ルーマニア(その他表記)Rumania

翻訳|Rumania

共同通信ニュース用語解説 「ルーマニア」の解説

ルーマニア

黒海の北西に位置し面積は日本の本州とほぼ同じ。旧ソ連の衛星国だったが、独裁体制を敷いたチャウシェスク政権が東西冷戦終結に伴い1989年に崩壊した。首都はブカレスト。2004年に北大西洋条約機構(NATO)、07年に欧州連合(EU)にそれぞれ加盟した。人口1912万8千人(21年推計)。20年の国内総生産は2487億1555万ドル(約31兆円)。総兵力は6万8500人。他に準軍事組織5万7千人など。20年の国防予算は52億1千万ドル。(ワルシャワ共同)

更新日:

出典 共同通信社 共同通信ニュース用語解説共同通信ニュース用語解説について 情報

精選版 日本国語大辞典 「ルーマニア」の意味・読み・例文・類語

ルーマニア

  1. ( Romania, 旧表記 Rumania ローマ人の住む土地の意 ) ヨーロッパ南東部、バルカン半島の北東部にある国。黒海に臨み、南部国境をドナウ川が流れる。住民はラテン系のルーマニア人。一八七八年ルーマニア王国としてトルコから独立。第二次世界大戦によりファシスト政権が倒れて、一九四七年人民共和国が成立し、六五年に社会主義共和国となった。八九年に社会主義体制が崩壊し、国名をルーマニアと改称。地下資源が豊富で、工業がさかん。首都ブカレスト(ブクレシュチ)。ルーマニア語名ロムニア。
    1. [初出の実例]「水田の業をなすは、土耳其(トルキー)、羅馬尼(ローマニヤ)、及び以太利辺まで」(出典:米欧回覧実記(1877)〈久米邦武〉三)

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「ルーマニア」の意味・わかりやすい解説

ルーマニア
Rumania

基本情報
正式名称=ルーマニアRomânia, Romania 
面積=23万8391km2 
人口(2010)=2144万人 
首都=ブカレストBucharest(日本との時差-7時間) 
主要言語=ルーマニア語(公用語),ハンガリー語,ドイツ語 
通貨=レウLeu(複数レイLei)

南東ヨーロッパに位置する国。ルーマニアは英語よみで(ただしRomaniaとも綴る),ルーマニア語ではロムニアRomâniaと呼ぶ。東は黒海に面し,北東はモルドバ共和国(旧ソ連),北はウクライナ,北西はハンガリー,南西はセルビア,南はブルガリアに囲まれ,国境の延長は3190km。行政区域は1特別市(首都のブカレスト),40県に分かれる。他の主要都市はコンスタンツァクラヨバプロイエシュティブラショブシビウアルバ・ユリアなど。

国土の中心にトランシルバニア盆地があり,東カルパティア,南カルパティア(トランシルバニア・アルプス),西カルパティア(ビホールBihor山地またはアプセニApuseni山地)の各山脈がこれを取り囲んでいる。カルパティア(カルパチ)山脈のまわりにはスブカルパティア山地,モルドバ丘陵,ルーマニア平原,西部平原などが広がる。ドナウ川は南部国境を流れ,下流でドブロジャ丘陵を迂回して黒海に注ぎ,河口に広さ4340km2のデルタをつくる。ほかに主要河川としては,トランシルバニアではムレシュ川が多くの支流を集めて西流し,ワラキアではジウJiul川,オルトOltul川が南流,モルドバではプルート川がウクライナ,モルドバ共和国との国境をなして南流し,いずれもドナウ川に合流する。

 森林地帯はカルパティア山脈に集中するが,標高1000~1400mまではオークなどの広葉樹,1200~1400mはモミ,ドイツトウヒなどの針葉樹が繁茂する。1800mを超えると,ササ類が多い。また河川の流域の湿地やデルタには,ヨシ,ヤナギ,ポプラなどが水辺の森をつくる。山地には,シャモア,鹿,熊,狼,猪など大型野生動物がすみ,デルタにはペリカンの営巣地があり,チョウザメ類も生息する。

 最新の国勢調査(1992)による人口2281万人を民族別にみると,ルーマニア人89.4%,少数民族が240万人(10.6%)。少数民族の内訳は,ハンガリー人(マジャール人)が総人口の7.1%,ロマ(ジプシー)1.7%,ドイツ人0.5%,ウクライナ人0.3%,ユダヤ人0.04%など。ハンガリー人やドイツ人は,ともにトランシルバニア盆地や西部平原に住む。なお国外に住むルーマニア人は約800万人といわれている。

 公用語はルーマニア語であるが,各民族の言語は尊重され,とくにハンガリー語とドイツ語は公用語に準ずる扱いを受けている。

 宗教は東方正教会に属するルーマニア正教をはじめ,カトリック,プロテスタントなど14の宗派が認められている。
執筆者:

ルーマニア史の特徴の一つとしてそのラテン的性格があげられ,ルーマニア人自身もスラブ人やマジャール人に囲まれたラテンの孤島に住んでいるという意識を強くもちつづけている。しかしラテン的性格とは,ルーマニア民族の起源あるいは彼らの民族的帰属意識を示すものとして用いられると同時に,彼らの政治理念あるいは一種の国家意識をも示す場合があり,両者は区別される必要がある。ルーマニア民族の起源についてはルーマニア人の学者とドイツおよびハンガリー人の学者との間に長い論争の歴史があるが,現在の研究成果によれば,ダキア人とローマ人の混交によって生じたダコ・ロマン人が彼らの祖先であり,中世初期の文献では彼らはブラフVlahと呼ばれていた。いわゆる民族大移動の時期におもに山間部に避難した彼らは,ドナウ・カルパチ地域に分散して居住し,やがて小さな〈くに〉を形成するようになったが,14世紀に国際情勢の変化とブラフ居住地域の膨張によってワラキアとモルダビア(モルドバ)の二つの公国をつくった。両公国は隣接し互いに多くの社会的共通性をもちながらも,ミハイ勇敢公が1600年にごく短期間統一した時期を除けば,19世紀後半まで別個の国家をなしていた。しかし中世以来ワラキアとモルダビア,それにトランシルバニア,バナトなどの諸地方に住むルーマニア人は,同一の言語を話す同族意識をもちつづけ,それは中世の年代記にも後づけることができる。ところが18世紀後半,まずトランシルバニアのルーマニア人の間に民族運動が起きるとともに,そのような同族意識は一つの政治理念にまで高められることになった。そのために重要な役割をなしたのはいわゆるトランシルバニア学派の思想家の著作やSupplex libellus Valachorumと呼ばれる〈ワラキア人嘆願書〉であった。後者はトランシルバニアのルーマニア人代表者が同地方を支配していたオーストリア皇帝の提出したもので,ルーマニア人がトランシルバニアの諸民族のなかで最古からの居住者であるばかりでなく,人口からいっても多数を占めているという新たな原理を根拠にして,ドイツ人(ザクセン人),ハンガリー人,セーケイ人と同等の民族的権利を要求している。こうして19世紀前半の末には,ルーマニア人が多数を占める諸地域が合同してルーマニア国家を建設するという政治意識が芽生え,初めてルーマニア(ローマ人の子孫の国の意味)ということばも用いられるようになった。そして,その最初の実現が1859年のワラキアとモルダビアの統一であり,1920年のトランシルバニア,バナトなどの併合によってそれが完成されたとみるのである。

 ルーマニア史を理解するうえで重要なもう一つの特徴は,ルーマニアがバルカン半島の北辺に位置するという地域的性格である。ルマニア人は中世以来,宗教(東方正教)をはじめ文化的にはビザンティン文化圏に属していたが,ビザンティン文化圏とカトリック文化圏(ハンガリー,ポーランド)との境界地域に居住していたため,政治的にも文化的にも両文化圏の影響を強く受けた。ビザンティン帝国に代わってオスマン帝国が南東ヨーロッパを支配するようになると,ワラキアとモルダビアはその貢納国となり,トランシルバニアも一時期貢納国となったが,ギリシアやブルガリアのようにオスマン帝国領に編入されなかったために,国内の自治と外交権は認められ,貴族制度などをはじめある程度固有の社会制度と文化を発展させることができた。18世紀にオスマン帝国が弱体化しオーストリアとロシアが台頭するようになると,両公国はいわゆる東方問題の舞台となり,オスマン帝国の支配からの脱却は同時に,政治的にはロシア,経済的にはイギリスをはじめとする西欧先進諸国への従属を強める結果を生み出した。とくに1829年アドリアノープル条約によってオスマン帝国の貿易独占権が失われてからは,両公国は直接に資本主義的世界市場に組み入れられ,イギリスなどの先進工業国への原料供給国となり,モノカルチャー的経済構造をもつ植民地的状態に置かれるようになった。ルーマニアの民族国家としての発達がこのような大国による絶えざる政治的脅威と植民地化の危険に抗しながら行われた点を見落としてはならない。

近代ルーマニア国家の形成は,先述したように1859年の両公国の統一に始まる(これ以上前の歴史については〈モルドバ〉〈ワラキア〉などの項目で詳述される)。クリミア戦争以前は両公国はスルタンの宗主権とロシアの保護権の下に置かれ,ロシアの監視下で成立した〈組織規程〉が憲法として効力をもっていたが,クリミア戦争でのロシアの敗北後,スルタンの宗主権は残されたがロシアの保護権は廃され,代わって1856年のパリ条約調印諸国の共同管理下に置かれた。同条約によって設立された両公国の暫定議会は,59年1月,共にクザを公に選出することによって両公国の統一を実現し,管理諸国もこれを承認した。管理諸国の間でも利害の対立があり,イギリスとオスマン帝国は両公国の強化を恐れて統一に反対したが,フランス,ロシアは統一を支持した。クザは首相のコガルニチャーヌと組んで64年には農奴解放を含む近代化の諸立法を行ったが,反対派の勢力も強く,66年には退位を余儀なくされた。議会はホーエンツォレルン・ジークマリンゲン家のカール(ルーマニアではカルロ1世)を公に迎え,1866年憲法が制定された。77年露土戦争が始まると,ルーマニアもロシア側に立って宣戦を布告し,プレベンの会戦でオスマン帝国軍部隊を撃破した。この戦争の結果,78年サン・ステファノ条約でルーマニアの独立が承認され,それは同年のベルリン条約でも確認され,81年にはルーマニアは王国となった。なおベルリン条約でルーマニアはドブロジャを獲得したが,ベッサラビア南部はロシア領になった。

 こうしてルーマニアは完全な主権国家となり,その後のルーマニア民族の発展にとって重要な礎を築くことができた。新国家は当時の政治思想に従ってキリスト教的な民族国家をその理念とするものであり,そのためにルーマニア民族と少数民族との関係の問題が生じてきた。1859/60年の統計によれば,当時の領土上の総人口372万5000のうち少数民族の比率は17.6%であり,おもな少数民族としてはジプシー23万,ブルガリア人20万,ユダヤ人1万3300,ギリシア人4万,ハンガリー人3万8000,ドイツ人3万2000がいたが,60年代以降,とくにユダヤ人問題が政治問題化した。1866年憲法には〈外国人のうちキリスタ教の儀礼に従う者のみがルーマニア人たる要件を得ることができる〉(第7条)という規定が設けられ,その後ユダヤ人に対しさまざまな経済的・社会的規制が行われるようになった。1848年の革命の指導者だったブラティアヌやコガルニチャーヌが当時相次いで内相となり,反ユダヤ政策を推進している。諸宗教の平等規定(第44条)を含む78年のベルリン条約を受け入れるに当たり,憲法第7条の部分的修正が行われたが(1879年10月),ユダヤ人の実質的な解放は得られなかった。

ルーマニア社会の資本主義化にとって重要だったのは1864年の農奴解放であり,これはほぼ同時期に東欧諸国で行われた農奴解放と類似の性格をもっていた。64年の農業法は46万3554家族に土地を与えることを企画していたが,その実施にはさまざまな妨害が伴い,また買戻し条件が過酷なものであったために,結局農地の3分の2は大土地所有者の手に帰し,大多数の野民は週の大半を地主の農地で労働することを余儀なくされた。19世紀を通じてルーマニアはヨーロッパの主要な小麦輸出国の一つとなったが,可耕地の9割が小麦生産に当てられ,輸出の8割を小麦が占めるというモノカルチャー,モノエクスポート的な植民地経済の構造を呈していた。民族産業資本家の形成は遅れ75年のオーストリア・ハンガリー二重帝国との通商協定が示すように,ルーマニアはオーストリア・ハンガリーへの自由な小麦輸出と引換えに関税率を2~4%に引き下げ,そのために外国の工業製品が市場にあふれる状態だった。独立達成後は保護関税政策がとられるようになったが,大土地所有者の反対と外国資本の流入によって,国内市場の拡大や民族産業の育成にはあまり効果がなかった。首都ブカレストには高層建築や大地主の邸宅が建てられる一方,農民は貧困にあえぎ,栄養不足が原因であるペラグラ(ビタミンBの欠乏を原因とするバルカンの風土病)にかかる者が多かった。当時のルーマニア社会の矛盾を端的に表したのが,1907年にモルダビア北部のボトシャニ県に起こって燎原の火のようにワラキア(ムンテニア,オルテニア)地方に広がった農民大蜂起であった。蜂起は軍隊の出動により数千の死者を出して鎮圧されたが,その規模の大きさから20世紀のヨーロッパにおける最後の農民大蜂起ともいわれている。

20世紀に入ると,バルカン情勢の悪化から年々軍事予算が増大し,それとともにきわめて民族主義的な風潮が広まっていった。ルーマニアは第1次バルカン戦争には参加しなかったが,第2次バルカン戦争ではブルガリアからドブロジャ南部のカドリラテル地方を獲得した。社会主義者の側からの戦争阻止の運動も強まり,バルカンの諸人民の連帯を求める気運も高まったが,実現されなかった。第1次世界大戦では当初中立の立場を維持していたが,1916年オーストリア・ハンガリー内のルーマニア人居住地域の併合を条件に連合国側に立って参戦する同盟条約をイギリス,フランス,ロシア,イタリアと結んだのち,オーストリア・ハンガリー,ドイツおよびブルガリアと戦闘状態に入った。ルーマニアはブカレストを占領され,17年にフォクシャニで休戦協定を結び,18年4月にはブカレスト講和条約を締結した。他方,トランシルバニアのルーマニア人の間には,19世紀後半以来ハンガリー化政策が強化されたこともあって民族運動が強まり,オーストリア・ハンガリー二重帝国が崩壊の危機に瀕していた18年12月1日,アルバ・ユリアでトランシルバニアとバナトの各地から集まった10万を超えるルーマニア人の大集会が開かれ,ルーマニアとの統一を宣言した。その後ただちにトランシルバニアの臨時政府がつくられたが,選出された政府委員はルーマニア民族党10名,社会民主党2名,その他3名だった。

 ドイツの敗色が強まり,18年11月に再度宣戦したルーマニアは,第1次大戦の講和条約では戦勝国に加えられた。そして19年のサン・ジェルマン条約でブコビナを,20年のトリアノン条約でトランシルバニア,クリシャン,マラムレシュ,バナトの諸地域を併合し,多年の宿願であった統一を実現した。しかしベルサイユ体制に反対する国々やソ連からは大ルーマニア主義あるいは小帝国主義国という批判を受け,また諸民族の混住する地域を併合したことによって少数民族問題はより複雑になった。すなわち総人口1789万5000のうち少数民族はその29.2%を占め,おもな少数民族としてはハンガリー人142万6000,ドイツ人74万5000,ユダヤ人72万8000,ロシア人40万9000,ウクライナ人38万2000,ブルガリア人36万6000,ジプシー26万3000がいた(1930年の国勢調査)。

 統一を実現したルーマニアにとって,戦間期は植民地的状態を脱して政治的・経済的な自立を達成できるか否かの試練の時期となった。最初の重大な改革は農地改革であった。すでに大戦中にフェルディナンド1世Ferdinand Ⅰ(在位1914-27)は農民に土地と自由とを約束していたが,1918年以後いくつかの布告が出されたのち,21年に最終的に農地改革法が制定・実施された。これは同時期に行われた他の東欧諸国の農地改革に比べより徹底しており,地主階級に課した負担も最も大きかったと評価されており,100ha以上の農地の総面積の66.2%にあたる612万5000haの収用と,230万9000人の農民への分与が予定されていた。実際には予定どおりには実施されなかったにせよ,この改革によって100ha以上の大農地の占める割合は42年には16.3%にまで減り,地主階級の経済力は大いに弱められた。しかしモノカルチャー的経済構造は基本的には解消されず,集約的農業への移行は実現されなかった。工業の分野では,大戦後比較的長期にわたって政権を担当した自由党のブラティアヌらによって経済自立政策がとられ,保護関税政策が実施された。ブルジョアジーの立場を強めたといわれる1923年憲法には,たとえば鉱物資源に対する外国資本の支配を禁止する規定が設けられたりしたが,自立的産業の育成には成功しなかった。1922-28年の相対的安定期においても,各産業部門別にみれば,外国資本の比重の高かった石油産業を除いては顕著な伸びはみられなかった。

 29年の世界恐慌はこのような経済自立政策を破綻させ,やがてそれに代わって組合corporation主義の原理に基づく経済理論が台頭するようになった。政治では30年にカロル2世が即位し,38年に国王独裁制を敷くに及んでファッショ化の道をたどり,議会は国王の補助機関と化し,政党も解散させられた。ドイツ,イタリアの圧力が強まるなかで,40年カロル2世は退位し,ミハイが王位に就いたが,ドイツに親任のあついアントネスクIon Antonescu(1882-1946)が国家指導者となり,やがて日独伊3国協定に加盟した。この間40年6月にソ連はルーマニアに最後通牒を送り,ベッサラビアと北ブコビナを領有,ブルガリアも南ドブロジャを領有,また独伊のウィーン裁定によってトランシルバニア北部がハンガリーに与えられた。41年6月ルーマニアは対ソ連に参加した。国内では労働者や知識人による反戦運動が起き,44年8月ソ連軍がルーマニア領土への反攻を開始したのに呼応して首都で武装蜂起が起こり,アントネスク政権を倒した。
トランシルバニア →モルドバ →ワラキア

1944年8月23日の武装蜂起は現代ルーマニアの起点をなす重要な事件である。8月23日午前,農民党党首マニウIuliu Maniu(1873-1955)が国王ミハイに反アントネスク・クーデタの即刻実行を進言し,国王は同日午後5時謁見のために伺候したアントネスクを解任して即時逮捕させ,10時にはラジオを通じてファシズム体制の終焉と連合国との戦争の停止を宣言した。事件がこのような経過をたどったため,宮廷クーデタとみる見方もあるが,23日中に首都のすべての要所を占拠してドイツ軍と対決したのは軍隊であり,軍の果たした役割は大きかった。また当時の共産党は非合法の状態に置かれ党員数も少なかったが,知識人や労働者の反ファシスト勢力を結集して23日には軍と協力して武装蜂起を敢行したのであり,やはり広範な人民の蜂起とみるべきであろう。こうして8月30日にソ連軍がブカレストに進駐したとき,すでに首都は解放されていたのである。政変後サナテスク将軍が最初の内閣の首班となったが,自由党,農民党,共産党,社会民主党からの閣僚を含む混成内閣で,国政のゆくえも混沌としていた。同年9月共産党のパトラシュカヌを筆頭とするルーマニア代表団はモスクワで休戦協定を結び,ルーマニア軍の対独戦争への参加が決定されたが,ベッサラビアと北ブコビナのソ連への帰属も決められた。その翌月にはモスクワでチャーチル=スターリン会談が行われており,そこでは東欧分割案とのかかわりでルーマニアは90%ソ連の影響下に置かれることが取り決められていた。

 44年8月のクーデタ以後の政治的発展はほぼ次の諸時期に分けられる。(1)1944年8月23日~45年3月6日 ともに混成内閣だったサナテスク内閣とラデスク(将軍)内閣に次いで,グローザを首班とする民主的内閣が成立するまでの期である。(2)1945年3月6日~47年12月30日 グローザ内閣のもとで農地改革をはじめとする諸改革が着手され,46年9月には1937年以来の総選挙が行われ,〈民主政党ブロック〉が80%の票を獲得した。国王勢力は孤立し,ミハイは47年イギリス王女エリザベスの結婚式に参列して帰国した直後,グローザらに退位を要求されて署名し,ルーマニア人民共和国が誕生した。なお47年2月にはパリ講和条約が結ばれ,トランシルバニア北部のルーマニアへの復帰が認められた。(3)1948年1月~53年3月 48年2月ソ連・ルーマニア友好同盟が締結され,その後まもなく共産党と社会民主党が合同しルーマニア労働者党と改称した。パトラシュカヌが失脚し,ルーマニアの党は東欧でも最もソ連に忠実な党といわれた時期であり,それがスターリンの死までつづいた。(4)1953年3月~65年3月19日 ゲオルギウ・デジの指導した時期で,53年のベルリン暴動以後ソ連とルーマニアの合弁企業の廃止やソ連駐留軍の削減が目だち,59年にはコメコンの主張する社会主義諸国間の分業体制に反対した。60年以後の中ソ論争では中国に対する非難を拒否し,64年にはG.マウレル首相が中国を訪問し,またアルバニア,ユーゴスラビアとの関係改善を図るなどの自主外交を展開した。(5)1965年以後 ゲオルギウ・デジの急死により党第一書記に就任したチャウシェスクNicolae Ceauşescu(1918-89)の指導する時期である。65年7月の党大会で党名をルーマニア共産党に改称し,第一書記の職名も書記長に改め,また同年8月には新憲法を採択して,社会主義共和国と規定した。67年チャウシェスクは国家評議会議長,74年には新設の大統領となり,自主独立と工業化の政策を推し進め,またソ連をも批判する独自の外交を展開している。

 ルーマニアの国家組織は,唯一の立法機関である大国民議会が,国家権力の最高機関である国家評議会と閣僚会議とを選出するが,ゲオルギウ・デジの時期には,党とこれらの国家権力を彼とC.ストイカ,マウレルが分担していた。チャウシェスクは74年の憲法改正により,国家評議会にはかならず国家権力を行使できる大統領制を設置し,自らが大統領に選ばれたため,これまでにないほどの権力を掌握することとなった。80年代にルーマニアは,対外債務が増大し工業化路線の見直しが迫られ,チャウシェスクはなおいっそう国民のナショナリズムに訴えることによって自主独立と工業化という二つの主要目的を達成しようと努めている。

第2次大戦前ルーマニアは絶えず列強による侵略と植民地化の危険にさらされていたが,それに対して経済理論家たちは二つの相対立する立場に分かれていた。すなわち工業発展による自立化の道を選ぶ者と永久農業立国論を唱える者とであった。第2次大戦後ルーマニアが社会主義への道を歩み始めたとき,圧倒的に強かったのはソ連型のマルクス・レーニン主義理論であり,そのためソ連をモデルとした重工業を中心とする一国社会主義的政策がとられた。人民共和国が成立し,ルーマニア労働者党の創設(これもソ連の強い指示によるものだった)によって政治的基盤ができ上がると,1948年国家計画委員会が設立された。49年に最初の一ヵ年計画が立てられ,51年からは第1次五ヵ年計画が始まったが,そこではソ連の意志による強行的な工業化政策がとられ,一般民衆の生活水準の向上や農業の集約化などよりも上位に置かれた。スターリン批判以後,工業とくに重工業への過度の投資はゲオルギウ・デジによっても自己批判されたことがあり,最近ではチャウシェスクが灌漑の整備に意欲的に取り組みはしたが,基本的には重工業を中心とする工業化政策はその後もひきつづき踏襲されてきたといってよい。

 そのために第2次大戦後,ルーマニア経済の構造は基本的に変化した。工業総生産は80年には1950年の33倍に達し,51年から80年までの期間をみても年平均成長率は12.3%であり,これは世界でもきわめて高い部類に属する。工業生産のなかでも,金属・機械・化学部門の占める比重は年々増大し,1938年には19.6%だったのが,50年には23.9%,80年には54.5%に及んでいる。輸出をみても工業製品の占める割合が急増し,1950年には55.1%だったのが,80年には90%近くにまで増大した。こうしてルーマニアは農業国から工業国へと変身することに成功したといえるであろう。ドナウ下流の港市ガラツィには西ドイツや日本などの技術を導入して建てられた大製鉄所があるが,国民1人当りの鉄鋼生産をみると,ルーマニアはアメリカに次いで2位を占めている。しかしこのような急速な工業化が矛盾を生み出さなかったわけではない。すでにコメコン諸国とは50年代末から意見の対立が目だつようになったが,それは重工業はソ連や東ドイツなどに任せ,ルーマニアには化学工業と農業を割り当てようとした社会主義諸国間の分業体制をルーマニアが承認できなかったためである。しかし,それ以上に重大なのは急速な工業化と重工業中心的な経済構造それ自体のために,消費水準の抑制や農業の集約化の遅れのようなひずみが生じ,またきわめて中央集権的な計画経済を強行するために生産性が伸び悩んでいることである。経済改革の試みがまったく行われなかったわけではないが,その点では他の東欧諸国よりも遅れている。1980年代に急激に増えた外国からの借款は国内的要因のみによるものではないとしても,経済改革のさし迫った必要を告げている。

ルーマニア人はよく国土の豊かさと多様性と調和を誇りにするが,自然条件だけでなく社会的,文化的にもいくつかの個性的な地方に分かれている。かつてワラキアと呼ばれたムンテニア・オルテニア地方はドナウ河岸まで広がる平野が大部分で,ブカレストやクラヨバのような都市を除けば単調な地方だが,住民は敏活で,とくにオルテニア人は抜け目がないとはよく聞く話であり,しゃべり方も早口である。モルダビアは北部へいくにしたがい丘陵地帯が多く,人びとは好んでその地方の優れた文化的遺産について語り,話し方もどこかゆったりとしている。トランシルバニアはそれ自体カルパチ山脈に囲まれた盆地の観を呈し,自然の変化に最も富んだ地域であるが,文化的にもハンガリー人やドイツ人が共住しているせいかバラエティに富んでいる。このほかにもハンガリー人やドイツ人やセルビア人の共住する西部のクリシャン・バナト地方,最近は観光地として宣伝されているが今でもトルコ人の居住する黒海沿岸のドブロジャ地方があり,それぞれの地方が,ルーマニアが形成されるまでの複雑な歴史的・社会的過程を物語っている。もちろん第2次大戦後の急速な工業化と都市化の波に押されて伝統的な地域的特色が失われつつあることを事実である。

 ルーマニアの工業・建設部門に従事する者の人口比は1965年の25.5%から75年の38.7%にに増え,農業・林業部門に従事する者は1965年の56.7%から75年の38.1%に減少している。主要都市だけでなく地方都市の都市計画にも目をみはるものがあり,高層住宅が整然と建設されつつあるが,農村から都市への人口流失もおびただしい。1962年に農業の集団化が達成されたことからもわかるように,ルーマニアは農業の集団化(一般的な形態は協同組合型集団農場)が東欧諸国のなかでも進んでいる国であるが,ここでも農場には老人と子どもが多く残る減少が現れ,収穫期にはたくさんの学生や生徒がブドウ園や畑へ出かけて愛国労働を行う姿がみられる。工業化の流れは諸地域の少数民族の構成にも変化を生み出している。たとえばかつては中世ドイツの面影をただよわせていたトランシルバニアの商業都市ブラショブは,戦後の一時期スターリン市と改称され,トラックやトラクター工場をはじめとする工業都市に変貌したが,そのために多数のルーマニア人労働者がムンテニアやモルダビアから移住し,現在は歴史的建造物を除けば,ルーマニア色が強まっている。ドイツ人やユダヤ人は西ドイツやイスラエルへ移住した者も多く,現在は少数民族の比率は低下しつつある。1930と77年の民族別人口構成の統計をみると,ルーマニア人は77.9%から89.1%に増えたのに対し,ハンガリー人は10.0%から7.7%,ドイツ人は4.4%から1.5%に減っている。さらに第2次大戦後の少数民族関係の諸立法によって戦間期に行われたような差別政策の多くは除去された。しかし社会変動によって少数民族問題は絶えず新たな形で出現する可能性をはらんでおり,現に1970年代以後ルーマニアとハンガリーの新聞・雑誌にトランシルバニアのハンガリー人の処遇をめぐって論議が交わされるようになり,84年9月にはハンガリー政府がこの問題について21項目の覚書をルーマニア政府に送ったとも伝えられている。平等を原則とする社会主義の立場から少数民族問題をいかに解決するかは,民族統一国家ルーマニアにとって一つの課題となるであろう。
執筆者:

ルーマニア人は古代のダキア人とローマ人の混血によって生じた民族であるが,文化的には南スラブ,ギリシア,ビザンティンの深い影響を受けており,口承文学にもバルカン諸国と共通の要素が多い。有名なバラードとしては,羊飼いの詩を歌った《ミオリツァMiorţa》,バルカン共通の人柱伝説を題材とする《石工マノーレMeşter Manole》や,ハイドゥク(山賊)を歌ったものがある。いわゆる〈美童子〉の活躍する民話も豊かであり,抒情歌謡〈ドイナ〉も古い伝統をもっている。

 現存するルーマニア語最古の文献は16世紀前半のもので,16世紀後半には教会スラブ語からの宗教書の翻訳,出版が盛んになった。17~18世紀には,人文主義的教養を身につけ国際的に活躍したスパファリーD.カンテミールのような文人がおり,多くの年代記がモルタビア公国で書かれた。トランシルバニアでは,18世紀末にラテン系民族としての自覚を訴える言語学者,歴史家のグループが活躍し,アルデアル(トランシルバニアの別名)学派と呼ばれた。

 19世紀の民族解放運動の時期には文学の近代化も促進されるが,そのなかで決定的な役割を果たしたのは,1814-49年の革命に参加したロマン派の文学世代である詩人アレクサンドリ,小説家ネグルッジ,歴史家コガルニチャーヌバルチェスクらであり,これ以後,フランス文学の影響が強まることになる。最後のロマン派でルーマニア詩の最高峰エミネスクの出現によって現代文語が確立された。リアリズム小説はフィリモンNicolae Filimon(1819-65),ザンフィレスクDuiliu Zamfirescu(1858-1922),スラビチ,オドベスクらの創作によって高い水準に達した。フランス象徴主義の影響下にマチェドンスキAlexandru Macedonski(1854-1920)が詩形成の革新に努力し,民族運動の激化するトランシルバニアからは民衆の苦悩を歌うコシュブクGeorge Coşbuc(1866-1918)が出,その伝統は次の世代のゴガに継承された。民謡,民話,言語の本格的研究がハスデウBogdan Petriceicu Hasdeu(1838-1907)とともに始まり,クリヤンガの創作民話は民衆の愛読書となった。カラジャーレの喜劇とコント,短編小説は演劇,小説の近代化に大きな役割を果たした。また,マルクス主義の立場に立つドブロジャヌ・ゲレヤとドイツ観念論美学を背景とするマイオレスクの2人によって文芸批評も確立され,それは次の世代のロビネスクによって発展させられた。

 20世紀初頭,歴史家ヨルガの推進する農民文学運動のなかから,散文芸術の完成者サドベヤヌが出て圧倒的な影響を及ぼし,その伝統のなかから戦間期のレブリヤヌ,戦後のスタンク,プレダ,ポペスク,ニャグらの作家が輩出した。急速な都市化や労働運動の発展とともに,都会の風俗のなかに知識人,労働者の姿を描く近代小説も盛んになり,パパダト・ベンジェスクHortensia Papadat-Bengescu(1876-1955),ツェザル・ペトレスクCezar Petrescu(1892-1961),カミル・ペトレスクCamil Petrescu(1894-1957)らの小説が書かれた。この伝統は戦後にはイバシウク,エウジェン・バルブらによって受け継がれている。正教の司祭でもあったガラクチオンGala Galaction(1879-1961)の幻想小説は,ボイクレス,そして有名な宗教学者のエレアーデに継承されており,それは戦後のバヌレスクŞtefan Bǎnulescu(1929- ),ティテルSorin Titel(1935- )らの前衛派文学やコリンVladimir Colin(1921- )らのSF小説につながっている。20世紀の詩壇ではアルゲージの創造が前人未到の世界を切り開き,哲学者詩人ブラガ,印象派のバコビアBacovia(1881-1957),数学者・詩人のヨン・バルブIon Barbu(1895-1961)もそれぞれに独創性のある世界を創造した。戦後に出た詩人としては,ラビシュ,ソレスク,スタネスクが注目される。カラジャーレ以後の演劇はカミル・ペトレスク,ミハイル・ザンフィレスク,セバスチアン,ソルブル,エフティミウらによって発展させられた。文学批評では,作家でエミネスク研究家のカリネスクGeorge(Gheorghe)Cǎlinescu(1899-1965),ビアヌTudor Vianu(1879-1964)が戦前・戦後にかけて活躍し,その門下化からパプ,ブシュレンガらが出ている。戦後にフランスで活躍しているルーマニア出身の作家には,ゲオルギウConstantin Virgil Gheorghiu(1916-92),イヨネスコや,E.M.シオランらがいる。
執筆者:

ルーマニアの民族音楽は,葬儀には語り風の哀歌ボチェトが,日照りには雨乞いの歌スカロイアヌルが,というように四季の祭りや結婚式,宗教的儀礼に密接に結びついている。なかでもクリスマスから新年にかけて歌われるコリンダcolindǎは,キリスト教以前の異教的信仰を反映し,音楽的にも特徴がある。民謡のなかでは,テンポのゆっくりした,自由なリズムの抒情歌ドイナdoinǎが最も一般的であり,これと対照的なのが,テンポが速く,きちっとした明確なリズムをもった踊りの音楽ホラhorǎである。この踊りの音楽はおもに器楽であるが,地域によっては歌で伴奏する踊りもある。踊りの音楽はアクサクaksakと呼ばれる2と3の単位をいろいろに組み合わせた不規則なリズムを特徴としている。楽器では指孔のない縦笛ティリンカtilincǎ,リュート系の弦楽器コブザcobzǎ,小型のツィンバロム(ツァンバルţambal),バッグパイプ(チンポイcimpoi)が一般的であるが,なかでは,たくさんのパイプを組み合わせて作るパンパイプのナイnaiが有名である。これらの楽器はもっぱらラウタールlǎutarと呼ばれるジプシーの音楽家によって演奏されている。

 芸術音楽の発展は,西欧化の早かったトランシルバニア地方から始まる。16世紀から17世紀にかけて,同地方を中心に活躍したオステルマイヤーHieronimus Ostermayer(1500-61),ライリヒGabriel Reilich(1630?-77)らの作品は,ルネサンスや初期バロックの様式の影響の下にあった。19世紀に入ると,ルーマニアの独立と民族統一の運動を背景に国民音楽創造の気運が高まり,パンAnton Pann(1796-1854),フレヒテンマッハーAlexandru Flechtenmacher(1823-98),ムシチェスクGavriil Musicescu(1847-1903)らが,民族音楽を基盤にした作品によって,近代ルーマニア音楽の創造に貢献している。一方この時期,音楽活動の組織化が進み,国立音楽院(1860),ルーマニア・フィルハーモニー協会(1868),ブカレストのオペラ劇場(1877),などの設立によってルーマニアの音楽文化の水準は飛躍的に高まった。

 20世紀に入ると,作曲家エネスコの活躍によって,ルーマニアの音楽は国際的な注目を浴びることになる。彼の作品は民謡を主題としたものが多く,民族的な要素と西欧の音楽との統合によって,ルーマニア独自の音楽を創造するという,ルーマニア音楽文化の基本的課題に応える多くの作品を残している。作曲家だけではなく,ピアニストのハスキルClara Haskil(1895-1960),リパッティDinu Lipatti(1917-50),指揮者のシルベストリConstantin Silvestri(1913-69)チェリビダッケSergiu Celibidache(1912-96)ら,国際的に著名なルーマニア出身の演奏家も数多い。
執筆者:

ギリシア文化は,早くからその影響をルーマニアの地にも及ぼしていた。北東部のククテニCucuteni出土の新石器時代の彩文土器において既に,その曲線文様は,クレタ島やエーゲ海の文化との結ぴつきを示し,前7~前6世紀に黒海沿岸に建設されたイストロスIstrosやトミスTomis(現,コンスタンツァ)などのギリシア植民地は,ローマ時代またビザンティン時代においても栄え,古典古代文化の拠点であった。一方,ダキア人やゲタイ人の作品と考えられるコツォフェネシュティ・プラホバCoţofeneşti-PrahovaやハジギオルHadjighiol出土の前5~前4世紀の金・銀の武具など(ともにブカレスト歴史博物館蔵)は,地中海文化の影響を受けつつも,プリミティブな力強さをみせる。2世紀初頭トラヤヌス帝によって征服され,ダキアとしてローマの属州となり,多くの都市が各地に建設された。アダムクリシAdamklissi村近くにあるトラヤヌスの勝利を記念したモニュメントの跡はこの時期のもので,多くの浮彫や銘文が残っている。その後の民族移動期の作品として,1837年ピエトロアサPietroasaで発見された22の金工品は4世紀のゴート人の手になるものと考えられている。1779年シニコラウル・マレSînicolaul Mare出土の金工品(当時ハンガリー領で,ハンガリー語の地名をとって,〈ナジセントミクローシュの遺宝〉としてウィーン美術史美術館蔵)は,9~10世紀のものではあろうが,ハンガリー人の移動・定着の混乱期の作品であり,ササン朝ペルシアやイスラムのモティーフをも含むことから,どの民族の制作になるかは,意見が分かれている。

 10世紀,ハンガリー人の東進とビザンティン帝国による黒海沿岸の再征服は,それ以後のルーマニアにとって決定的な意味をもっていた。つまり,トランシルバニアでは,住民はハンガリー人および12世紀より植民を始めたドイツ人であり(支配層はカトリック),常に西欧からの刺激が美術作品に反映した。一方,南のワラキアと北東のモルダビアは,14世紀に建国して以来ビザンティン帝国に倣い,16世紀以降のオスマン帝国の時代にあっても,〈ビザンティン以降のビザンティン文化〉をはぐくみつづけた。13世紀に創建されたアルバ・ユリアの大聖堂は,ロマネスクからゴシック,ルネサンス,バロックの諸相をみせ,常にハンガリー経由で北イタリアやウィーンの影響が及んだことを示す。またワラキアのクルテア・デ・アルジェシュCurtea de Argeşのニコラ教会(14世紀後半)は,その内部壁画はコンスタンティノープルカハリエ・ジャーミーの直模であり,建国直後のワラキア王の姿勢がうかがえる。なおこの壁画は,手本を直模したことが証拠だてられるビザンティン絵画のまれな例で,この両作品を比較することによって,当時の標準的な制作過程が推測されている。コジアCoziaの教会堂(1389)は,建築,壁画ともセルビアの〈モラバ派〉に連なるものである。モルダビアでは15世紀後半のシュテファン大王の時代より,建築活動がきわめて活発となった。そこにみられる最大の特徴は,16世紀に教会堂外壁全体を覆うに至ったフレスコで,フモルHumorやモルドビツァMoldoviţaやスツェビツァSuceviţaなどの修道院の教会堂にみられ,細部の具体的な描写に富んでいる。17世紀になると,ワラキア,モルダビアともに,建築に新しい装飾モティーフが加わり,とくにモルダビアでは,ロシア経由でアルメニアやカフカスの建築の影響,またロシアとポーランドを通じて西欧のバロックの影響がみられるようになる。

 19世紀後半の民族主義の高揚のなかで,パリで学んだアマンTheodor Aman(1831-91)は歴史画を得意とし,ブカレストに美術学校を開いてルーマニアの画壇に大きな影響力をもった。グリゴレスクとアンドレエスクIon Andreescu(1850-82)は,風景を勢いある筆致で即興的に描き,他の東欧諸国に比べて,早い時期にフランス印象派の技法が盛行していたことを示している。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ルーマニア」の意味・わかりやすい解説

ルーマニア
るーまにあ
Romania

ヨーロッパ南東部、バルカン半島の北東に位置する共和国。正称はルーマニアRomânia、ルーマニア語ではロムニアである。国名はローマ人の住む土地という意味で、ローマ時代に多数のローマ人がこの地に移住し、先住のダキア人と共存しながら彼らをローマ化したことに由来している。東経25度、北緯46度が国土の中央部を通り、中央部には王冠状にカルパティア山脈が発達する。ドナウ川が国土の南縁を流れ、セルビアおよびブルガリアとの国境をなし、河口ではデルタを形成し、国土の南東縁にある黒海へ注ぐ。東部ではモルドバ共和国、北部ではウクライナ、西部ではハンガリーと国境を接する。

 面積は23万8391平方キロメートル、人口は2169万8181(2002)である。首都はブクレシュティ(ブカレスト)で、国旗は旗竿(はたざお)側から青、黄、赤の三色旗である。国歌は1989年末の政変を契機に、アンドレイ・ムレシアヌ作詩、アントン・パン作曲の「デシュテアプタ・テ・ロムネ」(ルーマニア人よ、立ち上がれ!)が用いられるようになった。

[佐々田誠之助]

自然

地形は、山地(31%)、台地・丘陵(36%)、平野(33%)に三分される。カルパティア(カルパチア)山脈はルーマニア領内では東カルパティア、南カルパティア(トランシルバニア・アルプス)、西カルパティア(アプセニ山地、ビホル山地)の3山脈に分かれる。これらの山脈に囲まれてトランシルバニア台地が、山脈の外側にはモルダビア(モルドバ)丘陵、ドブロジア(ドブルジア)台地、ルーマニア平原、西部平原が展開する。古生代の造山運動により、モルドバ丘陵とドブロジア台地が一時期陸地を形成した。中生代末期にアルプス造山運動が起こり、カルパティア山脈が出現した。新生代には造山運動が活発化し、カルパティア山脈は隆起を続けた。また、火山活動もおき、東カルパティア山脈の内側にはヨーロッパ最長の火山脈が誕生した。トランシルバニアは深い湖であったが、湖水は西部に広がるパンノニア海へ流出し、その跡へ河川の堆積(たいせき)作用や火山灰の堆積でトランシルバニア台地ができた。カルパティア山脈の東部や南部にはサルマチア海があったが、新生代第四紀の気候の寒冷化や海退などで、モルドバ丘陵やルーマニア平原が出現した。ドナウ川はセルビアとの国境で、「鉄門」(ポルチレ・デ・フィエル/アイアン・ゲート)とよばれる峡谷をなしている。現在、そこには鉄門ダムがつくられ、鉄門湖ができている。

 気候は温帯と亜寒帯の移行帯にある。東部は冬に寒冷な北東風クリバーツ(クリベッツ)、春には南から高温のアウストル(アウスツル)が吹く。トランシルバニア台地や西部平原は、大西洋気団の影響で比較的降水量が多い。南西部には地中海の、ドブルジア地方には黒海の影響があり、穏やかな気候を示す。森林は国土面積の26.2%を占め、ブナ、カシなどの広葉樹は1400メートルまで、モミ、マツなどの針葉樹は1800メートルまで分布する。山地にはクマ、オオジカ、カモシカ、ライチョウが、丘陵にはシカ、オオカミ、ヤマネコが生息する。

[佐々田誠之助]

地誌

中央部、北東部、東部、南部、西部の五つに分ける。

(1)中央部 トランシルバニア台地は天然ガスの宝庫で、各地に供給される。クルージュ、トゥルグムレシュ、シビウの各都市に工業が発達する。小麦、トウモロコシ、テンサイ、ブドウなどが栽培され、ウシ、ウマ、ブタ、ヒツジが飼育される。カルパティア山脈は森林に恵まれるだけではなく、家畜の放牧地にも利用されている。また、自然保護区が設けられ、観光・保養地域でもあり、その中心都市がブラショフである。東カルパティア山脈は銅、マンガンを産し、西カルパティア山脈は鉄鉱石、金、銅、石炭を産する。南カルパティア山脈には、この国の最高峰モルドベアヌ山(2544メートル)をはじめ2000メートル級の高山が多く、氷河地形が残る。石炭、石灰石を産する。

(2)北東部 モルダビア地方は農業地帯で小麦、トウモロコシ、ヒマワリ、ジャガイモ、テンサイ、ブドウなどが栽培され、ウシ、ヒツジが飼育される。西部には油田と炭田が分布する。古都ヤーシは北部の、ドナウ川の港湾・工業都市ガラチは南部の中心都市である。

(3)東部 ドブルジアは古生代の地質で老年期の地形を示す。小麦、ヒマワリ、ブドウの産地である。黒海に臨むコンスタンツァは港湾・工業都市である。黒海沿岸には海水浴場が連なり、夏の保養地としてヨーロッパ各地からの観光客で賑わう。ドナウ・デルタにはペリカンが飛来して夏を過ごす。湿地と砂丘が発達し、製紙原料のアシ、ヤナギ、ポプラが茂る。黒海からドナウ河口にはチョウザメ類が生息する。

(4)南部 ドナウ川の北に広がるルーマニア平原は穀倉地帯で小麦、トウモロコシ、ヒマワリの大産地である。乾燥しているので、灌漑(かんがい)施設が整備されている。ドナウ川沿いには砂丘と湿地が発達し、砂丘はブドウ栽培に、湿地の一部は稲作に利用されている。南カルパティア山麓(さんろく)には油田と炭田があるが、油田は平原の中央部でも開発されている。ブクレシュティでは各種工業が、プロイエシュティでは石油工業が、クライオーバでは輸送機械工業が発達する。ブライラやトゥルゴビシュテも工業都市である。

(5)西部 北から南にかけてソメシュ、クリシャナ、バナートの3地方がある。小麦、トウモロコシ、テンサイ、ブドウが栽培され、ガチョウ、アヒルなどが飼育される。クリシャナ地方はボーキサイトや石炭を産する。サトゥ・マーレ、オラーデア、アラド、ティミショアラには各種の工業が発達する。ティミショアラにはハンガリー系の住民も多く、1989年末の社会主義政権打倒運動の中心になった都市でもある。

[佐々田誠之助]

歴史

ルーマニア人の祖先は、紀元後2世紀初頭にローマ帝国に征服され、ラテン文化を受け入れた先住民族のダキア人であるとされる。3世紀にゴート人が侵入し、ローマ帝国が南に撤収してからのダキア人の行く先については諸説があるが、13世紀にたぶんカルパティア山脈地方から南下し、1330年ごろバサラブBasarab公(在位1310?~52)を首長とするワラキア公国を、少しのちにモルダビア公国を建設した。しかし14世紀にバルカン半島に侵攻したオスマン・トルコは、1415年にワラキアを臣属させた。モルダビアのシュテファン3世Ştefan Ⅲ(在位1457~1504)はトルコとポーランドの侵入を阻止し、領土を拡張したが、その死後、16世紀初頭にモルダビアもトルコの宗主権を認めた。ワラキアのミハイ(勇敢王)は16世紀末にトルコ軍を追い出し、モルダビア、トランシルバニア、ベッサラビアを支配下に収め、「大ルーマニア」を実現したが、彼の死後トルコの支配が復活した。

 18世紀中ごろ、ハプスブルク帝国下のトランシルバニアのルーマニア人僧侶(そうりょ)がローマに留学し、自分たちの言語と文化の系譜を自覚、民族意識伝播(でんぱ)の先駆者となった。その後、トルコ帝国の衰退とロシアのバルカン進出の影響で、ルーマニア人の独立意識は高まり、1821年にギリシア人アレクサンドロス・イプシランディスが、モルダビア、ワラキアの2公国を舞台にギリシア独立ののろしをあげたのを機会に、ウラジミレスクに率いられる農民軍が独立戦争を挙行したが、失敗した。1848年にも独立革命が発生、ワラキアでは共和政権を樹立する勢いを示したが、ロシアがトルコに肩入れして鎮圧した。クリミア戦争後のパリ講和会議(1856)で、2公国の大公を民意をもとに選任することが決まったが、1859年に両国の議会はクーザ(在位1859~66)という同一人物を大公に選出した。2公国は61年に統合、国名をルーマニアとする単一の自治公国となり、66年にプロイセンの王子が迎えられてカロル1世(在位1866~1914)を名のり、また78年のベルリン条約により同国は完全な独立国となった。

 ルーマニアは1913年の第二次バルカン戦争に参戦して、ブルガリアから南ドブルジアを奪った。第一次世界大戦には連合国側にたち、敗北して単独講和を結んだが、終戦まぎわにふたたび連合国側に参加し、オーストリア・ハンガリー帝国からトランシルバニアやバナートなどを獲得した。またロシア革命時にベッサラビアを併合、「大ルーマニア」の再現に成功したが、全人口の4分の1が異民族という不安定な国家となった。第一次世界大戦後のルーマニアでは、ブラティアヌ一家による自由党支配が続いたが、1928年に民族農民党のマニウが一時政権をとったのち、38年にはカロル2世(在位1930~40)が国王独裁制を敷き、ファシスト団体鉄衛団との間で流血の闘争が発生した。40年にルーマニアはソ連にベッサラビアを、ハンガリーにトランシルバニアの一部を、ブルガリアに南ドブルジアを奪回され、カロル2世が亡命したのち、アントネスク政権がドイツ側にたって対ソ戦に参加した。ソ連軍の反攻がルーマニア国境を越えた44年8月に、ミハイ国王(在位1927~30、40~47)とその側近、および共産党を含む4党連合が宮廷クーデターを挙行、連合国側に方向転換した。

 1945年3月に共産党主導の政権が誕生、自由党、民族農民党を排除し、47年12月には人民共和国の成立が宣言された。48年に共産党は社会民主党左派を吸収して労働者党と改称(65年に共産党に復元)、ゲオルギュ・デジ党書記長によるスターリン主義政治が開始された。58年にソ連駐留軍を撤退させるのに成功したルーマニアは、同年きわめて野心的な工業化計画を立案、ソ連によるコメコン統合計画に反対した。1960年代になると、同国は中ソ対立に中立的態度を示し、欧米との関係を緊密化し、ことに65年から政権についたチャウシェスクのもとで「自主路線」を鮮明に示した。

[木戸 蓊]

チャウシェスク政権の崩壊

「工業化こそ独立と国家主権を保障する決定的要素である」とみなすチャウシェスク党書記長(兼大統領)は、10年たらずの間に国民所得を5倍化するという野心的な目標を掲げ、そのために国民各層を教育、文化のあらゆる面で動員する政策を展開しようとした。しかしそれは実務的指導者や国防軍内部に大きな動揺をもたらすとともに、同時に発生した石油危機と相まって市民生活に破壊的な打撃を与えた。

 1989年のポーランド、ハンガリーでの変動を皮切りに、東欧の戦後政権が連鎖反応的に崩壊するなかで、ルーマニアの反応がもっとも遅れたのは、権力者側のそうした夢想的野心のためであった。食料、燃料の不足に抗議する市民のデモが広がるのに対して国民軍にはそれを支援する気運が高まり、チャウシェスクに忠誠を誓った治安警察隊との間で銃撃戦が行われたすえに、12月25日に開かれた特別軍事法廷で逃亡を試みたチャウシェスク夫妻に対して死刑の宣言がなされ、刑の即時執行が発表された。

 その間に政権に反対してイリエスクを議長とする「救国戦線」の設置が発表され、1990年5月に自由選挙制による大統領選挙と国会議員選挙が同時に行われた。大統領選挙にはイリエスクが圧勝し、国会議員選挙では彼の指導する救国戦線が議席の3分の2を占めた。

 共産党支配以前の旧政党も野党として選挙に参加したが、惨敗した。野党を支持する学生たちは選挙が不正だったとして抗議デモを行ったが、炭鉱労働者を動員して、それに対抗した。1991年11月になって、議会は社会民主主義型で、複数政党制と市場経済を認めた新憲法を採択した。92年11月の総選挙を前に、政権党の救国戦線は分裂、イリエスク派は第一党になったものの、獲得議席数は全体の35%にとどまった。イリエスクは無党派のバカロイウを首相に任命し、同首相はNATO(ナトー)(北大西洋条約機構)、EU(ヨーロッパ連合)の求める同国内部のハンガリー系少数民族(約160万人)の保護要請に応じてハンガリーと協定を結んだ。それに対してルーマニア民族主義を掲げる民族統一党が強く反対し、連立していたバカロイウ内閣から離脱した。96年11月に行われた大統領選挙では、各種の野党の連合体である民主会議を代表したエミル・コンスタンティネスクEmil Constantinescu(1939― )が当選し、ルーマニアの政局はようやくイリエスクの影響から離れた。同時に行われた国会議員選挙では、イリエスクの党である社会民主党は上下院とも第二党に転落した。4年後の2000年11月、任期満了に伴う大統領選が行われ、イリエスクが翌12月の決選投票の結果大統領に返り咲いた。同11月実施の上下両院選挙では、社会民主党が過半数に達しなかったものの、第一党に躍進した。

[木戸 蓊]

政治

ソ連崩壊に伴う1989年末の政変までは、1965年に採択された憲法により、民主集中制を組織原則とする共産党独裁制が行われていた。党政治執行委員会および同書記局が閣僚評議会に命じて行政にあたらせていた。国民大会議は国家の最高機関であり唯一の立法機関で、議員は小選挙区制の下で選出されていた。国民大会議は立法活動のほか、大統領、国家評議会議員、政府閣僚、最高裁判所長官、検事総長を選出、任命、監督する権限をもっていた。大統領は国家評議会議長、国防評議会議長、軍最高司令官を兼ね、国家元首となり、国家の全権を掌握していた。

 1989年末の政変直後には救国戦線評議会が権力を掌握したが、その後野党勢力を加えて、国家暫定統一評議会に発展した。90年5月20日には、複数政党制や言論の自由が保障された状況下で、議会選挙と大統領の直接選挙が実施され、新生のルーマニア議会と大統領が誕生した。議会は上院・下院の二院制で小選挙区制である。議員の任期はいずれも4年、大統領の任期は5年である。ただし、最初のルーマニア議会議員と大統領の任期は例外的に2年と定められた。92年以後の選挙は規定どおりに実施されている。選挙権は18歳以上の国民にある。被選挙権は上院が35歳、下院が23歳以上である。両院は立法権をもち権限は同一である。大統領の権力乱用を防ぐため、議会には大統領の罷免も含めた大幅な権限が与えられている。大統領は国家の元首であり、権限は議会に教書を提出すること、首相候補を指名すること、条約を調印することなどであるが、実効には議会の同意や批准が必要である。

 司法制度は三審制である。最高裁判所を頂点に都県段階に地方裁判所と地区裁判所がある。

 地方行政組織は1都(ブクレシュティ市)41県に分かれる。市町村段階の地方議会議員と地方機関の長は住民の直接選挙で選ばれるが、県議会議員は間接選挙であり、県知事は政府の任命である。

 外交は1989年末の政変まではワルシャワ条約機構やコメコン(経済相互援助会議)に加盟していた。ソ連・東欧圏の崩壊後は西欧指向が強く、EUやNATOへの加盟を希望し、2004年3月にはNATO、2007年1月にはEUへの加盟が実現した。1996年には隣国のハンガリーとの間で、両国の歴史的和解ともいえる、ルーマニアに居住するハンガリー系住民の権利の保障と国境保全に関する善隣友好条約が調印された。

 軍事は徴兵制である。兵役期間は陸・空軍が1年、海軍が1年半である。総兵員数は20万人弱、ほかに国境警備隊員が2万人強である。

[佐々田誠之助]

経済・産業

第二次世界大戦前、ヨーロッパでは遅れた農業国の一つで、小麦などの農産物の輸出国であった。1938年には戦前の経済発展のピークに達したが、農業人口が75%を占め、工業人口は12%を占めるにすぎなかった。農業は半封建的な所有関係にあり、少数の大地主が農民を支配し、肥料や機械の普及はきわめて低く、生産性も劣っていた。

 工業は伝統的な食品工業のほか、イギリス、フランス、アメリカなどの外資が導入されていた石油工業では一定の水準に達していたが、全般的には低水準であった。1947年には王制を廃して人民共和国になり、48年には鉱工業、森林、河川、鉄道、道路、銀行など全面的に国有化が行われた。49年に始まった農業の集団化は不完全であるが、62年には完了し、65年には社会主義共和国を宣言した。生産手段の国有化と農業の集団化の下で、1951年からは数次にわたる五か年計画が実施され、60年代までは農工業とも一定の成果を挙げた。しかし、70年代になると、石油危機、資本不足や工業技術水準の低さ、労働者の勤労意欲の低下など種々の要因が重なり、経済は停滞した。80年代に入ると、農業の不振も著しく、食糧危機も生じて経済は危機的状況に陥った。この事実は独裁政権に対する批判と呼応して、89年の独裁政権打倒へと発展した。

 1989年の政変後は、国営農場の旧地主への農地の返還や企業の民営化と市場経済への移行が始まった。旧地主への農地の返還は、返還対象者の限定や返還面積の広さなどで制約を設けながらも、比較的順調に実行された。しかし、非効率的な国営企業や鉱山などの民営化では、官僚や企業経営者の旧思考や旧人脈など、また労働者の失業対策の不十分さなどが妨げになり、市場経済への移行は停滞している。現状では多くの課題を抱えたままである。

 農地面積は14万7975平方キロメートルで、国土面積に占める割合は62%である。その内訳は耕地が63.1%、牧草地が22.8%、放牧地が10.1%、果樹園などが4.0%である。政変後の農業生産についてみると、1992年を底に農業全般では回復の兆しがあるが、ウシ、ブタ、ヒツジなどの家畜の生産は、94年現在では政変前の90%程度にしか達していない。

 代表的な農産物は小麦、ライムギ、トウモロコシ、ヒマワリ、テンサイ、ジャガイモ、ブドウなどである。農業人口の割合は1990年の28.2%から94年には35.6%に急増したが、工業人口は90年の36.9%から94年には28.8%へと激減している。

 鉱工業生産全般も1992年を底に緩やかに回復基調にある。鉱業や電力は政変前の90%程度まで回復したが、工業は60%程度である。94年の電力生産についてみると、天然ガス、原油、石炭による火力発電が87.7%、水力その他の発電が12.3%である。火力発電の割合は年々増大している。水力発電はカルパティア山脈の東部や南部にあるビストリツァ川、アルジェシュ川、ジウ川などが開発されてきた。また、ドナウ川には1971年に旧ユーゴスラビアと共同で建設した鉄門ダムがあり、水運の便に供するとともに発電もしている。

 製鉄は、1960年代までは原料立地型の西部のフネドアラやレシツァが中心であったが、70年代以降は原料輸入型でドナウ下流のガラチにある国営の製鉄所が主力になり、ルーマニア重工業の躍進の象徴であり誇りでもあった。現在、この非効率な製鉄所の分割民営化が進んでいる。

 貿易についてみると、政変前は国家が独占していた。1950年から81年までの31年間のうち、25年間は輸入超過であった。82年から政変までは輸出超過であったが、これは国内の食肉その他の需要を極度に抑え、外貨獲得に専念する輸出飢餓であったからである。政変後、貿易は自由に行われるようになったが、貿易量は輸出入とも急激に低下した。貿易量は91年を底に、輸出は政変前の65%、輸入は85%程度に緩やかながら回復してきた。94年の輸出入の割合は輸出が48.3%、輸入が51.7%で、輸入超過である。

 交通事業は鉄道、航空とも国営である。首都ブクレシュティを中心にコンスタンツァ、ガラチ、ヤーシ、ブラショフ、トゥルグムレシュ、バイア・マーレ、サトゥ・マーレ、クルージュ、オラデア、シビウ、アラド、ティミショアラ、クライオーバなどの地方の中心都市へ放射状に発達している。ドナウ下流域には水上交通が発達する。また、この国第一の貿易港コンスタンツァ近郊のアジジャとドナウ下流のチェルナボダ間には、1984年にドブロジア台地を横断する64キロメートルのドナウ・黒海運河が完成し、ドナウ川を遡行(そこう)する場合、ドナウ河口のスリナ経由よりも航路は約400キロメートル短縮された。道路は全国的にみて幹線以外は未発達で舗装率も低い。

 国家の財政収入は、かつては国営企業益金や物品税が主であったが、現在では国営企業益金のほか、事業税や所得税などの直接税の割合が増加している。外国からの借款(しゃっかん)も多い。

[佐々田誠之助]

社会

2002年の調査では、人口の89.5%がラテン系のルーマニア人である。少数民族はハンガリー人が6.6%、ロマが2.5%、その他1.4%である。その他にはドイツ人、ユダヤ人、セルビア人、ウクライナ人などが含まれる。1989年の政変前は、ルーマニア人やロマの割合はこの数値よりも少なかったが、ハンガリー人、ドイツ人、ユダヤ人の割合は多かった。ロマの場合、政変前には自らをルーマニア人としていたが、政変後は民族意識の高まりもあり、ロマとして登録したからである。ロマの定着化が進められてきたので、最近では馬車で移動する者はきわめて少数である。ハンガリー人、ドイツ人、ユダヤ人は、政変前から自国や出国可能な国への移住が行われていた。ドイツ人は自国へ、ユダヤ人は自国のほかに西欧諸国やアメリカなどへ移住していった。これらが主因になり、ルーマニア人の占める割合が多くなってきた。

 人口を宗教別にみると、オルトドクス(ルーマニア正教)が86.7%、カトリックが4.7%、プロテスタントが3.2%、その他5.4%である。その他にはユダヤ教やロシア正教などが含まれる。ルーマニア人の大多数はオルトドクスであり、ハンガリー人はカトリック、ドイツ人はプロテスタントである。

 この国の社会をみるとき、とくにトランシルバニア地方では、ハンガリー人や現在では少数になったドイツ人の存在や影響を無視することはできない。ハンガリー人はウングリまたはセクイとよばれ、10世紀ごろから、また、ドイツ人はサシとよばれ、12世紀ごろからこの地に移住してきた人々の子孫である。ルーマニア人はロムニとよばれ、ウングリやサシとともにトランシルバニアの農地開発や都市建設など、生活基盤や社会組織をつくってきた。したがって、この地にはハンガリー人やドイツ人の生活様式や伝統が鮮明に残っている。

 教育は19世紀後半に近代教育の基本法ができ、1860年にヤーシ大学、62年にブクレシュティ大学、72年にクルージュ大学が設立された。国民教育が本格的に発展したのは、1920年代に教育改革が実施され、4年制の義務教育が確立してからである。第二次世界大戦後、義務教育期間はしだいに延長され、1968年には10年制の義務教育制度が定められた。小学校4年、中学校4年、高等学校4年で、義務教育は高等学校前期の2年までで学齢は6~16歳である。幼稚園は3年間である。義務教育ではないが、大部分の者が入園する。高等教育機関へは高等学校4年を卒業した者で、バカロレアート(バカロレア=大学入学資格試験)に合格した者のみが進学可能である。高等教育機関の年限は専門により3~6年である。医学部は6年、理工学関係学部の大部分や法学部は5年、文学部は4年である。小学校教員や看護婦養成などの専門学校は3年である。また大学卒業後は3年以上の博士課程がある。89年の政変までは、すべての教育機関が国公立であったが、政変後は多数の私立大学が設立された。政変後、学制そのものは私立学校公認以外にはほとんど改革されていないが、学習内容には大きな変化があった。独裁政権時代には重視されていた思想教育が排され、新たに宗教教育が導入されたことである。

 生活面についてみると、政変直後には生産の落ち込みが著しく、大量の失業と激しいインフレにみまわれた。その後も慢性的なインフレが進行しているし、雇用も十分には回復していない。貧富の差は拡大の一途を辿(たど)っている。物資は豊富であるが物価が高いので、収入の少ない年金生活者や生活保護者など、社会的弱者の立場に置かれた人々の生活は圧迫されている。

[佐々田誠之助]

文化

国際的に古くから知られた学者には生物学のエミル・ラコビツァEmil Rocovitţǎ(1868―1947)、医学のビクトル・バベシュVictor Babes(1854―1926)、数学のゲオルゲ・チツェイカGheorghe Ţiţeica(1873―1939)、工学のゲオルグ・コンスタンチネスクGeorge Constantinescu(1881―1965)、歴史学のニコラエ・ヨルガなどがいる。

 第二次世界大戦後は数学のグリゴレ・モイシルGrigore Moisil(1906―73)、物理学のホリア・フルベイHoria Hulubei(1896―1972)、歴史学のアンドレイ・オテツェアAndrei Oţetea(1894―1977)、言語学のヨルグ・ヨルダンIorgu Iordan(1888―1986)などが有名である。

 近代文学は「一八四八年の革命」に触発され、フランス文学の影響下に発展した。19世紀なかばから20世紀初頭にかけて多数の文学者が現れた。ルーマニア標準語の確立に貢献し、愛国的な詩人で政治家でもあったバシレ・アレクサンドリ、ロマン派の巨匠でルーマニアの国民詩人であるミハイ・エミネスク、劇作家のイオン・ルカ・カラジアレIon Luca Caragiale(1852―1912)、民間の伝承や子供の内面世界を表現したイオン・クレアンガIon Creangǎ(1837―89)などが活躍した。20世紀最大の詩人はトゥドル・アルゲージである。散文はミハイル・サドベアヌ Mihail Sadoveanu(1880―1961)やリビウ・レブレアヌLiviu Rebreanu(1885―1944)に代表される。第二次世界大戦後はザハリア・スタンクをはじめ、数多くの詩人や作家が出た。

 音楽で国際的に有名なのは、作曲家でバイオリン奏者のジョルジェ・エネスク(エネスコ)で『ルーマニア詩曲』などを作曲した。ルーマニア音楽の先駆者では作曲家のチプリアン・ポルンベスク(1853―83)がいる。

 美術ではボロネツ、モルドビツァ、シュツェビツァなどの修道院にある16世紀の壁画は、ルーマニア民族の芸術性の証明であり誇りでもある。近代絵画では19世紀後半にニコラエ・グリゴレスクNicolae Grigorescu(1838―1907)、ヨアン・アンドレエスクIoan Andreescu(1850―82)、シュテファン・ルキアンStefan Luchian(1868―1916)の3巨匠が現れた。フランス絵画の影響を受けながらも祖国の自然や民衆の魂を描写し、近代ルーマニアの絵画技法に革命的な役割を果たした。

 このほか、陸上競技、体操、サッカー、テニス、カヌーなどには国際級の選手が多い。とくに有名なのは体操のナディア・コマネチNadia Comaneci(1961― )である。

 民族舞踊はテンポが速く、にぎやかで民族色豊かなものが盛んである。

[佐々田誠之助]

日本との関係

1917年(大正6)に公使が交換され、国交が公式に樹立された。第二次世界大戦の末期、国交は一時中断したが、59年(昭和34)に再開され、64年から大使を交換している。69年には通商航海条約が締結され、72年には日本・ルーマニア経済委員会が発足した。75年、大統領チャウシェスクが訪日、科学技術協力協定など3協定に調印した。対日貿易は1965年以降増加し、78年をピークにその後は下降気味で、経年的にみても低調であったが、2000年代以降はふたたび増加に転じた。2005年のルーマニアの対日貿易額は輸出が1億5599万ドル、輸入が1億7970万ドルとなっている。

[佐々田誠之助]

『A・オツェテア編、鈴木四郎・鈴木学訳『ルーマニア史』全2巻(1977・恒文社)』『木戸蓊著『世界現代史24 バルカン現代史』(1977・山川出版社)』『木戸蓊著『激動の東欧史――戦後政権崩壊の背景』(中公新書)』『C・C・ジュレスク著、中村一夫訳『ルーマニア統一国家完成への道――トランシルヴァニア統一60周年』(1978・恒文社)』『C・C・ジュレスク著、伊藤太吾訳『ルーマニア民族と言語の生成』(1981・泰流社)』『直野敦・住谷春也他訳『ルーマニアの民話』(1980・恒文社)』『木戸蓊・伊東孝之編『東欧現代史』(1987・有斐閣)』『R・オーキー著、越村勲・田中一生・南塚信吾編訳『東欧近代史』(1987・勁草書房)』『伊東孝之編『東欧政治ハンドブック』(1995・日本国際問題研究所)』『吉井昌彦著『ルーマニアの市場経済移行――失われた90年代?』(2000・勁草書房)』『新免光比呂著『祈りと祝祭の国――ルーマニアの宗教文化』(2000・淡交社)』『飯田辰彦文、伊東ひさし写真、旅名人編集室編『ルーマニア――伝説と素朴な民衆文化と出会う』(2006・日経BP企画、日経BP出版センター発売)』『六鹿茂夫編著『ルーマニアを知るための60章』(2007・明石書店)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「ルーマニア」の意味・わかりやすい解説

ルーマニア

◎正式名称−ルーマニアRomania。◎面積−23万8391km2。◎人口−2012万人(2011)。◎首都−ブカレストBucharest(188万人,2011)。◎住民−ルーマニア人89%,ハンガリー人7%,ドイツ人2%など。◎宗教−ルーマニア正教87%。◎言語−ルーマニア語(公用語),ドイツ語,ハンガリー語。◎通貨−ルーマニア・レウRomanian Leu(複数レイLei)。◎元首−大統領,ヨハニスKlaus Iohannis(2014年12月就任,任期5年)。◎首相−ダチアン・チョロシュDacian Ciolos(2015年11月発足)。◎憲法−1991年12月制定,2003年10月改正。◎国会−二院制。上院(定員137,任期4年),下院(定員334,うち18は少数民族に割当て,任期4年)。◎GDP−2001億ドル(2008)。◎1人当りGNI−4850ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−13.1%(2003)。◎平均寿命−男70.3歳,女77.5歳(2013)。◎乳児死亡率−9.8‰(2010)。◎識字率−97.7%(2009)。    *    *東欧,バルカン北東部に位置する共和国。南東部はドナウ川流域平野で黒海に面し,北東部のモルドバ,ウクライナとの国境をプルート川が流れる。北西部はカルパティア山脈からトランシルバニア・アルプス山脈に連なる山地・丘陵地で,両山脈に囲まれてトランシルバニア盆地がある。最高峰はネゴイウ山(2548m)。気候はやや大陸性。住民の9割近くはルーマニア人だが,トランシルバニア地方にはマジャール人(ハンガリー人),ドイツ人が多い。またロマ(ジプシー)も多く住む。第2次世界大戦までは遅れた農業国であったが,1951年以来数次にわたる五ヵ年計画で急速に工業化を進めた。石油(東欧有数),石炭,天然ガス,鉄などの鉱産があり,鉄鋼,機械,化学,繊維,食品加工などの工業が発達する。林業も重要。東〜南部のプルート川・ドナウ川流域平野,トランシルバニア盆地西部で,小麦,トウモロコシを主産,ブドウ,テンサイ,ジャガイモ,米,大麦の産も多い。工業化政策強行のひずみが1970年代後半より各方面に現れ,1989年の体制転換後は市場経済へ移行し,2003年以降は安定成長を維持した。〔歴史〕 古代にダキアと呼ばれた地で,1300年ごろあいついでワラキアモルドバ両公国が成立した。のちオスマン帝国(トルコ)の支配下に入ったが,1859年両公国が統一してルーマニア公国となり,露土戦争後の1878年に独立が承認された。1881年王国となった。第1次世界大戦後ハンガリーからトランシルバニアを得てバルカンの大国となり,第2次世界大戦ではナチス・ドイツに荷担した。1944年クーデタで独裁政権が倒れ,1947年王制を廃して社会主義国となった。自主独立路線を強調して1965年に成立したチャウシェスク政権は,COMECONの一員でありながら,ソ連の呼びかける経済協力に同調せず,ワルシャワ条約機構に加わりながらチェコスロバキアへの干渉に反対,他国軍隊の駐留を拒否,中ソ対立では中立という自主路線を堅持した。一方,重工業重視の五ヵ年計画で西側の資本と技術の導入を図ったが,西側インフレと石油危機の影響を受けて,経済は困難な状況に追いこまれた。経済危機に対処するためもあって,チャウシェスクは権力を自らに集中し,独裁体制をしいた。しかしトランシルバニアのハンガリー人牧師の活動を契機として,1989年12月軍をもまきこんだ国民の反乱で政権は倒され,チャウシェスクは銃殺された。その後,旧共産党の流れをくむ政権(大統領はイリエスク)が自由選挙によって成立したが,1996年の総選挙の結果,中道2党による連立政権(大統領はコンスタンティネスク)が誕生した。〔2000年以降の政治・経済〕 経済不振のなかで2000年の選挙ではイリエスクが大統領に復帰したが,極右の大ルーマニア党の躍進が注目された。外交面では,2004年3月に他の中東欧6ヵ国とともにNATO(北大西洋条約機構)に加盟,2007年1月ヨーロッパ連合(EU)に加盟した。2005年の大統領選挙の決選投票で,野党候補のブカレスト市長バセスクがナスターセ首相を破って当選した。EU加盟で西欧の豊富な資金が流れ込んだが,世界金融危機や2010年ギリシアの財政破綻に端を発する,ユーロ危機,ソブリン危機で経済は急速に落ちこんだ。IMFから資金支援を受けたが立て直せず,IMFやEUから追加融資を得るため,政府は公務員給与を25%削減,付加価値税(消費税)を19%から24%に引き上げるなど緊縮政策を断行。しかし国民の平均収入はEU最低水準で,国民の反発は強く,2012年1月,政府が発表した医療制度改革をきっかけに,緊縮政策や生活水準低下に反対する市民デモが各地で起こり,一部が暴徒化する事態となった。ボック首相は辞任,同年2月バセスク大統領は同じく中道右派・政権与党(民主自由党)のウングレアーヌ元外相を首相に指名,新内閣が発足したが,同年4月議会で内閣不信任案が可決され,5月,ポンタ社民党党首を首班とする社会自由同盟(社民党,国民自由党,保守党)を中心としたポンタ内閣が発足した。2012年12月の議会選挙では,社会自由同盟が圧倒的な勝利を収め,再びポンタ内閣が発足した。経済は回復基調にあるが,新政権による公務員給与の減額緩和,年金金額や最低賃金の引き上げなどの政府支出拡大政策と公共料金や物品税の引き上げとのバランスが維持できるかどうかが政権の最大課題となった。2014年11月に行われた大統領選挙の結果,中道右派候補のヨハニスPNL党首が,中道左派候補で現職首相のポンタ候補を破って当選,3期連続で中道右派の大統領が誕生した。しかし政府は議会で多数を占める中道左派党PSDを中心とする連立政権が2012年5月以降継続しており,大統領と政府/議会との間でねじれ現象が生じている。2014年12月に発足した第4次ポンタ内閣は,継続性を強調した上で,2015年から2016年にかけての重点課題として,脱税対策を含めた税制改革,欧州基金の効率的な活用,地方分権化を含む行政の効率化等を挙げている。2015年ポンタ首相の辞任に伴い,ヨハニス大統領はチョロシュを首相候補に指名し,同年11月にチョロシュを首班とする新内閣が発足した。
→関連項目モルドビア地方の教会群

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ルーマニア」の意味・わかりやすい解説

ルーマニア
Romania; Rumania

正式名称 ルーマニア。ルーマニア語ではロミニア România。
面積 23万8397km2
人口 1916万5000(2021推計)。
首都 ブカレスト

ヨーロッパ南東部にある国。ウクライナモルドバハンガリーセルビアブルガリアと国境を接し,東は黒海に面する。北部から南南東に延びるカルパート山脈と,その末端から西に延びる南カルパート山脈(トランシルバニアアルプス)とが大きな弧をなして国土の中央を通り,弧の外側にはワラキア平野,モルドバ平野(→モルドバ)の二大平野,さらにその東の黒海沿岸にはドブルジャ平野(→ドブルジャ)がある。弧の内側にはトランシルバニア盆地(→トランシルバニア)があり,その西をかぎるビホール山地などの山地群の西側には,なだらかな起伏をなすハンガリー大平原縁辺部がある。大陸性気候で冬は寒く,夏は暑い。平均気温は 7月平野部で 22℃以上,1月山地で-9℃程度。住民は紀元前からこの地方に居住していたトラキア系のダキア人と,2世紀頃この地を征服したローマ人,7~8世紀頃侵入したスラブ人,9~10世紀に侵入したマジャール人,そのほかトルコ人,ゲルマン人などの混血,同化によって形成された複合民族ルーマニア人が約 9割を占め,一部にマジャール系のセーケイ人,ロマ(ジプシー。→ロム)などが居住する。公用語はラテン語起源のルーマニア語。国民の約 9割がギリシア正教の一派であるルーマニア正教徒。古くからの農業国だが,第2次世界大戦後は企業の国有化に続き,多数の工場が新設あるいは増設されて,工業化が急速に進み,工業製品が輸出の大部分を占めるようになった。農業はコムギ,トウモロコシ,オオムギなどの穀物が中心で,ワイン用のブドウの栽培も盛ん。ウシやブタの飼育も行なわれ,牛肉は輸出品としても重要。産油国でもあるが,1947~89年の共産党政権下で産出が伸び悩み,工業,農業ともにマイナス成長となった。1989年の革命でチャウシェスク独裁政権が崩壊し,国名から人民共和国が削除された。北大西洋条約機構 NATO,ヨーロッパ連合 EU加盟国。(→ルーマニア史

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「ルーマニア」の解説

ルーマニア
România

ヨーロッパ南東部の共和国。首都はブカレスト。現在ルーマニア人が住民の多数を占め,ハンガリー人,ドイツ人,ロマなどの少数民族がいる。オスマン帝国の宗主権下に自治公国として政治的まとまりを維持してきたモルドヴァワラキアは,19世紀ロシアの保護下で同じ近代的制度改革を導入され,1848年の革命の失敗以降両公国の統合要求は強まり,クリミア戦争後の59年両公国の暫定議会はともにクザを公に選出し統一を実現した。66年ホーエンツォレルン・ジークマリンゲン家のカロルを公に迎え憲法制定,ルーマニアを正式国名とする。78年独立して王国。第一次世界大戦後,ベッサラビアトランシルヴァニアブコヴィナなどを獲得し「大ルーマニア」国家が実現した。第二次世界大戦では枢軸国に加盟したが,44年ソ連軍のルーマニア領への反攻とともにクーデタが起こった。47年王政を廃止し人民共和国成立。共産党政権は長期に及んだが,東欧革命とともに崩壊。89年12月国名をルーマニアに改名。現在EUNATO(ナトー)への加盟をめざしている。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ルーマニア」の解説

ルーマニア
Romania

ヨーロッパ南東部,黒海西岸に面する国。首都ブカレスト
先住民ダキア人が紀元前1世紀ころ統一国家をつくるが,2世紀にローマ帝国の属州となった。そのため,ルーマニア人は,ダキア人とローマ人の混血といわれる。その後,10世紀にマジャール人の支配下に置かれ,14世紀初めにワラキア・モルダヴィア両公国が建設され,15世紀オスマン帝国に支配された。19世紀にはいると民族運動が広まり,クリミア戦争後自治権を得,1878年のベルリン会議でオスマン帝国からの独立を承認され,81年にルーマニア王国が成立した。第一次世界大戦では連合国側に加わり,ベッサラビア・トランシルヴァニアを領土として大ルーマニアを実現した。1930年代末から専制体制となり,第二次世界大戦では枢軸国側に加わって独ソ戦に参戦したが,ソ連に敗れ,44年の人民クーデタによって連合国側に転向したのち,45年に共産党・社会民主党を主体とする国民民主戦線が成立した。1947年王政は廃止されて人民共和国が成立し,65年には憲法を改正して国名をルーマニア社会主義共和国と改めた。同時にチャウシェスクによる独裁体制が築かれるいっぽう,西側諸国や中国との独自の外交路線が展開された。1989年東欧革命が進むなか,12月反政府デモが広がりチャウシェスク政権は崩壊し,大統領夫妻が処刑され,救国戦線評議会(議長イリエスク)のもと,国名がルーマニアに改称された。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android