ベリコ・タルノボ(読み)べりこたるのぼ(英語表記)Veliko Tǎrnovo

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ベリコ・タルノボ」の意味・わかりやすい解説

ベリコ・タルノボ
べりこたるのぼ
Veliko Tǎrnovo

ブルガリア中北部、スタラ・プラニナ(バルカン山脈の北、ベリコ・タルノボ県の県都。ヤントラ川の曲流による侵食でできた丘陵谷間に位置する。人口9万0504(2001)。

[寺島憲治]

地誌

1965年まではタルノボとよばれていた。首都ソフィアバルナを結ぶ東西に走る国道と、ルセとスタラ・ザゴラを結ぶバルカン山脈横断道路の交差点で交通の要所。12~14世紀の第二次ブルガリア帝国の首都。木工、食品、繊維などの伝統的な産業のほかに、機械、電機産業なども発展している。市内には、大学、博物館、美術館などがあり、北ブルガリアの文化的中心地となっている。

[寺島憲治]

歴史

5~6世紀のビザンティン時代から城塞(じょうさい)があったが、ブルガリアがビザンティンの支配下にあった11~12世紀に、都市として本格的に発展した。1185年にこの地方の領主のペータルとアセンの兄弟がビザンティンの支配に抗して蜂起(ほうき)し、翌々年に第二次ブルガリア帝国が成立すると首都になった。町には、職人街や外国人商人街も形成され、タルノボ派とよばれる文芸や美術上の潮流が興隆した。1393年、オスマン帝国に占領され、一部は灰塵(かいじん)に帰したが、後にトルコ人、ギリシア人、アルメニア人が移住し、イスラム教寺院、隊商宿ハンマーム共同浴場)が建設された。17~18世紀には、バルカン山脈の山間部に居住していたブルガリア人が移住し、彼らの街区が生まれ、羊毛、染色、仕立職などが栄えた。19世紀に入ると、民族独立運動が盛んになり、ブルガリア人職人や商人の支援で、ブルガリア語による学校が設立された。1878年にブルガリア公国が成立すると、一時、行政上の中心となり、79年には最初の制憲議会が召集された。1965年に史跡都市に指定され、名前もタルノボからベリコ・タルノボに改名された。

[寺島憲治]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ベリコ・タルノボ」の意味・わかりやすい解説

ベリコタルノボ
Veliko Tǔrnovo

旧称 (1965まで) タルノボ Tǔrnovo。ブルガリア北部,ロベチ州の都市。ヤントラ川に深く浸食された谷間と丘陵の上に位置する。 1186~1396年の第2次ブルガリア帝国の首都。現在は,総合大学がおかれ,美術や工芸の伝統を誇る文化的中心であり,第2次ブルガリア帝国の遺跡を中心とする観光地であるとともに,従来の繊維・家具・食品工業などが盛ん。この地には古くから集落がつくられ,5~6世紀にはビザンチンの城塞が築かれ,11~12世紀にはすでに大都市となりトラノフグラドと呼ばれた。 1186年この町を領するブルガリア侯ペタルとアセン兄弟がビザンチン支配に反抗して蜂起し,たちまち第1次ブルガリア帝国の旧領土に匹敵する地域を支配下に収めて新たな帝国を建て,翌 87年,首都をこの地に定めた。以来 14世紀末までブルガリアの政治と宗教と文化の中心として繁栄したが,1393年オスマン帝国に占領され,96年には帝国も崩壊した。 1877年オスマン帝国からの解放後,一時行政の中心となり,79年ここにブルガリア公国の憲法制定国民議会が召集されたが,その後ソフィアに首都の位置を譲った。 1911年激震に襲われ,古い建築物に損傷を受けた。 70年代初めから古都の遺跡遺物の発掘,保存,研究の努力が続けられている。史跡景観保存都市に指定。人口7万 2600 (1991推計) 。

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