ユナイテッドアーチスツ会社(英語表記)United Artists Corp.

改訂新版 世界大百科事典 の解説

ユナイテッド・アーチスツ[会社]
United Artists Corp.

アメリカの映画製作および配給会社。かつてのハリウッドの〈メジャー〉の一つ。日本ではユナイト映画の略称でも通じている。1919年,当時のアメリカの代表的映画人であったチャールズ・チャップリン俳優ダグラスフェアバンクス女優のメリー・ピックフォード,監督のD.W.グリフィスの4人によって設立された。実業家ではなく〈アーチスツ(芸術家たち)〉による最初の映画会社で,質的にすぐれた映画の製作を目的に,ハリウッドの〈撮影所システム〉に従属せず,みずからの手で製作資金を調達し,みずからの手でその作品を配給することをモットーとし,撮影所も所有せずに必要に応じて施設を借り,むだな間接費をはぶく政策をとった。フェアバンクス主演の《ダグラス大王》(1919),グリフィス監督の《散り行く花》(1919)および《東への道》(1920),ピックフォード主演の《青春の夢》(1920),チャップリン監督の《巴里の女性》(1923)および《黄金狂時代》(1925)などがつくられたが,フェアバンクスやピックフォードの人気は永続的なものではなく,チャップリンの仕事はスロー・ペースで,またグリフィスは《東への道》だけは興行的に成功したもののヒット作がなく,24年にはアドルフ・ズーカーと契約してパラマウントへ去ってしまう。

 25年にはジョゼフ・M.スケンクJoseph M.Schenck(1878-1961)がユナイテッド・アーチスツの社長に就任,ルドルフ・バレンチノ,グロリア・スワンソン,バスター・キートンといったスターと契約し,プロデューサーのサミュエル・ゴールドウィン傘下にいれて20年代を維持した。30年代に入ると,ハワード・ヒューズ製作の《地獄の天使》(1930)や《暗黒街の顔役》(1932)などによって業績を残し,さらにロンドン・フィルムのアレクサンダー・コルダとも手を結んで大作《ヘンリー八世の私生活》(1933)などを配給した。

 その後,会社の支配権をめぐる経営陣の交代がつづき,配給作品にも恵まれず,ゴールドウィンとコルダが持株を会社に売却して退き,創立者であるチャップリンとピックフォードも多くの株を手離したため,48年から53年まで大きな危機を迎えるが,アーサー・クリムらを首脳とする新しいシンジケートに引き継がれたのちは,50年代後半から60年代初めにかけて,数多く台頭した独立プロダクションの作品の配給によって業績を盛り返し,デルバート・マン監督《マーティ》(1955),ジョン・スタージェス監督《荒野の七人》(1960),ロバート・ワイズ,ジェローム・ロビンズ監督《ウェスト・サイド物語》(1961),《007は殺しの番号》(1962)をはじめとする〈007〉シリーズ,トニー・リチャードソン監督《トム・ジョーンズの華麗な冒険》(1963)等々のヒット作を出した。

 コングロマリットの時代を迎えて,ハリウッドのいくつかの映画会社はマンモス企業に吸収されたが,67年にはユナイテッド・アーチスツも生命保険を主とする複合企業トランザメリカ社の子会社として吸収された。その後,ワーナー・ブラザースの1948年以前の作品を取得し,また自社作品のほかに,73年に配給部門を閉鎖したMGMの作品も配給するようになり,ミロス・フォアマン監督《カッコーの巣の上で》(1975),シドニー・ルメット監督《ネットワーク》(1976),ジョン・アビルドセン監督《ロッキー》(1976)など,アカデミー賞受賞のヒット作によって,ハリウッドで屈指の業績を誇る会社になったが,それもつかのま,その後は不振が続き,79年にはMGMに買収された。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のユナイテッドアーチスツ会社の言及

【映画】より

… ブロックブッキングの制度によって,1930年代のハリウッドはその全盛期を迎える。35年には,ロックフェラー財閥とモルガン財閥という2大金融資本の支配下で,パラマウント,ワーナー・ブラザース,MGM,20世紀フォックス,RKO,ユニバーサル,コロムビア,ユナイテッド・アーチスツの大手8社(〈メジャー〉の名で呼ばれた)がMPPA(アメリカ映画製作者連盟)を組織し,配給の95%を独占。パラマウント,ワーナー,MGM,20世紀フォックス,RKOの5大会社だけでアメリカ映画のほぼ80%を製作し,4000館の一流封切館を所有し,総売上高(興収)の88%を稼ぎ出していたといわれる。…

【チャップリン】より

… そして早くも《チャップリンの替玉》(1916)その他で単なる笑劇から風刺劇へ変わっていくその後の作品の原形を示し,18年にファースト・ナショナル社と契約して製作上の完全な自由を得てからは,〈スラプスティック〉,すなわちドタバタの笑いのパターンとは異質の新しい笑い,人間的なユーモアと風刺へ昇化した笑いの創造を目ざし,〈戦いの神の犠牲〉にささげられたあわれな兵隊をペーソスと風刺をこめて描いた《担へ銃》(1918)や,社会的風刺が加わった最後の短編《偽牧師》(1923)を作り出している。19年にメリー・ピックフォード,ダグラス・フェアバンクス,D.W.グリフィスと共同で設立したユナイテッド・アーチスツ社でつくった《巴里の女性》(1923),《黄金狂時代》(1925),《サーカス》(1928)をへて,《街の灯》(1931)に至って,冒頭に〈コメディ・ロマンス・イン・パントマイム〉というタイトルがかかげられ,ユーモアとペーソス,笑いと涙のチャップリン映画が完成する。 すでにそのころアメリカではトーキー映画時代を迎えていたが,チャップリンは最後までトーキーに反対し,映画は〈純粋に視覚的な新しい芸術形式〉であると信じ,〈映画は沈黙の芸術である〉,トーキーは〈世界最古の芸術であるパントマイムを亡ぼそうとしている〉とも語っている。…

【散り行く花】より

…〈映画が初めて描いた本物の悲劇〉〈映画における初めての高貴にして偉大なメロドラマ〉と評され,《国民の創生》(1915),《イントレランス》(1916)に次ぐD.W.グリフィス監督の〈第三の傑作〉ともいわれる作品。グリフィスがチャールズ・チャップリン,ダグラス・フェアバンクス,メリー・ピックフォードとともに1919年に創立した配給会社ユナイテッド・アーチスツの第1回配給作品として製作したもので,ピックフォードのすすめでイギリスの作家トマス・バークの短編小説集《ライムハウスの夜》(1916)の中の1編《シナ人と子供》をみずから脚色し,19世紀ロンドン東部の貧民街を舞台に,理想を夢みる中国人の青年と,ボクサーの父に虐待される少女とのロマンスを描いた(バークの原作は探偵小説作家エラリー・クイーンにより,E.A.ポーに始まる探偵小説史上重要な短編のアンソロジー《クイーンの定員》にも収録された〈巧妙な殺人物語〉(クイーン)であるが,グリフィスはその猟奇的な落ちを捨てた)。 ドイツから表現主義の映画《カリガリ博士》(1919)が輸入されて,〈映画芸術(フィルム・アート)〉ということばが新しくアメリカ語になったころで,〈ソフトフォーカスのリリシズム〉と〈クローズアップの多用を控えた抑制の利いた編集〉にはグリフィスが〈芸術〉を意図した跡が見られ,〈ディケンズがカメラで語ったようだ〉とも〈グリフィスは絶叫することばかりでなくささやきかけることにかけても達人であることを証明した〉とも評された。…

【ピックフォード】より

…スター・システムによるアメリカ映画の勃興期で,1909年,16歳のときに週給40ドルでバイオグラフ社に入り,D.W.グリフィス監督に出会い,〈バイオグラフ・ガール〉として売り出し,〈可愛いメリーLittle Mary〉と呼ばれて人気を得,その後,アメリカ映画初期の各社を転々として,17年にファースト・ナショナル社と契約したときは1本の出演料が35万ドル,脚本,監督,共演者の選択権をあたえられるという破格の〈出世〉ぶりで,《農場のレベッカ》《小公女》(ともに1917),《闇に住む女》(1918),《春のおとずれ》《孤児の生涯》(ともに1919)といった彼女の代表作となる数々の作品を通して,〈チャイルド・ウーマン(子どものような女)〉の魅力で(《ポリアンナ》(1920)では27歳で12歳の役を演じた),世界的な人気スターになった。19年,すぐれた映画をつくることを目的にかかげて恋人の俳優ダグラス・フェアバンクス,監督のグリフィス,チャップリンと4人でユナイテッド・アーチスツ社を設立。実業家ではなく〈芸術家(アーチスツ)〉の結束による最初の映画会社としてグリフィスの《散り行く花》(1919),《東への道》(1920),チャップリンの《巴里の女性》(1923),《黄金狂時代》(1925)などを世に送った。…

※「ユナイテッドアーチスツ会社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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