日本大百科全書(ニッポニカ) 「ビージーズ」の意味・わかりやすい解説
ビージーズ
びーじーず
Bee Gees
イギリス出身の兄弟のボーカル・トリオ。移住先のオーストラリアで活動を開始、1970年代後半のディスコ・ブームを経て、長くトップ・ポップ・グループとして活躍してきた。メンバーは、マンチェスターで生まれたバリー・ギブBarry Gibb(1946― )と、マン島で生まれた双子の兄弟モーリス・ギブMaurice Gibb(1949―2003)とロビン・ギブRobin Gibb(1949―2012)である。
音楽好きだった彼らは幼いころから人前で歌っていたが、本格的に活動を始めるのは1958年、家族がオーストラリアのブリスベーンに引っ越してからだった。彼らはバリーの頭文字を取ってビージーズと名乗り、1962年にレコーディングのチャンスをつかむ。そしてデビュー曲「スリー・キシーズ・オブ・ラブ」を吹き込んでからというもの、テレビやラジオに引っ張りだことなった。1966年、「スピックス&スペックス」が同国でヒット・チャート1位を獲得。しかし一家は大志を抱いた3人と一緒にイギリスへ戻った。
1967年のイギリスでのデビュー曲「ニューヨーク炭坑の悲劇」に始まって、「ホリデイ」「トゥ・ラブ・サムバディ」と立て続けにヒットさせ、「マサチューセッツ」がイギリスのほか、西ヨーロッパ各国で大ヒットとなった。当時は、ブルースなどの黒人音楽に影響を受け若者のエネルギーを発散するロック・ムーブメントが真っ盛りの時期だったが、そういった息吹を吸収しつつも、ビージーズの歌声とサウンドはあくまでも穏やかでメランコリックであり、こういった姿勢が誰にでも拒絶反応なく受け入れられたのだった。ちなみに当時の代表曲の一つ「トゥ・ラブ・サムバディ」は、本来ソウル・ミュージックの大物シンガー、オーティス・レディングのために彼らが書き下ろした曲だったが、完成したときにレディングはすでにこの世になく、代わりに彼ら自身が録音した。その聞き心地は、レディングが歌えば必ずや熱唱型となったはずのものが、やはりビージーズらしく優しく訴えかけるといったタッチであった。
1970年、グループはバリーとモーリスの2人がビージーズを名乗り、ロビンがソロ・アルバムを出すという分裂状態に陥った。しかしその後、再び元の鞘(さや)に戻ってリリースした「イン・ザ・モーニング」「ハウ・キャン・ユー・メンド・ア・ブロークン・ハート」などは、またも好評を博した。特に前者は、少女と少年の恋物語を描いて大ヒットした映画『小さな恋のメロディ』(1971、ワリス・フセインWaris Hussein(1938― )監督)のなかに登場する1曲だった。日本におけるビージーズは、この曲や「メロディ・フェア」「若葉のころ」などが『小さな恋のメロディ』に使われたことで若年層にもその名前が伝わるようになった。
ビージーズがイギリス出身のヒット・メーカーから、世界のスーパースターへと変貌するのは、それから6、7年後のことである。ジョン・トラボルタJohn Travolta(1954― )主演の映画『サタデー・ナイト・フィーバー』(1977、ジョン・バダムJohn Badham(1939― )監督)のサントラにビージーズの曲が使われたことが大きなきっかけとなった。「ステイン・アライブ」「ハウ・ディープ・イズ・ユア・ラブ」「ナイト・フィーバー」などの曲が、ディスコ・ブームを象徴するナンバー・ワン・ヒットとなったのである。それまでバリーがファルセット(裏声)で歌うなど、ソウル・ミュージック・コーラスの形式に近づきつつあったビージーズだったが、音楽的に黒人らしさを避け、あくまで軽さを装うというポリシーは貫かれ、それが大ブレイクの要因となった。ビージーズは1977年度と1978年度のグラミー賞で計5部門の賞を獲得しているが、すべて『サタデー・ナイト・フィーバー』に関連した曲である。
1980年代に入ってバリーは、バーブラ・ストライサンドやディオンヌ・ワーウィックDionne Warwick(1940― )ら大物シンガーのプロデュースを手がけ、成功を収めた。しかしビージーズの人気はディスコ・ブームが終わってからは徐々に落ちこんでいった。彼らの活動も以前に比べれば活発ではなくなり、また「シャドウ・ダンシング」などのナンバー・ワン・ヒットをもつ弟のアンディ・ギブAndy Gibb(1958―1988)がコカイン中毒で死亡するなど1980年代は順調とはいえなかった。
1987年、久しぶりにアルバム『E. S. P.』をリリース。それ以後、ゆったりとしたレコーディング活動を続けてきたが、2003年にモーリスが亡くなったため、グループは活動を休止した。
[藤田 正]