1941年製作のアメリカ映画。〈マーキュリー劇団〉の主宰者で,1938年10月30日,ハロウィン(万聖節)の前夜に放送してアメリカ中をパニック状態におとしこんだラジオ・ドラマ《火星人襲来》以来すっかり有名になり,〈ワンダーボーイ(神童)〉の名をほしいままにしていた当時25歳のオーソン・ウェルズが,チェース・ナショナル銀行と並ぶ大株主だったネルソン・ロックフェラーの推薦により,経営上の危機を迎えていたハリウッドの映画会社RKOに招かれてつくった初の監督作品。新人監督としては異例の6本契約を結び,製作に関するすべての権限と自由を保証されてつくったことでも伝説的な映画である。ウェルズは当初,映画化の題材として,J.コンラッドの小説《闇の奥》,イギリスの詩人C.D.ルイスがニコラス・ブレークの名で書いたスパイ・スリラー小説などを考えていたが,結局,脚本家H.J.マンキーウィッツ(1897-1953)が《ニューヨーク・タイムズ》の記者時代からもっていたアイデアであるという〈新聞王〉W.R.ハースト(1863-1951)をモデルにした《市民ケーン》に決まった。新聞界の大立者として権力と財力をわがものにしたチャールズ・フォスター・ケーンという男が,〈バラのつぼみ〉という謎めいたことばを残して孤独のうちに死んだところから始まり,それを伝えたニュース映画の記者が〈バラのつぼみ〉の意味をもとめてケーンの生涯を追い,かかわりのあった人物の回想を通してケーンの人物像と生涯の意味が浮かびあがってくる構成。
ふつうのストーリー・テリングに見られる時間的配列を解体して進行し(例えば冒頭でケーンの生涯が紹介されてしまう等々),また,広角レンズを多用し,クレーンを駆使した大胆で奔放な演出が異彩を放った。ニューヨークの近代美術館で映画を見て撮影技法を研究し,とくにジョン・フォードの《駅馬車》(1939)を40回も見たとはいえ,実際に映画を撮った経験のないウェルズを助けたのは,アカデミー撮影賞を受賞した《嵐が丘》(1939)をはじめ《怒りの葡萄》《果てなき旅路》(ともに1940)でいわゆる〈パンフォーカス〉(英語ではディープフォーカスdeep focus)技法を実験していた名カメラマン,グレッグ・トーランドである。トーランドは4人の撮影スタッフを伴って撮影を担当し,〈パンフォーカス〉技法を完成させるとともにウェルズの〈ワンシーン・ワンカット〉演出を可能にした。ハーストをモデルにしているということで,映画はハースト系の新聞の総力をあげての圧力と妨害によって大都市主要劇場での上映をキャンセルされ,批評家やニューヨークの観客の間では好評だったが,興行的には惨敗。こうしためんどうを起こしたウェルズに対するハリウッドの風当りも強く,その反応はアカデミー賞の授与をめぐって如実に示され,監督賞,撮影賞をはじめ九つの部門でノミネートされながら脚本賞の受賞だけにとどまった。あまりにも〈革新的〉な芸術家には〈報復〉措置をとるのが映画王国ハリウッドの掟といわれるとおり,ウェルズは〈問題児〉の烙印(らくいん)を押され,RKOとの契約もすべてキャンセルされ,結局,ハリウッドの外に仕事の場を見つけなければならなかった。
世界の映画にもっとも重要な影響をあたえたといわれる《市民ケーン》は,ヨーロッパでとくに高く評価され,フランスの〈ヌーベル・バーグ〉の生みの親である映画理論家A.バザンは,46年にパリでこの映画を見て,カットつなぎに基づく〈モンタージュ〉ではなく長回しのカメラによる〈ワンシーン・ワンカット〉に基礎をおいた新しい映画美学のモデルを発見し,マルセル・カルネ監督《日は昇る》(1939),ジャン・ルノアール監督《ゲームの規則》(1939),チャップリンの《殺人狂時代》(1947)と並んでもっとも感銘を受けた映画に数えている。その後,時とともに評価が高まり,さまざまな機会に世界の映画批評家によって映画史上の最優秀作品に選ばれている。
なお,脚本については,スクリーンライターズ・ギルド(脚本家組合)が間に入ってマンキーウィッツ,ウェルズの順でクレジットが表示されたトラブルのいきさつがあり,P.ケールは,実質的な〈著作者〉はマンキーウィッツであると主張したが,これに対してウェルズを支持するP.ボグダノビッチやJ.マクブライドやA.サリスが反論し,1978年には,RKOの資産を引き継いだRKO・ジェネラル社に残されていた脚本と撮影台本その他の資料を検討したR.キャリンジャーが,〈真の作者〉はウェルズであることを立証したと伝えられている。
執筆者:柏倉 昌美
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
アメリカ映画。1941年作品。製作・監督・共同脚本・主演オーソン・ウェルズ。「バラのつぼみ」ということばを残して死んだアメリカの新聞王チャールズ・フォスター・ケーン(オーソン・ウェルズ)の生前を調査するにつれて、怪物的成功者であった大物の素顔が浮かび上がってくる。結局「バラのつぼみ」は、ケーンが幼いころに愛用した橇(そり)に刻まれていたことばだとわかり、権力をほしいままにふるまっていた大物の人間的孤独の深さが暗示される。ウェルズはこの映画撮影当時25歳の若さで、劇団を主宰して「神童」と注目される存在であった。新聞王W・R・ハーストをモデルにしたといわれるこの作品はウェルズ初監督の長編映画で、過去の時間を大胆に交錯させた構成、モンタージュを使わずに一画面だけで直截(ちょくせつ)な表現をねらったパン・フォーカス(全焦点)撮影など新しい手法を駆使して衝撃を与え、現在では世界映画史上屈指の名作としての評価を得ている。66年(昭和41)日本公開。
[品田雄吉]
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…アメリカの映画監督,俳優。弱冠26歳にして自作自演による《市民ケーン》(1941)で衝撃のデビュー。天才監督の名をほしいままにするが,ハリウッドの商業主義と折り合わず,第2作《偉大なるアンバーソン》(1942)は2時間11分を1時間22分に短縮され,《恐怖の旅路》(1943)は途中で監督を降ろされる。…
…〈ハースト王国〉はその後衰退したものの,彼の死亡した51年現在で全日刊紙発行部数の9.8%(18紙)を傘下に収めていた。オーソン・ウェルズの監督・主演による映画《市民ケーン》のモデルでもある。【香内 三郎】。…
※「市民ケーン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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