ピックフォード(英語表記)Mary Pickford

改訂新版 世界大百科事典 「ピックフォード」の意味・わかりやすい解説

ピックフォード
Mary Pickford
生没年:1893-1979

アメリカ映画女優。〈アメリカの恋人〉,さらには〈世界の恋人〉とうたわれたサイレント初期の伝説的なスターである。本名グラディス・スミス労働者であった父の死後,5歳のときから家計を助けるため巡業劇団で〈ベビー・グラディス〉の愛称舞台に立ち,14歳のときブロードウェーでデビッド・ベラスコの劇団に加わってメリー・ピックフォードを名のった。スター・システムによるアメリカ映画の勃興期で,1909年,16歳のときに週給40ドルでバイオグラフ社に入り,D.W.グリフィス監督に出会い,〈バイオグラフ・ガール〉として売り出し,〈可愛いメリーLittle Mary〉と呼ばれて人気を得,その後,アメリカ映画初期の各社を転々として,17年にファースト・ナショナル社と契約したときは1本の出演料が35万ドル,脚本,監督,共演者の選択権をあたえられるという破格の〈出世〉ぶりで,《農場レベッカ》《小公女》(ともに1917),《闇に住む女》(1918),《春のおとずれ》《孤児生涯》(ともに1919)といった彼女の代表作となる数々の作品を通して,〈チャイルド・ウーマン(子どものような女)〉の魅力で(《ポリアンナ》(1920)では27歳で12歳の役を演じた),世界的な人気スターになった。19年,すぐれた映画をつくることを目的にかかげて恋人の俳優ダグラスフェアバンクス,監督のグリフィスチャップリンと4人でユナイテッド・アーチスツ社を設立。実業家ではなく〈芸術家(アーチスツ)〉の結束による最初の映画会社としてグリフィスの《散り行く花》(1919),《東への道》(1920),チャップリンの《巴里の女性》(1923),《黄金狂時代》(1925)などを世に送った。20年,〈アメリカの快男子〉として人気絶頂の大スター,フェアバンクスと結婚(2度目の結婚で,1936年に離婚),世紀のロマンスと騒がれ,2人の名まえを結んで名づけられた豪邸ピックフェア〉とともに語りぐさとなった。

 その後,初めてのトーキー《コケット》(1929)でアカデミー主演女優賞を受賞したが人気の衰えは否定できず,フェアバンクスとの共演作《じゃじゃ馬馴らし》(1929)の興行的失敗もあって,33年には映画界から引退したが,37年には化粧品会社を設立して女実業家ぶりを発揮した。回想録《日向と日陰Sunshine and Shadow》(1955)その他の著書もあり,死後焼却するつもりで買い集めた初期の出演映画のうち,バイオグラフ社時代の作品の多くを70年にアメリカ映画協会(AFI)に寄贈し,75年,アメリカ映画に寄与した功績によってアカデミー特別賞を贈られた。フィルム構成による伝記映画《アメリカの恋人》と《メリー・ピックフォード物語》が78年に公開されている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ピックフォード」の意味・わかりやすい解説

ピックフォード
ぴっくふぉーど
Mary Pickford
(1893―1979)

アメリカの映画女優。カナダのトロント生まれ。8歳で舞台に立ち、16歳で映画界入り。『農場のレベッカ』『小公女』(ともに1917)、『孤児の生涯』(1919)など可憐(かれん)な娘や孤児を演じ、「アメリカの恋人」といわれた。1919年グリフィス、チャップリン、ダグラス・フェアバンクスらとユナイテッド・アーティスツ社を設立、ハリウッドにおけるスター・システムと映画芸術の擁護に貢献した。ダグラスとは一時結婚をし、2人の共演作に『じゃじゃ馬馴(な)らし』(1930)がある。トーキーになって引退したが、舞台・ラジオで活躍、1955年には自伝を出版した。

[畑 暉男]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ピックフォード」の意味・わかりやすい解説

ピックフォード
Pickford, Mary

[生]1893.4.9. トロント
[没]1979.5.29. サンタモニカ
アメリカの映画女優。本名 Gladys Mary Smith。初め舞台に出演していたが,グリフィス作品の清純派ヒロインとして,特に無声映画期のアメリカの恋人と呼ばれるほどの人気スターとなった。主演作品『農場のレベッカ』 (1917) ,『嵐の国のテス』 (22) ,『コケット』 (29,アカデミー主演女優賞) 。

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世界大百科事典(旧版)内のピックフォードの言及

【スター】より


[スター・システム]
 1900年代の初めにフランス映画界の支配者となったシャルル・パテは,映画では俳優の頭から足まで全身がスクリーンに写るように撮影しなければならないと配下の監督たちに指示したと伝えられているが,アメリカのエドウィン・S.ポーター(1869‐1941)やD.W.グリフィスの実験的なクローズアップの使用は,演劇の伝統に固執するパテの考えをくつがえし,俳優の魅力を強調してその人気をさらに高めた。 09年,バイタグラフ社の映画のスチール写真をいれてプロットやあらすじをよびものにした最初のファン雑誌《モーション・ピクチャー・ストーリーズ》が発刊されて,初めてメリー・ピックフォードの名まえが明かされた。続いて《フォトプレイ・マガジン》(1911発刊)その他のファン雑誌が登場してスターの略伝や日常生活にスペースをさきはじめ,14年には《ニューヨーク・ヘラルド》が日曜版にイラスト入りで映画に関するシリーズ記事を連載してスターの動向もとりあげ,スターに対する興味と関心をあおった。…

【散り行く花】より

…〈映画が初めて描いた本物の悲劇〉〈映画における初めての高貴にして偉大なメロドラマ〉と評され,《国民の創生》(1915),《イントレランス》(1916)に次ぐD.W.グリフィス監督の〈第三の傑作〉ともいわれる作品。グリフィスがチャールズ・チャップリン,ダグラス・フェアバンクス,メリー・ピックフォードとともに1919年に創立した配給会社ユナイテッド・アーチスツの第1回配給作品として製作したもので,ピックフォードのすすめでイギリスの作家トマス・バークの短編小説集《ライムハウスの夜》(1916)の中の1編《シナ人と子供》をみずから脚色し,19世紀ロンドン東部の貧民街を舞台に,理想を夢みる中国人の青年と,ボクサーの父に虐待される少女とのロマンスを描いた(バークの原作は探偵小説作家エラリー・クイーンにより,E.A.ポーに始まる探偵小説史上重要な短編のアンソロジー《クイーンの定員》にも収録された〈巧妙な殺人物語〉(クイーン)であるが,グリフィスはその猟奇的な落ちを捨てた)。 ドイツから表現主義の映画《カリガリ博士》(1919)が輸入されて,〈映画芸術(フィルム・アート)〉ということばが新しくアメリカ語になったころで,〈ソフトフォーカスのリリシズム〉と〈クローズアップの多用を控えた抑制の利いた編集〉にはグリフィスが〈芸術〉を意図した跡が見られ,〈ディケンズがカメラで語ったようだ〉とも〈グリフィスは絶叫することばかりでなくささやきかけることにかけても達人であることを証明した〉とも評された。…

【バークリー】より

…アメリカのミュージカル(舞台および映画)の振付師,映画監督。1930年,ブロードウェーからハリウッドへ招かれ,メリー・ピックフォードの唯一のミュージカル《キキ》(1931)などの振付を担当。ワーナー・ブラザースのレビュー映画《四十二番街》(1933),《ゴールド・ディガース》シリーズ(1934‐36)などで舞台の制約を超えて空間を映画的に拡大し,モノレールやクレーンにのせたカメラを自由自在に駆使し,とくに真上(トップ)から大俯瞰でとらえたショットは〈バークリー・トップ・ショット〉とよばれ,コーラスガールの群舞のシーンをまるで幾何学模様のように,あるいは万華鏡のように撮って,華麗でリズミカルな場面に構成した独創的で大胆なカメラワークは,ミュージカル映画史上もっとも視覚的な効果を生み出した画期的な映画技法とみなされる。…

【ユナイテッド・アーチスツ[会社]】より

…日本ではユナイト映画の略称でも通じている。1919年,当時のアメリカの代表的映画人であったチャールズ・チャップリン,俳優のダグラス・フェアバンクス,女優のメリー・ピックフォード,監督のD.W.グリフィスの4人によって設立された。実業家ではなく〈アーチスツ(芸術家たち)〉による最初の映画会社で,質的にすぐれた映画の製作を目的に,ハリウッドの〈撮影所システム〉に従属せず,みずからの手で製作資金を調達し,みずからの手でその作品を配給することをモットーとし,撮影所も所有せずに必要に応じて施設を借り,むだな間接費をはぶく政策をとった。…

※「ピックフォード」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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