反ファシズム運動(読み)はんふぁしずむうんどう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「反ファシズム運動」の意味・わかりやすい解説

反ファシズム運動
はんふぁしずむうんどう

反ファシズム運動は、ファシズムが権力を掌握する以前の運動局面でこれに対抗しようとする運動と、ファシズムが権力を掌握してファシズム体制を確立したあとに展開される抵抗運動とに分けられる。そして二つの世界大戦に挟まれる古典的な「ファシズムの時代」においては、コミンテルンとその支部である各国の共産党ならびにその影響下にあった労働運動関係者が、時とともにきわめて重要な役割を演じる結果となったことは否定できない。しかし他方では、労働運動関係者ばかりでなく知識人や宗教関係者や無名の一般市民が、また共産主義者ばかりでなく自由主義者や保守主義者まで、さまざまの人々がそれぞれの立場から反ファシズム運動に参加していたこともまた強調されるべきである。

[山口 定]

ファシズム体制確立前

まず、ファシズムの運動局面でこれに対抗した反ファシズム運動についていえば、ファシズムの運動がムッソリーニを指導者として世界史の舞台に最初に登場したのがイタリアであったから、これに反対する運動もまた真っ先にイタリアで展開することとなった。1922年10月のムッソリーニ内閣成立に至る過程では、イタリア社会党と同党系労働組合によって反ファシズムのための「労働同盟」が結成され、ゼネストによってファシズムに対抗しようという動きに発展したが、これは逆にファシズムの白色テロの攻撃によってつぶされた。また、ムッソリーニ内閣成立後も、24年6月、統一社会党国会議員マッテオッティの殺害事件を契機に、カトリック人民党から社会党、それに当時なお弱体な共産党に至る広範な反政府派国会議員を結集した「アベンティーノ反対派連合」が結成されて、ファシスト政府を深刻な危機に追い込んだが、これも結局失敗に終わった。

 ドイツでは、1929年の世界恐慌の勃発(ぼっぱつ)以降のナチスの急速な台頭に対して、当時ワイマール共和制のもとでナチスに追い越されるまで第一党であった社会民主党と、恐慌のなかで急速に台頭して最後は第三党にまで成長する共産党が対抗したが、この両者による反ナチスの統一行動はついに成立せず、33年1月のヒトラー内閣の成立に至った。社会民主党は根強い反共主義にとらわれていたうえに、恐慌のなかでのナチスの急成長を阻止する効果的な経済政策がなかったし、共産党は、コミンテルンが1928年の第6回大会以来確立していた左翼偏向の路線と、それ以前からの「社会ファシズム」論に基づく社会民主主義敵視の政策に縛られて動きがとれなかった。

[山口 定]

ファシズム体制確立後

初期

こうした事情のため、ファシズムに反対する広範な諸勢力を結集する反ファシズム運動が本格的に展開し始めるのは、イタリアばかりかドイツでもファシズム体制が確立してしまった後のことであった。その発端とされるのは、1932年8月にアムステルダム、翌33年6月にパリのプレイエル会館で大会を開いた「アムステルダム・プレイエル運動」である。これは正式には「反戦反ファシズム委員会」とよばれる作家・知識人の運動であり、そこにはとくにフランスから、アンリ・バルビュス、ロマン・ロランアンドレ・ジッド、アンドレ・マルローらが参加していた。また、この翌年の34年2月に、オーストリアで、ドルフース内閣による「教権ファシズム」の体制づくりに対して、ウィーンで社会民主党系の自衛組織「防衛団」が武装蜂起(ほうき)して敗北した。さらに、この事件より1週間早い2月6日、パリで右翼諸団体が共和制打倒を叫んで下院に向けた大デモを行ったのを契機として、フランスでも、社会党と共産党が「ファシズムの脅威」に対抗して統一行動を開始した。こうした一連の事件は、反ファシズム運動の本格的高揚のための国際世論の形成に大きな役割を果たした。そのなかで35年7月にモスクワで始まったコミンテルン第7回大会は、ファシズムに対抗して平和と民主主義を防衛するために社会党、共産党など労働者政党レベルでの統一戦線を確立するばかりでなく、これに中間層を代表する勢力をも加えた「人民戦線」を結成することを提唱する新方針を採択した。

[山口 定]

人民戦線

このコミンテルンの戦術転換は、それより先、ヒトラー・ドイツの脅威に対処するために、ソビエトが国際連盟への加入と仏ソ相互援助条約締結に踏み切るという外交政策の転換を行っていたのと相まって、フランスにおいて進行していた社会党、共産党、急進社会党に知識人グループを加えた広範な統一行動をさらに促進し、1936年6月、社会党のレオン・ブルムを首相とし、共産党の閣外協力に支えられた「人民戦線」政府を生み出した。さらに、これより先の同年2月、スペインでも、左翼共和党のアサーニャを首相とし、社会党と共産党が閣外から協力する「人民戦線」政府が誕生した。この時点で、反ファシズム運動は、この二つの「人民戦線」政府を頂点とする国際的なレベルでの運動へと発展したといえる。そして、その直後にフランコ指揮下の軍部の反乱によって引き起こされたスペイン内戦は、「ファシズム対反ファシズム」の国際的な決戦場となり、反ファシズム陣営の側は、コミンテルンを中心として、国際義勇軍をスペインに送り込んだ。しかし、この運動は、やがてスペイン支援をめぐる国際政治のなかでの反ファシズム陣営の足並みの乱れ(とくにスペイン援助問題をめぐるフランス国内の混乱)とスペイン人民戦線内部での混乱(とくにスターリンの粛清政治の持ち込み)によって壁にぶつかり、さらには、結果的に孤立することとなったソビエトが自己の生き残りのために1939年8月、独ソ不可侵条約を締結するに至って、各国共産党が混乱するなかでいったんは衰退・分裂した。

[山口 定]

抵抗と弾圧

しかし、そこに至るまでの間に、ファシズムの支配が確立したイタリアとドイツの内外でも、弾圧に抗する必死の反ファシズム抵抗運動がさまざまの形で展開されていた。イタリアでは、1925~26年に、ファシスト党以外の政党が解散させられたうえ、国家防衛特別裁判所の設置と政治犯に対する死刑の導入がなされた。こうした状況のもとで、反ファシズム運動は、国内では非合法の地下活動を続けるほかはなくなった。知識人の間では、クローチェのように自由主義の立場からの反ファシズムの言論をなお展開できる者も例外的には存在したが、明確に反ファシズムの立場をとる者の多くは亡命を余儀なくされた。1926年末にグラムシを逮捕されたあとの共産党の指導権は国外にいたトリアッティに引き継がれ、27年には、かつての「アベンティーノ反対派連合」の関係者によって「反ファシスト連合」が、29年には、C・ロッセリを中心とした急進的自由主義の知識人たちにより「正義と自由」団が、ともにパリで結成された。イタリア国内では、ファシズム支配下の全時期を通じて、5600人余が前記の特別裁判所に起訴され(死刑判決33人)、約1万人が流刑、約16万人が「警察監視」の対象となった。

 それに対して、秘密警察と強制収容所の体系がはるかに完備していたナチス・ドイツでの反ファシズム運動の犠牲者の数は膨大であった。ヒトラー内閣成立直後の1933年の「強制的同質化」過程で強制収容所に入れられた政治的拘留者は約2万7000人、34~44年に「民族裁判所」によって死刑判決を受けた政治犯の数は5200余人であった。こうした体制下での反ファシズム運動は困難を極めた。とくにドイツでは、社会民主党と共産党の二大左翼政党と労働組合がヒトラー内閣成立直後の諸事件(とくに「国会放火事件」)を契機とした弾圧によってその基幹組織を致命的に破壊されてしまったので、この系列の反ファシズム運動は、国外にそれぞれ新しい指導部を再建したものの、国内においては残存する断片的組織の孤立無援の闘争となった。ドイツの反ファシズム運動の特徴は、左翼運動の遺産を継承し社会主義運動としての発展を展望したこれらの「革命運動」型の運動のほか、権力機構内部からの反逆を代表し保守主義を基調とし軍人や高級官僚を基盤とした「クーデター志向」型、知識人や教会関係者や無名の市民を基盤として、事の成否を問うよりはドイツにおける良心の存在を証明しようとした「良心の証(あかし)」型を含めて三つのタイプを生み出したことにある。「クーデター志向」型の動きの代表例は、シュタウフェンベルク大佐ら陸軍参謀将校の一団による一連のヒトラー暗殺未遂事件(とくに1944年七月二十日事件)であるし、「良心の証」型としては、D・ボンヘッファー、M・ニーメラーらの教会関係者やミュンヘン大学のショル兄妹による「白バラ」運動などが知られている。

[山口 定]

レジスタンス

「人民戦線」運動として高揚をみせた反ファシズム運動は、前述のような行き詰まりののち、第二次大戦末期になって、フランス、イタリアならびにその他のナチスによって占領された国々で、占領軍に対する抵抗(レジスタンス)運動としてよみがえり、広範な諸勢力を結集した。とくにフランス、イタリア両国では、この運動を通じての共産党の発展が目覚ましく、ナチス・ドイツからの解放直後、フランスではドゴール政府の副首相として共産党のトレーズが入閣し、イタリアでは同じく共産党のトリアッティが副首相となった。東欧諸国では、旧ユーゴスラビアでチトーがパルチザンによる抵抗運動の実績のうえに独自の共産主義路線を打ち立てた。また、上述のようなさまざまの反ファシズム運動の経験と実績は、ドイツをはじめとしたその他の国々でも、第二次大戦の惨禍のうえに生まれた新しい民主主義体制にとっての貴重な精神的支柱となった。

[山口 定]

日本の場合

日本では、反ファシズム運動の大規模な展開はみられなかった。欧米諸国で運動の中心的基盤となった労働運動の成熟がなかったうえ、共産党はコミンテルンが第7回大会で「人民戦線」戦術への転換を行う前にすでに壊滅的打撃を受けていた。また一般に天皇制支配の強化と区別された明確な「ファシズム」認識も未成熟であった。その結果、「反ファシズム」という概念と緊密につながった存在としては、わずかに美濃部(みのべ)達吉、河合(かわい)栄治郎、雑誌『世界文化』同人などの少数の自由主義的知識人が名をとどめているのみである。

 ただ、欧米における反ファシズム運動の高揚は、アメリカの占領下に制定された日本国憲法における民主主義思想の格調高い強調という形を通じて、そしてまた戦後初期の日本国民の間での民主主義運動の高揚を通じて、戦後日本のこれまでのあり方に影響を与え続けてきたといえる。

[山口 定]

『山口定著『現代ヨーロッパ政治史』上下(1982、83・福村出版)』『中井晶夫著『ヒトラー時代の抵抗運動』(1982・毎日新聞社)』『森田鉄郎・重岡保郎著『イタリア現代史』(1977・山川出版社)』『アンリ・ミシェル著、霧生和夫訳『地下抵抗運動』(白水社・文庫クセジュ)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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