半島のほぼ全域に移住し,そこでいくつもの小規模な地域共同体を形成して農業に携わった。 一方,カフカスの北のアゾフ海とカスピ海の間の地域にいたアジア系遊牧民のブルガール族は,4世紀の後半にフン族の移動に押されて西に移動し,7世紀のハーン,クブラートKubratの死によって,三つの軍事・部族連合に分裂した。クブラートの息子アスパルフの率いる一団は,ハザル族との戦いに押されて,670年代にドナウ川河口に移動した。…

※「ブルガール族」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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