プティパ

百科事典マイペディア 「プティパ」の意味・わかりやすい解説

プティパ

ロシア語読みでペチパともいう。フランス生れの舞踊家,振付家。マルセイユの舞踊一家に生まれる。兄のリュシアン〔1815-1898〕は当時パリのオペラ座随一のダンスール・ノーブルといわれた。フランス,スペインなどで舞踊手として活躍したのち,1847年ペテルブルグに招かれる。1862年《ファラオの娘》(プーニ曲)を振り付けて成功を収め,1869年マリインスキー劇場の首席バレエ・マスターに任命される。この後現在でもクラシック(古典バレエ名作として伝承されている《ドン・キホーテ》(1869年),《バヤデルカ》(1877年,以上ミンクス曲),《眠れる森の美女》(1890年),《白鳥の湖》(改訂版1895年,以上チャイコフスキー曲),《ライモンダ》(1898年,グラズノフ曲)などを上演し,ロシア・バレエの黄金期を築いた。その作舞,演出様式は今日でもクラシック・バレエの規範とされている。→L.I.イワーノフジゼルバレエ
→関連項目くるみ割り人形

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「プティパ」の意味・わかりやすい解説

プティパ
Petipa, Marius

[生]1818.3.11. フランス,マルセイユ
[没]1910.7.14. ロシア帝国,グルズフ
フランス生まれのロシアの舞踊家,振付家。舞踊一家に生まれ,父にバレエの手ほどきを受ける。ナント,アメリカ合衆国,パリ,ボルドーマドリードで踊ったのち,1847年ロシア帝国に父とともに招かれ,サンクトペテルブルグの帝室バレエ学校(→マリインスキー劇場バレエ団)の首席舞踊手となる。1862年大作『ファラオの娘』の振り付けで大成功を収め,1869年同バレエ団首席振付家に就任。以後『ドン・キホーテ』(1869),『眠れる森の美女』(1890),『白鳥の湖』(1895),『ライモンダ』(1898)など,1904年に引退するまで 60以上のバレエを創作,17のバレエを改訂,35のオペラの踊りを振り付けて黄金時代を築いた。多幕物のコール・ド・バレエを豊富に登場させる大作が多く,一晩に 1作上演の原則を確立,今日「新古典主義バレエ」の名で呼ばれる構成・様式を完成させ,後世のバレエに多大な影響を与えた。兄リュシアン(1815~98)はロマンチック・バレエ期の有名な舞踊家,娘マリア(1857~1930)もバレリーナとして活躍した。

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改訂新版 世界大百科事典 「プティパ」の意味・わかりやすい解説

プティパ

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「プティパ」の意味・わかりやすい解説

プティパ
ぷてぃぱ

プチパ

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世界大百科事典(旧版)内のプティパの言及

【ペチパ】より

…踊り手,振付師として欧米で活躍中,1847年ロシアのペテルブルグに招かれ,帝室劇場の男性第一舞踊手として活躍。1869‐1903年帝室マリインスキー劇場の首席バレエ・マスターをつとめ,晩年ロシアに帰化し,その名もフランス読みのプティパから,ペチパと呼ばれるようになった。西欧の古典舞踊および民族・風俗舞踊に関する該博な知識と教養によって,その門下から幾多の英才を育て,振付演出においても斬新な技芸を導入。…

※「プティパ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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