フェデラリスツ(英語表記)Federalists

改訂新版 世界大百科事典 「フェデラリスツ」の意味・わかりやすい解説

フェデラリスツ
Federalists

アメリカ建国初期の政党フェデラリスト党Federalist Partyとも呼ばれ,連邦派,連邦党とも訳される。1787年起草の連邦憲法案に対しては各州の憲法批准会議でかなりの反対が予想されていた。A.ハミルトン,J.ジェー,J.マディソンらの憲法案支持派は,そうした状況の中でいち早くみずからを〈フェデラリスツ〉と称して,従来の連合規約との継承性を装った。結局,憲法反対派はアンチ・フェデラリスツという消極的表現をとらざるをえず,各州の憲法会議で激しく争ったが敗れ,連邦憲法案は発効した(1788)。フェデラリスツは大統領に超党派的な人物であるG.ワシントンをかつぎ出すことに成功し,財務長官には若手で有能なハミルトンが座り,彼を中心に一連の政策が強行されることになった。すなわち,ハミルトンは公債の元利保証を中心とする合衆国財政の再建,合衆国銀行の創設,通貨の統一,軽度の保護関税の設定などにより,国民経済の基礎を築き,対外的には英仏の抗争に際し中立政策をとり,ジェー条約(1794)でイギリスとの和解を図った。ハミルトンは基本的にはイギリスをモデルとして,通商立国,海洋国家の建設を目ざしたわけであるが,当時のアメリカ人は圧倒的に農民であり,西部に広大な空間をひかえ,1800年の大統領選挙では農業立国,大陸国家論のT.ジェファソンリパブリカンズ(アンチ・フェデラリスツの後身)が勝利をおさめる。本来エリート志向のフェデラリスツは大衆の投票獲得装置としての組織に弱く,1816年には党としても消滅する。しかし,その考え方は後に,ホイッグ,さらに共和党に引き継がれてゆく。
筆者

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百科事典マイペディア 「フェデラリスツ」の意味・わかりやすい解説

フェデラリスツ

独立当時の米国で連邦体制の強化と1787年採択の憲法批准促進を唱えた人びと。その動きを背景に1787年―1788年にかけニューヨークの新聞に〈パブリアスPublius〉の筆名で憲法批准促進を目的とした77編の論文が発表された。1788年8編が追加され《ザ・フェデラリスト》としてまとめられた。実際の筆者はA.ハミルトン(51編),J.マディソン(29編),J.ジェー(5編)で,米国政治思想上の古典とされる。連邦政府発足後,1793年ごろハミルトンを中心に与党的党派としてフェデラリスト党が形成されたが,1800年の大統領選挙で,T.ジェファソンのリパブリカン党に敗北してから衰退し,1816年には党としても消滅するが,その考え方はホイッグ,さらに共和党に引き継がれた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フェデラリスツ」の意味・わかりやすい解説

フェデラリスツ

連邦派」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内のフェデラリスツの言及

【共和党】より

…シンボルマークはゾウ。 歴史的には,建国期のフェデラリスツ,1830年代以降のホイッグ党の流れをくむ。19世紀中葉に民主党が南部プランター勢力の政党と化するに及び,それに対抗して東北部の新興産業資本勢力と中西部の自営農民層との連合体として組織された。…

【ジェファソン】より

…しかし当時国務長官の権限は限られており,新興国としてのアメリカの基礎づくりは,財務長官A.ハミルトンの手になることが多かった。両者は財政政策・外交政策をめぐって激しく対立し,この対立は,アメリカ最初の全国的政党――フェデラリスツおよびリパブリカンズ――の形成に発展した。ジェファソンはリパブリカンズの代表的人物と見なされた。…

※「フェデラリスツ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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