ブテレジ(読み)ぶてれじ(その他表記)Mangosuthu Gatsha Buthelezi

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ブテレジ」の意味・わかりやすい解説

ブテレジ
ぶてれじ
Mangosuthu Gatsha Buthelezi
(1928―2023)

南アフリカ共和国黒人政治家。ナタール州(現、クワズールー・ナタール州)ムラバティニに生まれる。フォートヘア大学卒業後、1953年ブテレジ部族の首長(チーフ)に選ばれ、ズールー王サイプリアンCyprian Bhekuzulu(1924―1968)を補佐する(1953~1958)。1970年ズールーランド原住民統治機構の指導者に任命され、1972年クワズールー・ホームランドが自治国となると同時に首相に就任した。1975年ズールー王国復権、黒人の分離発展政策に反対するインカタInkatha運動を起こし、南ア政府と対立し、また、アフリカ民族会議ANC)と武力衝突を繰り返し、多くの犠牲者を出した。1986年人種差別政策の解決策の一つと称して、ナタール州の白人とともに白人・黒人平等の州議会をつくった。1990年にはインカタ自由党IFP)の議長に就任した。1994年4月の南ア史上初の全人種参加の制憲議会選挙では地方分権を主張して最後まで反対していたが、選挙直前に参加を決定、IFPは得票率10%を獲得した。マンデラ連合政権では内相を務めたが、新憲法策定の制憲議会に反対し、クワズールー・ナタール州の自治を要求した。新憲法制定に際して国民党NP)がマンデラ連合政権を離脱したのに対し、IFPはそのままとどまり、1999年選挙後のムベキThabo Mbeki(1942― )政権でもANCとの連合を続け、ブテレジは2004年まで内相を務めた。

[林 晃史]

『Power is ours(1979, Books in Focus, New York)』『South Africa ; my vision of the future(1990, St.Martin's Press, New York)』『Ben TemkinButhelezi ; a biography(2002, Frank Cass, London)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ブテレジ」の意味・わかりやすい解説

ブテレジ
Buthelezi, Mangosuthu

[生]1928.8.27. マーラバティニ
[没]2023.9.9.
マンゴスツ・ブテレジ。南アフリカ共和国の政治家。フルネーム Mangosuthu Gatsha Buthelezi。ズールー族の有力な首長の家系に生まれた。サウスアフリカン・ネイティブ・カレッジで学んだが,アフリカ民族会議 ANC青年連盟での政治活動が原因で放校処分になり,ナタール大学で歴史とバンツー行政の学位課程を修了。1953年に世襲によりズールー族ブテレジ一族の首長の座を継いだ。1975年に消滅寸前だったズールー文化協会を復興させ,インカタ(民族文化解放運動)と改称。1976~94年にバンツースタンの一つクワズールーの首相を務めた。政府が提案したクワズールーの名目上の独立を拒否しアパルトヘイト(人種隔離)政策に反対したが,他の黒人解放組織の掲げる社会主義的理想と対照的な親資本主義的姿勢をとったため,政府はインカタを利用して白人支配反対派の分裂をはかった。1980年代に反アパルトヘイト運動が強まり,インカタと,トランスバール州およびナタール州の ANC支持者の間で民族的色合いの濃い衝突が増した。ブテレジは ANCおよびその支持組織と政治的リーダーシップをめぐり激しく抗争。この衝突で 1994年までに数千人に上る死者が出た。1990年にブテレジはインカタを政党に転換し,インカタ自由党と改称。同党は 1994年4月の初の全人種参加選挙で約 10%の票を得,ブテレジは国民議会の議席を獲得し,南アフリカ初の黒人大統領となった ANC議長ネルソン・マンデラが率いる連立政権で内務大臣に就任。ムベキ政権でも 2004年まで同職を務めた。

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