デジタル大辞泉 「マディソン」の意味・読み・例文・類語
マディソン(James Madison)
マディソン(madison)
[補説]選手の交代時には、必ず相手の手または体に触れなければならない。
アメリカ合衆国第4代大統領。在職1809-17。〈連邦憲法の父〉とも呼ばれる。バージニア西部のプランターの長男として生まれ,ニュージャージー大学(現在のプリンストン大学)卒業。1776年に25歳の若さで州憲法制定会議の代議員に選ばれ,州行政参議会員を経て大陸会議の代議員となる。80年から約4年間大陸会議の代議員を務めたが,職業政治家として政治に専念できる人間が少ない当時にあって大陸会議の活動に専心し議事に精通することによって,大陸会議の指導的な代議員に成長した。次いでバージニア州代議院議員を務め,86年にはバージニア信教自由法の制定に貢献した。翌87年5月にフィラデルフィアで招集されたいわゆる連邦憲法制定会議では,連合規約の全面的な改正を目ざすバージニア・プラン提案のイニシアティブをとり,連邦憲法案の起草を導いた。連邦憲法案の批准過程ではA.ハミルトンやJ.ジェーとともに《フェデラリスト》を著して連邦憲法案を擁護し,88年6月にバージニア州の批准を達成させた。連邦憲法制定後は連邦下院議員となり連邦憲法の権利章典第1修正から第10修正の採択を導いたが,ワシントン政権の外交政策およびハミルトン財務長官の財政政策には強硬に反対する立場をとり,野党リパブリカンズを組織した。さらにアダムズ政権の〈外人法・治安法〉に反対するケンタッキー・バージニア決議を採択させ,1800年のトマス・ジェファソンの大統領当選に貢献した。その後国務長官,大統領を歴任したが,大統領在職中の英米戦争で大統領公邸(現在のホワイト・ハウス)の焼打ちにあう。晩年はバージニア大学の創設に寄与した。マディソンが《フェデラリスト》第10編で著した,党派利害の多様性は自由および公共善の実現にとって好ましい条件であるという見解は,多元主義政治学派に受け継がれ,アメリカ政治学の始祖と仰がれている。
執筆者:五十嵐 武士
アメリカ合衆国ウィスコンシン州南部にある同州の州都。人口22万1551(2005)でミルウォーキーに次ぎ同州2位。モノナ湖とメンドータ湖との間に位置し,周囲には氷河湖が多い。農業・酪農地帯の中心地で,食肉加工,酪製品,農業機械,肥料などの軽工業が立地する。政府関係の就業人口が多く,白い花コウ岩を用いたイタリア・ルネサンス様式の州会議事堂の建物が市の中心に位置する。同州の高等教育の中心地で,1849年創立のウィスコンシン大学は,メンドータ湖岸に美しいキャンパスをもち,同市の発展に大きな役割を果たしてきた。1836年ウィスコンシン準州の創設により州都となり,合衆国第4代大統領ジェームズ・マディソンにちなんで命名された。
執筆者:矢ヶ崎 典隆
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
アメリカ合衆国第4代大統領(在任1809~17)。バージニア植民地に生まれ、1771年プリンストン大学卒業。反英運動に参加し、75年オレンジ郡安全委員会に選出され政治家としての活動を始める。76年に一時バージニア議会の議員を務めたのち、80~83年大陸(連合)会議代表。87年には連邦憲法制定会議の代表となり、草案決定後はハミルトンやジェイとともにその批准に努力した。89~97年連邦下院議員となり、リパブリカンの指導者として活躍。1801~09年国務長官。09年大統領となり、「一八一二年戦争」(対イギリス戦争)を指導。
マディソンの事績中、「バージニア信教自由法」の成立に貢献したことと、『ザ・フェデラリスト』の共著者となったことはとくに有名。「信教自由法」は政教分離を確定した最初の立法として名高く、ジェファソン起草の法案が1781年に邦議会に提出されて86年に成立をみるまで、駐仏公使であったジェファソンにかわってマディソンが保守派に対抗して議会活動を推進した。『ザ・フェデラリスト』はアメリカ政治思想史上の古典であり、マディソンはその全85編のうち二十数編を執筆している。とくに、アメリカ合衆国憲法の特質として知られる三権の抑制均衡を説いた第51編は彼の手になるものであった。
[島川雅史]
『ハミルトン、ジェイ、マディソン著、斎藤眞訳『ザ・フェデラリスト』(『世界の名著 33』所収・1970・中央公論社)』▽『ラルフ・ケッチャム著、佳知晃子監訳『アメリカ建国の思想』(1976・時事通信社)』
アメリカ合衆国、ウィスコンシン州中南部、モノナ湖とメンドタ湖に挟まれた都市で、同州の州都。人口20万8054(2000)。豊かな農業地帯に位置し、商工業の中心地であり、自動車部品、工作機械、医療器具、精肉など多種工業が発達している。1836年にウィスコンシン準州の州都として町が建設され、1856年より市制が施行された。ウィスコンシン大学(1849年開学)マディソン校を中核にセイクレッド・ハート・エッジウッド校(カトリック系)、マディソン大学などが所在し、優れた美術館、図書館も多い。湖と豊かな緑に包まれた落ち着いた町並みには定評があり、市の中央部にあるルネサンス風の州議事堂(1917完成)は、市のシンボルとして親しまれている。地名は4代大統領J・マディソンにちなむ。
[作野和世]
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1751~1836
アメリカ建国期の政治家。ヴァージニア出身。合衆国憲法の制定に尽力し,ハミルトンらとともに憲法承認を訴える優れた論文集を著した。ジェファソン大統領のもとで国務長官を務め,彼についで大統領(在任1809~17)となり,アメリカ‐イギリス戦争の難局を切り抜けた。政治家であるとともに政治理論家であった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
「マジソン」のページをご覧ください。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…1787年起草のアメリカ連邦憲法案がいよいよ各州憲法会議の批准を得るにあたって,強い抵抗が予想された。ことにニューヨークにおいては反対論が激しかったので,賛成派のA.ハミルトン(後の初代財務長官)はJ.ジェー(後の初代最高裁判所首席裁判官),ニューヨーク滞在中のバージニアのJ.マディソン(〈憲法の父〉と呼ばれ,後の第4代大統領)とともに,ニューヨークの新聞紙上に匿名で憲法賛成論を展開,各地の新聞にも転載された。憲法案批准という具体的な政治的課題と取り組みながら,権力と自由,中央政府と地方政府といった基本問題をとりあげたこの所論は,立憲政治の真髄を説いたものというべく,アメリカ政治学史上の古典の地位を占めている。…
…その展開の様相は,アメリカとヨーロッパではかなり異なっていた。
【アメリカ民主主義の展開】
[マディソンの共和主義]
近代において,民主主義が強く意識されはじめたのはアメリカ独立革命およびフランス革命である。そのいずれにおいても,イデオロギーのレベルに先行して事実のレベルでの民衆エネルギーの解放があったが,その意味を敏感に感じとって,対抗の理論武装を急いだのはまず支配層であった。…
※「マディソン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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