目次 地理,住民 歴史 ラテン的性格とその歴史的意味 モルダビアとワラキアの統一 農奴解放と資本主義化 両大戦とルーマニアの自立 政治 経済,産業 社会 文化 文学,演劇 音楽 美術 基本情報 正式名称 =ルーマニアRomânia , Romania 面積 =23万8391km2 人口 (2010)=2144万人 首都 =ブカレストBucharest(日本との時差-7時間) 主要言語 =ルーマニア語(公用語),ハンガリー語,ドイツ語 通貨 =レウLeu(複数レイLei)
南東ヨーロッパに位置する国。ルーマニアは英語よみで(ただしRomaniaとも綴る),ルーマニア語ではロムニアRomâniaと呼ぶ。東は黒海に面し,北東はモルドバ共和国 (旧ソ連),北はウクライナ,北西はハンガリー,南西はセルビア,南はブルガリアに囲まれ,国境の延長は3190km。行政区域は1特別市(首都のブカレスト ),40県に分かれる。他の主要都市はコンスタンツァ ,クラヨバ ,プロイエシュティ ,ブラショブ ,シビウ ,アルバ・ユリア など。
地理,住民 国土の中心にトランシルバニア盆地 があり,東カルパティア,南カルパティア(トランシルバニア ・アルプス),西カルパティア(ビホールBihor山地またはアプセニApuseni山地)の各山脈がこれを取り囲んでいる。カルパティア(カルパチ )山脈のまわりにはスブカルパティア山地,モルドバ丘陵,ルーマニア平原,西部平原などが広がる。ドナウ川は南部国境を流れ,下流でドブロジャ丘陵を迂回して黒海に注ぎ,河口に広さ4340km2 のデルタをつくる。ほかに主要河川としては,トランシルバニアではムレシュ 川が多くの支流を集めて西流し,ワラキアではジウJiul川,オルトOltul川が南流,モルドバではプルート 川がウクライナ,モルドバ共和国との国境をなして南流し,いずれもドナウ川に合流する。
森林地帯はカルパティア山脈 に集中するが,標高1000~1400mまではオークなどの広葉樹,1200~1400mはモミ,ドイツトウヒなどの針葉樹が繁茂する。1800mを超えると,ササ類が多い。また河川の流域の湿地やデルタには,ヨシ,ヤナギ,ポプラなどが水辺の森をつくる。山地には,シャモア,鹿,熊,狼,猪など大型野生動物がすみ,デルタにはペリカンの営巣地があり,チョウザメ類も生息する。
最新の国勢調査(1992)による人口2281万人を民族別にみると,ルーマニア人89.4%,少数民族が240万人(10.6%)。少数民族の内訳は,ハンガリー人(マジャール人)が総人口の7.1%,ロマ(ジプシー)1.7%,ドイツ人0.5%,ウクライナ人0.3%,ユダヤ人0.04%など。ハンガリー人やドイツ人は,ともにトランシルバニア盆地や西部平原に住む。なお国外に住むルーマニア人は約800万人といわれている。
公用語はルーマニア語 であるが,各民族の言語は尊重され,とくにハンガリー語とドイツ語は公用語に準ずる扱いを受けている。
宗教は東方正教会に属するルーマニア正教をはじめ,カトリック,プロテスタント など14の宗派が認められている。 執筆者:佐々田 誠之助
歴史 ラテン的性格とその歴史的意味 ルーマニア史の特徴の一つとしてそのラテン的性格があげられ,ルーマニア人自身もスラブ人やマジャール人に囲まれたラテンの孤島に住んでいるという意識を強くもちつづけている。しかしラテン的性格とは,ルーマニア民族の起源あるいは彼らの民族的帰属意識を示すものとして用いられると同時に,彼らの政治理念あるいは一種の国家意識をも示す場合があり,両者は区別される必要がある。ルーマニア民族の起源についてはルーマニア人の学者とドイツおよびハンガリー人の学者との間に長い論争の歴史があるが,現在の研究成果によれば,ダキア人とローマ人の混交によって生じたダコ・ロマン人が彼らの祖先であり,中世初期の文献では彼らはブラフVlahと呼ばれていた。いわゆる民族大移動の時期におもに山間部に避難した彼らは,ドナウ・カルパチ地域に分散して居住し,やがて小さな〈くに〉を形成するようになったが,14世紀に国際情勢の変化とブラフ居住地域の膨張によってワラキアとモルダビア(モルドバ)の二つの公国をつくった。両公国は隣接し互いに多くの社会的共通性をもちながらも,ミハイ勇敢公 が1600年にごく短期間統一した時期を除けば,19世紀後半まで別個の国家をなしていた。しかし中世以来ワラキアとモルダビア,それにトランシルバニア,バナト などの諸地方に住むルーマニア人は,同一の言語を話す同族意識をもちつづけ,それは中世の年代記にも後づけることができる。ところが18世紀後半,まずトランシルバニアのルーマニア人の間に民族運動が起きるとともに,そのような同族意識は一つの政治理念にまで高められることになった。そのために重要な役割をなしたのはいわゆるトランシルバニア学派 の思想家の著作やSupplex libellus Valachorumと呼ばれる〈ワラキア人嘆願書 〉であった。後者はトランシルバニアのルーマニア人代表者が同地方を支配していたオーストリア皇帝の提出したもので,ルーマニア人がトランシルバニアの諸民族のなかで最古からの居住者であるばかりでなく,人口からいっても多数を占めているという新たな原理を根拠にして,ドイツ人(ザクセン人),ハンガリー人,セーケイ人 と同等の民族的権利を要求している。こうして19世紀前半の末には,ルーマニア人が多数を占める諸地域が合同してルーマニア国家を建設するという政治意識が芽生え,初めてルーマニア(ローマ人の子孫の国の意味)ということばも用いられるようになった。そして,その最初の実現が1859年のワラキアとモルダビアの統一であり,1920年のトランシルバニア,バナトなどの併合によってそれが完成されたとみるのである。
ルーマニア史を理解するうえで重要なもう一つの特徴は,ルーマニアがバルカン半島の北辺に位置するという地域的性格である。ルマニア人は中世以来,宗教(東方正教)をはじめ文化的にはビザンティン文化圏に属していたが,ビザンティン文化圏とカトリック文化圏(ハンガリー,ポーランド)との境界地域に居住していたため,政治的にも文化的にも両文化圏の影響を強く受けた。ビザンティン帝国 に代わってオスマン帝国が南東ヨーロッパを支配するようになると,ワラキアとモルダビアはその貢納国となり,トランシルバニアも一時期貢納国となったが,ギリシアやブルガリアのようにオスマン帝国領に編入されなかったために,国内の自治と外交権は認められ,貴族制度などをはじめある程度固有の社会制度と文化を発展させることができた。18世紀にオスマン帝国が弱体化しオーストリアとロシアが台頭するようになると,両公国はいわゆる東方問題の舞台となり,オスマン帝国の支配からの脱却は同時に,政治的にはロシア,経済的にはイギリスをはじめとする西欧先進諸国への従属を強める結果を生み出した。とくに1829年アドリアノープル条約によってオスマン帝国の貿易独占権が失われてからは,両公国は直接に資本主義的世界市場に組み入れられ,イギリスなどの先進工業国への原料供給国となり,モノカルチャー的経済構造をもつ植民地的状態に置かれるようになった。ルーマニアの民族国家としての発達がこのような大国による絶えざる政治的脅威と植民地化の危険に抗しながら行われた点を見落としてはならない。
モルダビアとワラキアの統一 近代ルーマニア国家の形成は,先述したように1859年の両公国の統一に始まる(これ以上前の歴史については〈モルドバ〉〈ワラキア〉などの項目で詳述される)。クリミア戦争以前は両公国はスルタンの宗主権とロシアの保護権の下に置かれ,ロシアの監視下で成立した〈組織規程〉が憲法として効力をもっていたが,クリミア戦争でのロシアの敗北後,スルタンの宗主権は残されたがロシアの保護権は廃され,代わって1856年のパリ条約調印諸国の共同管理下に置かれた。同条約によって設立された両公国の暫定議会は,59年1月,共にクザ を公に選出することによって両公国の統一を実現し,管理諸国もこれを承認した。管理諸国の間でも利害の対立があり,イギリスとオスマン帝国は両公国の強化を恐れて統一に反対したが,フランス,ロシアは統一を支持した。クザは首相のコガルニチャーヌ と組んで64年には農奴解放を含む近代化の諸立法を行ったが,反対派の勢力も強く,66年には退位を余儀なくされた。議会はホーエンツォレルン・ジークマリンゲン家のカール(ルーマニアではカルロ1世 )を公に迎え,1866年憲法が制定された。77年露土戦争が始まると,ルーマニアもロシア側に立って宣戦を布告し,プレベンの会戦でオスマン帝国軍部隊を撃破した。この戦争の結果,78年サン・ステファノ条約 でルーマニアの独立が承認され,それは同年のベルリン条約 でも確認され,81年にはルーマニアは王国となった。なおベルリン条約でルーマニアはドブロジャを獲得したが,ベッサラビア 南部はロシア領になった。
こうしてルーマニアは完全な主権国家となり,その後のルーマニア民族の発展にとって重要な礎を築くことができた。新国家は当時の政治思想に従ってキリスト教的な民族国家をその理念とするものであり,そのためにルーマニア民族と少数民族との関係の問題が生じてきた。1859/60年の統計によれば,当時の領土上の総人口372万5000のうち少数民族の比率は17.6%であり,おもな少数民族としてはジプシー23万,ブルガリア人20万,ユダヤ人1万3300,ギリシア人4万,ハンガリー人3万8000,ドイツ人3万2000がいたが,60年代以降,とくにユダヤ人問題が政治問題化した。1866年憲法には〈外国人のうちキリスタ教の儀礼に従う者のみがルーマニア人たる要件を得ることができる〉(第7条)という規定が設けられ,その後ユダヤ人に対しさまざまな経済的・社会的規制が行われるようになった。1848年の革命の指導者だったブラティアヌ やコガルニチャーヌが当時相次いで内相となり,反ユダヤ政策を推進している。諸宗教の平等規定(第44条)を含む78年のベルリン条約を受け入れるに当たり,憲法第7条の部分的修正が行われたが(1879年10月),ユダヤ人の実質的な解放は得られなかった。
農奴解放と資本主義化 ルーマニア社会の資本主義化にとって重要だったのは1864年の農奴解放であり,これはほぼ同時期に東欧諸国で行われた農奴解放と類似の性格をもっていた。64年の農業法は46万3554家族に土地を与えることを企画していたが,その実施にはさまざまな妨害が伴い,また買戻し条件が過酷なものであったために,結局農地の3分の2は大土地所有者の手に帰し,大多数の野民は週の大半を地主の農地で労働することを余儀なくされた。19世紀を通じてルーマニアはヨーロッパの主要な小麦輸出国の一つとなったが,可耕地の9割が小麦生産に当てられ,輸出の8割を小麦が占めるというモノカルチャー,モノエクスポート的な植民地経済の構造を呈していた。民族産業資本家の形成は遅れ75年のオーストリア・ハンガリー二重帝国との通商協定が示すように,ルーマニアはオーストリア・ハンガリーへの自由な小麦輸出と引換えに関税率を2~4%に引き下げ,そのために外国の工業製品が市場にあふれる状態だった。独立達成後は保護関税政策がとられるようになったが,大土地所有者の反対と外国資本の流入によって,国内市場の拡大や民族産業の育成にはあまり効果がなかった。首都ブカレストには高層建築や大地主の邸宅が建てられる一方,農民は貧困にあえぎ,栄養不足が原因であるペラグラ(ビタミンBの欠乏を原因とするバルカンの風土病)にかかる者が多かった。当時のルーマニア社会の矛盾を端的に表したのが,1907年にモルダビア北部のボトシャニ県に起こって燎原の火のようにワラキア(ムンテニア,オルテニア)地方に広がった農民大蜂起であった。蜂起は軍隊の出動により数千の死者を出して鎮圧されたが,その規模の大きさから20世紀のヨーロッパにおける最後の農民大蜂起ともいわれている。
両大戦とルーマニアの自立 20世紀に入ると,バルカン情勢の悪化から年々軍事予算が増大し,それとともにきわめて民族主義的な風潮が広まっていった。ルーマニアは第1次バルカン戦争 には参加しなかったが,第2次バルカン戦争ではブルガリアからドブロジャ 南部のカドリラテル地方 を獲得した。社会主義者の側からの戦争阻止の運動も強まり,バルカンの諸人民の連帯を求める気運も高まったが,実現されなかった。第1次世界大戦では当初中立の立場を維持していたが,1916年オーストリア・ハンガリー内のルーマニア人居住地域の併合を条件に連合国側に立って参戦する同盟条約をイギリス,フランス,ロシア,イタリアと結んだのち,オーストリア・ハンガリー,ドイツおよびブルガリアと戦闘状態に入った。ルーマニアはブカレストを占領され,17年にフォクシャニで休戦協定を結び,18年4月にはブカレスト講和条約 を締結した。他方,トランシルバニアのルーマニア人の間には,19世紀後半以来ハンガリー化政策が強化されたこともあって民族運動が強まり,オーストリア・ハンガリー二重帝国が崩壊の危機に瀕していた18年12月1日,アルバ・ユリアでトランシルバニアとバナトの各地から集まった10万を超えるルーマニア人の大集会が開かれ,ルーマニアとの統一を宣言した。その後ただちにトランシルバニアの臨時政府がつくられたが,選出された政府委員はルーマニア民族党10名,社会民主党2名,その他3名だった。
ドイツの敗色が強まり,18年11月に再度宣戦したルーマニアは,第1次大戦の講和条約では戦勝国に加えられた。そして19年のサン・ジェルマン条約 でブコビナを,20年のトリアノン条約 でトランシルバニア,クリシャン,マラムレシュ,バナトの諸地域を併合し,多年の宿願であった統一を実現した。しかしベルサイユ体制 に反対する国々やソ連からは大ルーマニア主義あるいは小帝国主義国という批判を受け,また諸民族の混住する地域を併合したことによって少数民族問題はより複雑になった。すなわち総人口1789万5000のうち少数民族はその29.2%を占め,おもな少数民族としてはハンガリー人142万6000,ドイツ人74万5000,ユダヤ人72万8000,ロシア人40万9000,ウクライナ人38万2000,ブルガリア人36万6000,ジプシー26万3000がいた(1930年の国勢調査)。
統一を実現したルーマニアにとって,戦間期は植民地的状態を脱して政治的・経済的な自立を達成できるか否かの試練の時期となった。最初の重大な改革は農地改革であった。すでに大戦中にフェルディナンド1世Ferdinand Ⅰ(在位1914-27)は農民に土地と自由とを約束していたが,1918年以後いくつかの布告が出されたのち,21年に最終的に農地改革法が制定・実施された。これは同時期に行われた他の東欧諸国の農地改革に比べより徹底しており,地主階級に課した負担も最も大きかったと評価されており,100ha以上の農地の総面積の66.2%にあたる612万5000haの収用と,230万9000人の農民への分与が予定されていた。実際には予定どおりには実施されなかったにせよ,この改革によって100ha以上の大農地の占める割合は42年には16.3%にまで減り,地主階級の経済力は大いに弱められた。しかしモノカルチャー的経済構造は基本的には解消されず,集約的農業への移行は実現されなかった。工業の分野では,大戦後比較的長期にわたって政権を担当した自由党のブラティアヌらによって経済自立政策がとられ,保護関税政策が実施された。ブルジョアジー の立場を強めたといわれる1923年憲法には,たとえば鉱物資源に対する外国資本の支配を禁止する規定が設けられたりしたが,自立的産業の育成には成功しなかった。1922-28年の相対的安定期においても,各産業部門別にみれば,外国資本の比重の高かった石油産業を除いては顕著な伸びはみられなかった。
29年の世界恐慌はこのような経済自立政策を破綻させ,やがてそれに代わって組合corporation主義の原理に基づく経済理論が台頭するようになった。政治では30年にカロル2世が即位し,38年に国王独裁制を敷くに及んでファッショ化の道をたどり,議会は国王の補助機関と化し,政党も解散させられた。ドイツ,イタリアの圧力が強まるなかで,40年カロル2世は退位し,ミハイが王位に就いたが,ドイツに親任のあついアントネスクIon Antonescu(1882-1946)が国家指導者となり,やがて日独伊3国協定に加盟した。この間40年6月にソ連はルーマニアに最後通牒を送り,ベッサラビアと北ブコビナを領有,ブルガリアも南ドブロジャを領有,また独伊のウィーン裁定によってトランシルバニア北部がハンガリーに与えられた。41年6月ルーマニアは対ソ連に参加した。国内では労働者や知識人による反戦運動が起き,44年8月ソ連軍がルーマニア領土への反攻を開始したのに呼応して首都で武装蜂起が起こり,アントネスク政権を倒した。 →トランシルバニア →モルドバ →ワラキア
政治 1944年8月23日の武装蜂起は現代ルーマニアの起点をなす重要な事件である。8月23日午前,農民党党首マニウIuliu Maniu(1873-1955)が国王ミハイに反アントネスク・クーデタの即刻実行を進言し,国王は同日午後5時謁見のために伺候したアントネスクを解任して即時逮捕させ,10時にはラジオを通じてファシズム体制の終焉と連合国との戦争の停止を宣言した。事件がこのような経過をたどったため,宮廷クーデタとみる見方もあるが,23日中に首都のすべての要所を占拠してドイツ軍と対決したのは軍隊であり,軍の果たした役割は大きかった。また当時の共産党は非合法の状態に置かれ党員数も少なかったが,知識人や労働者の反ファシスト勢力を結集して23日には軍と協力して武装蜂起を敢行したのであり,やはり広範な人民の蜂起とみるべきであろう。こうして8月30日にソ連軍がブカレストに進駐したとき,すでに首都は解放されていたのである。政変後サナテスク将軍が最初の内閣の首班となったが,自由党,農民党,共産党,社会民主党からの閣僚を含む混成内閣で,国政のゆくえも混沌としていた。同年9月共産党のパトラシュカヌを筆頭とするルーマニア代表団はモスクワで休戦協定を結び,ルーマニア軍の対独戦争への参加が決定されたが,ベッサラビアと北ブコビナのソ連への帰属も決められた。その翌月にはモスクワでチャーチル=スターリン会談が行われており,そこでは東欧分割案とのかかわりでルーマニアは90%ソ連の影響下に置かれることが取り決められていた。
44年8月のクーデタ以後の政治的発展はほぼ次の諸時期に分けられる。(1)1944年8月23日~45年3月6日 ともに混成内閣だったサナテスク内閣とラデスク(将軍)内閣に次いで,グローザを首班とする民主的内閣が成立するまでの期である。(2)1945年3月6日~47年12月30日 グローザ内閣のもとで農地改革をはじめとする諸改革が着手され,46年9月には1937年以来の総選挙が行われ,〈民主政党ブロック〉が80%の票を獲得した。国王勢力は孤立し,ミハイは47年イギリス王女エリザベスの結婚式に参列して帰国した直後,グローザらに退位を要求されて署名し,ルーマニア人民共和国が誕生した。なお47年2月にはパリ講和条約が結ばれ,トランシルバニア北部のルーマニアへの復帰が認められた。(3)1948年1月~53年3月 48年2月ソ連・ルーマニア友好同盟が締結され,その後まもなく共産党と社会民主党が合同しルーマニア労働者党 と改称した。パトラシュカヌが失脚し,ルーマニアの党は東欧でも最もソ連に忠実な党といわれた時期であり,それがスターリンの死までつづいた。(4)1953年3月~65年3月19日 ゲオルギウ・デジ の指導した時期で,53年のベルリン暴動以後ソ連とルーマニアの合弁企業の廃止やソ連駐留軍の削減が目だち,59年にはコメコンの主張する社会主義諸国間の分業体制に反対した。60年以後の中ソ論争では中国に対する非難を拒否し,64年にはG.マウレル首相が中国を訪問し,またアルバニア,ユーゴスラビア との関係改善を図るなどの自主外交を展開した。(5)1965年以後 ゲオルギウ・デジの急死により党第一書記に就任したチャウシェスクNicolae Ceauşescu(1918-89)の指導する時期である。65年7月の党大会で党名をルーマニア共産党に改称し,第一書記の職名も書記長に改め,また同年8月には新憲法を採択して,社会主義共和国と規定した。67年チャウシェスクは国家評議会議長,74年には新設の大統領となり,自主独立と工業化の政策を推し進め,またソ連をも批判する独自の外交を展開している。
ルーマニアの国家組織は,唯一の立法機関である大国民議会が,国家権力の最高機関である国家評議会と閣僚会議とを選出するが,ゲオルギウ・デジの時期には,党とこれらの国家権力を彼とC.ストイカ,マウレルが分担していた。チャウシェスクは74年の憲法改正により,国家評議会にはかならず国家権力を行使できる大統領制を設置し,自らが大統領に選ばれたため,これまでにないほどの権力を掌握することとなった。80年代にルーマニアは,対外債務が増大し工業化路線の見直しが迫られ,チャウシェスクはなおいっそう国民のナショナリズム に訴えることによって自主独立と工業化という二つの主要目的を達成しようと努めている。
経済,産業 第2次大戦前ルーマニアは絶えず列強による侵略と植民地化の危険にさらされていたが,それに対して経済理論家たちは二つの相対立する立場に分かれていた。すなわち工業発展による自立化の道を選ぶ者と永久農業立国論を唱える者とであった。第2次大戦後ルーマニアが社会主義への道を歩み始めたとき,圧倒的に強かったのはソ連型のマルクス・レーニン主義理論であり,そのためソ連をモデルとした重工業を中心とする一国社会主義的政策がとられた。人民共和国が成立し,ルーマニア労働者党の創設(これもソ連の強い指示によるものだった)によって政治的基盤ができ上がると,1948年国家計画委員会が設立された。49年に最初の一ヵ年計画が立てられ,51年からは第1次五ヵ年計画が始まったが,そこではソ連の意志による強行的な工業化政策がとられ,一般民衆の生活水準の向上や農業の集約化などよりも上位に置かれた。スターリン批判以後,工業とくに重工業への過度の投資はゲオルギウ・デジによっても自己批判されたことがあり,最近ではチャウシェスクが灌漑の整備に意欲的に取り組みはしたが,基本的には重工業を中心とする工業化政策はその後もひきつづき踏襲されてきたといってよい。
そのために第2次大戦後,ルーマニア経済の構造は基本的に変化した。工業総生産は80年には1950年の33倍に達し,51年から80年までの期間をみても年平均成長率は12.3%であり,これは世界でもきわめて高い部類に属する。工業生産のなかでも,金属・機械・化学部門の占める比重は年々増大し,1938年には19.6%だったのが,50年には23.9%,80年には54.5%に及んでいる。輸出をみても工業製品の占める割合が急増し,1950年には55.1%だったのが,80年には90%近くにまで増大した。こうしてルーマニアは農業国から工業国へと変身することに成功したといえるであろう。ドナウ下流の港市ガラツィには西ドイツや日本などの技術を導入して建てられた大製鉄所があるが,国民1人当りの鉄鋼生産をみると,ルーマニアはアメリカに次いで2位を占めている。しかしこのような急速な工業化が矛盾を生み出さなかったわけではない。すでにコメコン諸国とは50年代末から意見の対立が目だつようになったが,それは重工業はソ連や東ドイツなどに任せ,ルーマニアには化学工業と農業を割り当てようとした社会主義諸国間の分業体制をルーマニアが承認できなかったためである。しかし,それ以上に重大なのは急速な工業化と重工業中心的な経済構造それ自体のために,消費水準の抑制や農業の集約化の遅れのようなひずみが生じ,またきわめて中央集権的な計画経済を強行するために生産性が伸び悩んでいることである。経済改革の試みがまったく行われなかったわけではないが,その点では他の東欧諸国よりも遅れている。1980年代に急激に増えた外国からの借款は国内的要因のみによるものではないとしても,経済改革のさし迫った必要を告げている。
社会 ルーマニア人はよく国土の豊かさと多様性と調和を誇りにするが,自然条件だけでなく社会的,文化的にもいくつかの個性的な地方に分かれている。かつてワラキアと呼ばれたムンテニア・オルテニア地方はドナウ河岸まで広がる平野が大部分で,ブカレストやクラヨバのような都市を除けば単調な地方だが,住民は敏活で,とくにオルテニア人は抜け目がないとはよく聞く話であり,しゃべり方も早口である。モルダビアは北部へいくにしたがい丘陵地帯が多く,人びとは好んでその地方の優れた文化的遺産について語り,話し方もどこかゆったりとしている。トランシルバニアはそれ自体カルパチ山脈に囲まれた盆地の観を呈し,自然の変化に最も富んだ地域であるが,文化的にもハンガリー人やドイツ人が共住しているせいかバラエティに富んでいる。このほかにもハンガリー人やドイツ人やセルビア人の共住する西部のクリシャン・バナト地方,最近は観光地として宣伝されているが今でもトルコ人の居住する黒海沿岸のドブロジャ 地方があり,それぞれの地方が,ルーマニアが形成されるまでの複雑な歴史的・社会的過程を物語っている。もちろん第2次大戦後の急速な工業化と都市化の波に押されて伝統的な地域的特色が失われつつあることを事実である。
ルーマニアの工業・建設部門に従事する者の人口比は1965年の25.5%から75年の38.7%にに増え,農業・林業部門に従事する者は1965年の56.7%から75年の38.1%に減少している。主要都市だけでなく地方都市の都市計画にも目をみはるものがあり,高層住宅が整然と建設されつつあるが,農村から都市への人口流失もおびただしい。1962年に農業の集団化が達成されたことからもわかるように,ルーマニアは農業の集団化(一般的な形態は協同組合型集団農場)が東欧諸国のなかでも進んでいる国であるが,ここでも農場には老人と子どもが多く残る減少が現れ,収穫期にはたくさんの学生や生徒がブドウ園や畑へ出かけて愛国労働を行う姿がみられる。工業化の流れは諸地域の少数民族の構成にも変化を生み出している。たとえばかつては中世ドイツの面影をただよわせていたトランシルバニアの商業都市ブラショブは,戦後の一時期スターリン市と改称され,トラックやトラクター工場をはじめとする工業都市に変貌したが,そのために多数のルーマニア人労働者がムンテニアやモルダビアから移住し,現在は歴史的建造物を除けば,ルーマニア色が強まっている。ドイツ人やユダヤ人は西ドイツやイスラエルへ移住した者も多く,現在は少数民族の比率は低下しつつある。1930と77年の民族別人口構成の統計をみると,ルーマニア人は77.9%から89.1%に増えたのに対し,ハンガリー人は10.0%から7.7%,ドイツ人は4.4%から1.5%に減っている。さらに第2次大戦後の少数民族関係の諸立法によって戦間期に行われたような差別政策の多くは除去された。しかし社会変動によって少数民族問題は絶えず新たな形で出現する可能性をはらんでおり,現に1970年代以後ルーマニアとハンガリーの新聞・雑誌にトランシルバニアのハンガリー人の処遇をめぐって論議が交わされるようになり,84年9月にはハンガリー政府がこの問題について21項目の覚書をルーマニア政府に送ったとも伝えられている。平等を原則とする社会主義の立場から少数民族問題をいかに解決するかは,民族統一国家ルーマニアにとって一つの課題となるであろう。 執筆者:萩原 直
文化 文学,演劇 ルーマニア人は古代のダキア人とローマ人の混血によって生じた民族であるが,文化的には南スラブ,ギリシア,ビザンティンの深い影響を受けており,口承文学にもバルカン諸国と共通の要素が多い。有名なバラードとしては,羊飼いの詩を歌った《ミオリツァMiorţa》,バルカン共通の人柱伝説を題材とする《石工マノーレMeşter Manole》や,ハイドゥク (山賊)を歌ったものがある。いわゆる〈美童子〉の活躍する民話も豊かであり,抒情歌謡〈ドイナ〉も古い伝統をもっている。
現存するルーマニア語最古の文献は16世紀前半のもので,16世紀後半には教会スラブ語からの宗教書の翻訳,出版が盛んになった。17~18世紀には,人文主義的教養を身につけ国際的に活躍したスパファリー ,D.カンテミール のような文人がおり,多くの年代記がモルタビア公国で書かれた。トランシルバニアでは,18世紀末にラテン系民族としての自覚を訴える言語学者,歴史家のグループが活躍し,アルデアル(トランシルバニアの別名)学派と呼ばれた。
19世紀の民族解放運動の時期には文学の近代化も促進されるが,そのなかで決定的な役割を果たしたのは,1814-49年の革命に参加したロマン派の文学世代である詩人アレクサンドリ ,小説家ネグルッジ,歴史家コガルニチャーヌ ,バルチェスク らであり,これ以後,フランス文学の影響が強まることになる。最後のロマン派でルーマニア詩の最高峰エミネスク の出現によって現代文語が確立された。リアリズム小説はフィリモンNicolae Filimon(1819-65),ザンフィレスクDuiliu Zamfirescu(1858-1922),スラビチ,オドベスクらの創作によって高い水準に達した。フランス象徴主義の影響下にマチェドンスキAlexandru Macedonski(1854-1920)が詩形成の革新に努力し,民族運動の激化するトランシルバニアからは民衆の苦悩を歌うコシュブクGeorge Coşbuc(1866-1918)が出,その伝統は次の世代のゴガ に継承された。民謡,民話,言語の本格的研究がハスデウBogdan Petriceicu Hasdeu(1838-1907)とともに始まり,クリヤンガ の創作民話は民衆の愛読書となった。カラジャーレ の喜劇とコント,短編小説は演劇,小説の近代化に大きな役割を果たした。また,マルクス主義の立場に立つドブロジャヌ・ゲレヤ とドイツ観念論美学を背景とするマイオレスクの2人によって文芸批評も確立され,それは次の世代のロビネスクによって発展させられた。
20世紀初頭,歴史家ヨルガ の推進する農民文学運動のなかから,散文芸術の完成者サドベヤヌ が出て圧倒的な影響を及ぼし,その伝統のなかから戦間期のレブリヤヌ,戦後のスタンク ,プレダ,ポペスク,ニャグらの作家が輩出した。急速な都市化や労働運動の発展とともに,都会の風俗のなかに知識人,労働者の姿を描く近代小説も盛んになり,パパダト・ベンジェスクHortensia Papadat-Bengescu(1876-1955),ツェザル・ペトレスクCezar Petrescu(1892-1961),カミル・ペトレスクCamil Petrescu(1894-1957)らの小説が書かれた。この伝統は戦後にはイバシウク,エウジェン・バルブらによって受け継がれている。正教の司祭でもあったガラクチオンGala Galaction(1879-1961)の幻想小説は,ボイクレス,そして有名な宗教学者のエレアーデ に継承されており,それは戦後のバヌレスクŞtefan Bǎnulescu(1929- ),ティテルSorin Titel(1935- )らの前衛派文学やコリンVladimir Colin(1921- )らのSF小説につながっている。20世紀の詩壇ではアルゲージ の創造が前人未到の世界を切り開き,哲学者詩人ブラガ ,印象派のバコビアBacovia(1881-1957),数学者・詩人のヨン・バルブIon Barbu(1895-1961)もそれぞれに独創性のある世界を創造した。戦後に出た詩人としては,ラビシュ,ソレスク,スタネスクが注目される。カラジャーレ以後の演劇はカミル・ペトレスク,ミハイル・ザンフィレスク,セバスチアン,ソルブル,エフティミウらによって発展させられた。文学批評では,作家でエミネスク研究家のカリネスクGeorge(Gheorghe)Cǎlinescu(1899-1965),ビアヌTudor Vianu(1879-1964)が戦前・戦後にかけて活躍し,その門下化からパプ,ブシュレンガらが出ている。戦後にフランスで活躍しているルーマニア出身の作家には,ゲオルギウConstantin Virgil Gheorghiu(1916-92),イヨネスコ や,E.M.シオラン らがいる。 執筆者:直野 敦
音楽 ルーマニアの民族音楽は,葬儀には語り風の哀歌ボチェトが,日照りには雨乞いの歌スカロイアヌルが,というように四季の祭りや結婚式,宗教的儀礼に密接に結びついている。なかでもクリスマスから新年にかけて歌われるコリンダcolindǎは,キリスト教以前の異教的信仰を反映し,音楽的にも特徴がある。民謡のなかでは,テンポのゆっくりした,自由なリズムの抒情歌ドイナdoinǎが最も一般的であり,これと対照的なのが,テンポが速く,きちっとした明確なリズムをもった踊りの音楽ホラhorǎである。この踊りの音楽はおもに器楽であるが,地域によっては歌で伴奏する踊りもある。踊りの音楽はアクサクaksakと呼ばれる2と3の単位をいろいろに組み合わせた不規則なリズムを特徴としている。楽器では指孔のない縦笛ティリンカtilincǎ,リュート系の弦楽器コブザcobzǎ,小型のツィンバロム (ツァンバルţambal),バッグパイプ (チンポイcimpoi)が一般的であるが,なかでは,たくさんのパイプを組み合わせて作るパンパイプ のナイnaiが有名である。これらの楽器はもっぱらラウタールlǎutarと呼ばれるジプシーの音楽家によって演奏されている。
芸術音楽の発展は,西欧化の早かったトランシルバニア地方から始まる。16世紀から17世紀にかけて,同地方を中心に活躍したオステルマイヤーHieronimus Ostermayer(1500-61),ライリヒGabriel Reilich(1630?-77)らの作品は,ルネサンスや初期バロックの様式の影響の下にあった。19世紀に入ると,ルーマニアの独立と民族統一の運動を背景に国民音楽創造の気運が高まり,パンAnton Pann(1796-1854),フレヒテンマッハーAlexandru Flechtenmacher(1823-98),ムシチェスクGavriil Musicescu(1847-1903)らが,民族音楽を基盤にした作品によって,近代ルーマニア音楽の創造に貢献している。一方この時期,音楽活動の組織化が進み,国立音楽院(1860),ルーマニア・フィルハーモニー協会(1868),ブカレストのオペラ劇場(1877),などの設立によってルーマニアの音楽文化の水準は飛躍的に高まった。
20世紀に入ると,作曲家エネスコ の活躍によって,ルーマニアの音楽は国際的な注目を浴びることになる。彼の作品は民謡を主題としたものが多く,民族的な要素と西欧の音楽との統合によって,ルーマニア独自の音楽を創造するという,ルーマニア音楽文化の基本的課題に応える多くの作品を残している。作曲家だけではなく,ピアニストのハスキルClara Haskil(1895-1960),リパッティDinu Lipatti(1917-50),指揮者のシルベストリConstantin Silvestri(1913-69)チェリビダッケSergiu Celibidache(1912-96)ら,国際的に著名なルーマニア出身の演奏家も数多い。 執筆者:谷本 一之
美術 ギリシア文化は,早くからその影響をルーマニアの地にも及ぼしていた。北東部のククテニCucuteni出土の新石器時代の彩文土器において既に,その曲線文様は,クレタ島やエーゲ海の文化との結ぴつきを示し,前7~前6世紀に黒海沿岸に建設されたイストロスIstrosやトミスTomis(現,コンスタンツァ)などのギリシア植民地は,ローマ時代またビザンティン時代においても栄え,古典古代文化の拠点であった。一方,ダキア人やゲタイ人の作品と考えられるコツォフェネシュティ・プラホバCoţofeneşti-PrahovaやハジギオルHadjighiol出土の前5~前4世紀の金・銀の武具など(ともにブカレスト歴史博物館蔵)は,地中海文化の影響を受けつつも,プリミティブな力強さをみせる。2世紀初頭トラヤヌス帝によって征服され,ダキアとしてローマの属州となり,多くの都市が各地に建設された。アダムクリシAdamklissi村近くにあるトラヤヌスの勝利を記念したモニュメントの跡はこの時期のもので,多くの浮彫や銘文が残っている。その後の民族移動期の作品として,1837年ピエトロアサPietroasaで発見された22の金工品は4世紀のゴート人の手になるものと考えられている。1779年シニコラウル・マレSînicolaul Mare出土の金工品(当時ハンガリー領で,ハンガリー語の地名をとって,〈ナジセントミクローシュの遺宝〉としてウィーン美術史美術館蔵)は,9~10世紀のものではあろうが,ハンガリー人の移動・定着の混乱期の作品であり,ササン朝ペルシア やイスラムのモティーフをも含むことから,どの民族の制作になるかは,意見が分かれている。
10世紀,ハンガリー人の東進とビザンティン帝国による黒海沿岸の再征服は,それ以後のルーマニアにとって決定的な意味をもっていた。つまり,トランシルバニアでは,住民はハンガリー人および12世紀より植民を始めたドイツ人であり(支配層はカトリック),常に西欧からの刺激が美術作品に反映した。一方,南のワラキアと北東のモルダビアは,14世紀に建国して以来ビザンティン帝国に倣い,16世紀以降のオスマン帝国の時代にあっても,〈ビザンティン以降のビザンティン文化〉をはぐくみつづけた。13世紀に創建されたアルバ・ユリアの大聖堂は,ロマネスクからゴシック,ルネサンス,バロックの諸相をみせ,常にハンガリー経由で北イタリアやウィーンの影響が及んだことを示す。またワラキアのクルテア・デ・アルジェシュCurtea de Argeşのニコラ教会(14世紀後半)は,その内部壁画はコンスタンティノープル のカハリエ・ジャーミー の直模であり,建国直後のワラキア王の姿勢がうかがえる。なおこの壁画は,手本を直模したことが証拠だてられるビザンティン絵画のまれな例で,この両作品を比較することによって,当時の標準的な制作過程が推測されている。コジアCoziaの教会堂(1389)は,建築,壁画ともセルビアの〈モラバ派〉に連なるものである。モルダビアでは15世紀後半のシュテファン大王の時代より,建築活動がきわめて活発となった。そこにみられる最大の特徴は,16世紀に教会堂外壁全体を覆うに至ったフレスコで,フモルHumorやモルドビツァMoldoviţaやスツェビツァSuceviţaなどの修道院の教会堂にみられ,細部の具体的な描写に富んでいる。17世紀になると,ワラキア,モルダビアともに,建築に新しい装飾モティーフが加わり,とくにモルダビアでは,ロシア経由でアルメニアやカフカスの建築の影響,またロシアとポーランドを通じて西欧のバロックの影響がみられるようになる。
19世紀後半の民族主義の高揚のなかで,パリで学んだアマンTheodor Aman(1831-91)は歴史画を得意とし,ブカレストに美術学校を開いてルーマニアの画壇に大きな影響力をもった。グリゴレスク とアンドレエスクIon Andreescu(1850-82)は,風景を勢いある筆致で即興的に描き,他の東欧諸国に比べて,早い時期にフランス印象派の技法が盛行していたことを示している。 執筆者:鐸木 道剛