ノーベル(読み)のーべる(英語表記)Alfred Bernhard Nobel

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ノーベル」の意味・わかりやすい解説

ノーベル
のーべる
Alfred Bernhard Nobel
(1833―1896)

スウェーデン化学者、企業家、ダイナマイトの発明者。ストックホルムに生まれ、1841年生地の小学校に入学、1842年家族とともにサンクト・ペテルブルグに移住以後正規の教育を受けることはなかった。サンクト・ペテルブルグでは、ノーベルの関心をニトログリセリンに向けた化学者ジーニンらに個人教授を受けた。17歳でスウェーデン、ドイツ、フランス、イタリア、アメリカへ2年間の修業に出て、化学や機械学、語学を学んだ。クリミア戦争(1853~1856)の間は父の軍需工場を手伝い、機雷敷設など実際的な技術を学んだ。1863年ストックホルムに戻り、黒色火薬綿火薬にかわる、ニトログリセリンの研究を父とともに開始した。

 ニトログリセリンは衝撃や摩擦で爆発するが、普通の火薬のように点火しただけでは爆発しない。これを爆薬に使うには安全で確実な爆発方法の開発が必要であった。ノーベルはヘレーネボルグに建てた実験所で50回を超える慎重な実験を行い、ニトログリセリンの爆発には全量を急激に爆発温度(170~180℃)に熱する必要があることを確かめた。1864年、密閉したニトログリセリンを起爆装置を使って爆発させることに成功、いわゆる「雷管」の特許を得た。このときの起爆剤は黒色火薬であったが、のちに雷酸水銀を使った。1866年、扱いにくい液体のニトログリセリンを固体状にするために、それを吸収させる固形物の実験を開始、1867年、珪藻土(けいそうど)にニトログリセリンをしみ込ませたダイナマイトを開発した。この間、ニトログリセリンの普及で爆発事故が相次ぎ、ノーベル自身弟を事故で失うなど多くの犠牲者が出て国際的物議を醸したが、彼は科学的、系統的な実験を繰り返した。1876年、より爆発力の大きいダイナマイトゴムを、1887年には200回以上の実験のすえ無煙ニトログリセリン火薬「バリスタイト」を開発した。

 ダイナマイトは、産業資本を成立させた欧米諸国の帝国主義への飛躍の時代に、鉄道・土木ならびに軍事技術上の貴重なエネルギー源となった。各国にダイナマイト工場が建設され、1886年世界最初の国際的特殊会社「ノーベル・ダイナマイト・トラスト」を創設、ノーベルは巨万の富を得た。彼自身は平和を愛し、科学の進歩に信頼を寄せていたといわれる。彼が生涯に各国でとった355の特許は広い分野にわたり、世界市民を自称し、1873年フランスに、1891年からはイタリアに居を構え、1896年12月サン・レモで死去。その膨大な遺産は、平和思想の普及と科学進歩のためにとストックホルム科学アカデミーに寄贈され、ノーベル賞が設けられた。

[高橋智子]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ノーベル」の意味・わかりやすい解説

ノーベル
Nobel, Alfred Bernhard

[生]1833.10.21. スウェーデン,ストックホルム
[没]1896.12.10. イタリア,サンレモ
スウェーデンの化学者,技術者,事業家。ノーベル賞の提供者。発明家であった父の事業が失敗したため,正規の教育は受けなかった。1842年ストックホルムを去り,父親が新たに事業を興したロシアのサンクトペテルブルグで合流し,家庭教師について化学,諸外国語を学ぶ。その後 1850年にパリ,翌 1851年にアメリカ合衆国で学んでサンクトペテルブルグに戻り,父の工場で働いた。1859年工場が破産,スウェーデンに帰国してニトログリセリンの製造工場を興した。1864年には爆発事故で弟を亡くし,政府から工場閉鎖を命じられてからはニトログリセリンの持ち運びや取り扱いの安全対策に着手,これがダイナマイトの開発につながり,1867年特許を得た。1876年にはさらに高性能火薬である爆発ゼラチンを,1890年頃には最初の無煙火薬を発明し,世界各地で爆薬製造工場を営み,巨富を得た。その一方で健康問題を抱え,生涯独身を通し子供をもたなかった。死の約 1年前の 1895年に作成された遺書には,ノーベル賞創設の基金として多額の財産をスウェーデン王立科学アカデミーに贈ることが記されていた。

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