日本大百科全書(ニッポニカ) 「ヒ素ミルク事件」の意味・わかりやすい解説
ヒ素ミルク事件
ひそみるくじけん
1955年(昭和30)、森永乳業が製造した乳児用粉ミルクによって生じた人災的ヒ素中毒事件。原因は、同社徳島工場が粉乳の安定剤として混入した第二リン酸ソーダにアルミ工場の廃棄物を利用し、それに大量のヒ素が含まれていたためである。被害は西日本を中心に1都2府25県にわたり、乳児133人が死亡、約1万2000人が中毒にかかった。各地で被害者組織が結成され、刑事・民事訴訟が争われたが、63年の刑事裁判一審(徳島地裁)判決で森永側は無罪となり、被害者側に不利な状況が生まれた。しかし69年、公衆衛生学会で、被害者の多くが脳性麻痺(まひ)など重度障害となったとの後遺症の実態が明らかにされたのを契機に、後遺症の心配はないとしていた厚生省(現厚生労働省)も対策に乗り出し、森永側も因果関係を認めるようになった。
刑事裁判は差し戻され、1973年11月、徳島地裁は森永の刑事責任を認め、元製造課長に禁錮3年の実刑判決を下した。事件発生から18年目であった。また同年10月には「森永ミルク中毒の子供を守る会」と厚生省・森永との間で救済対策の早期実現が合意され、12月、森永は基金30億円を拠出することになり、翌年4月、恒久的な救済機関として財団法人「ひかり協会」が設立された。
[荒 敬]