日本大百科全書(ニッポニカ) 「ビットリオ・エマヌエレ」の意味・わかりやすい解説
ビットリオ・エマヌエレ(2世)
びっとりおえまぬえれ
Vittorio Emanuele Ⅱ
(1820―1878)
サルデーニャ国王(在位1849~61)、初代イタリア国王(在位1861~78)。父王カルロ・アルベルトが、第一次イタリア独立戦争でノバーラにおいて敗北(1849年3月23日)し、退位したため王位につき、オーストリアと休戦条約を結んだ。首相にダゼリオを選び、聖職者の特権に制限を加えるシッカルディ法を成立させ、その後カブールを首相にして市民婚法を通過させ、君主制の権威を確立した。クリミア戦争では、カブールと組んで、サルデーニャ軍を派兵し、ナポレオン3世を味方に引き入れて第二次イタリア独立戦争を行った。ガリバルディとは、両者の武人肌の性格から息があい、彼によって、千人隊の南イタリア遠征による解放地はビットリオ・エマヌエレ2世に献上された。カブールの死(1861)後、議会に対して強力な影響力を行使し、一種の宮廷政治を行った。イタリア王国の建国という偉業を成し遂げたことから、「建国の父」とよばれる。
[藤澤房俊]
ビットリオ・エマヌエレ(3世)
びっとりおえまぬえれ
Vittorio Emanuele Ⅲ
(1869―1947)
イタリア国王(在位1900~46)。父王ウンベルト1世が無政府主義者ブレーシに暗殺されたのち、王位についた。内政はジョリッティに任せ、もっぱら外交に関心を示し、三国同盟を堅持する一方で、フランス、イギリスにも接近した。また、リビア征服のためにイタリア・トルコ戦争を支持し、第一次世界大戦では参戦を主張した。また、ムッソリーニのローマ進軍(1922)に際して、戒厳令の署名を拒み、ファシズム勢力を吸収できると考えて、結局ムッソリーニに組閣を命じた。ファシズム体制下では、エチオピア皇帝(在位1936~42)、アルバニア王(在位1939~43)も兼ねた。1943年7月、ムッソリーニを逮捕し、バドリオ将軍を首相に据え、同年9月8日の休戦条約でローマを放棄し、南イタリアのブリンディジに避難した。46年に息子のウンベルト2世に王位を譲り、翌年エジプトのアレクサンドリアで死去。
[藤澤房俊]
ビットリオ・エマヌエレ(1世)
びっとりおえまぬえれ
Vittorio Emanuele Ⅰ
(1759―1824)
サルデーニャ国王(在位1802~21)。ビットリオ・アメデオ3世の四男。カルロ・エマヌエレ4世の退位後王位につき、ウィーン体制下の王政復古時代には絶対主義・反自由主義的政策を行い、ナポレオン1世支配時代に導入された法律を廃止した。彼はまた、ポー川流域平野に王国を拡大しようとする野心をもち、オーストリアの敵対心を惹起(じゃっき)した。1821年のピエモンテ革命において、憲法発布を拒み、王位を弟のカルロ・フェリーチェに譲った。
[藤澤房俊]