四月蜂起(読み)しがつほうき

改訂新版 世界大百科事典 「四月蜂起」の意味・わかりやすい解説

四月蜂起 (しがつほうき)

1876年にブルガリア全土で起きた民衆武装蜂起。14世紀末以降オスマン帝国支配下にあったブルガリアでは18世紀後半になると,社会経済的な発展に伴い中産階級が台頭してきた。民族解放運動担い手となった彼らは,他のバルカン諸民族の運動や,ロシアや西欧思想の影響を受けて,1860年代になると政治的な独立という具体的な目標を掲げるにいたった。なかでもラコフスキを中心とする急進的な青年たちは革命による独立の達成を考えた。こうした運動は,ブルガリア内での反政府活動が禁止されていたためにルーマニアで進められた。70年ブカレストに急進派によって組織されたブルガリア革命中央委員会は,75年のボスニア・ヘルツェゴビナ反乱に触発され,蜂起の準備を開始し,ブルガリア全土を四つの革命地区に分け,革命委員会網を敷いて民衆を組織した。76年4月20日に第4革命地区のコプリフシュティツァで勃発した蜂起は,農民手工業者商人,教師,聖職者などほとんどの階層が参加して短期間に広まった。蜂起は武装面で優位を占めていたトルコ政府により1ヵ月足らずで鎮圧され失敗に終わったが,トルコ軍の鎮圧政策,特に民衆の大量虐殺はヨーロッパの世論を憤激させることとなった。この四月蜂起は,ボスニア・ヘルツェゴビナ反乱,セルビアモンテネグロの対トルコ戦争(1876),露土戦争(1877-78)とともに〈バルカンの危機〉の要因として国際的関心を集めた。露土戦争後のベルリン会議でブルガリアが解放されたことから,四月蜂起は18世紀後半以降ブルガリア人が繰り広げてきた民族解放運動の頂点といえる。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「四月蜂起」の意味・わかりやすい解説

四月蜂起
しがつほうき
Aprilsko vostanie

オスマン帝国の支配に対する 1876年のブルガリアの民族蜂起。蜂起はルーマニアのジュルジュ本部をおいたブルガリア革命中央委員会によって準備され,当初5月1日を予定していたが,発覚の危険を恐れて4月 18日に繰上げて開始した。南部を中心に拡大,農民層を巻込み,反封建的性格を帯びたが,武器不足のため次第にオスマン帝国軍に鎮圧され,フリスト・ボテフ軍の抵抗を最後に5月 23日屈服。1万 5000人の犠牲者を出した。蜂起は失敗したが,ブルガリアは2年後民主的な『タルノボ憲法』のもとで自治を獲得した。

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世界大百科事典(旧版)内の四月蜂起の言及

【ブルガリア】より

レフスキらは71年ブルガリア革命中央委員会を設立し,ブルガリア各地を回って革命組織の地方委員会を数多く設立したが,レフスキは73年,運動の半ばで逮捕・処刑され,その指導はボテフらに引き継がれた。 蜂起は,準備不足のまま1876年5月(旧暦4月),コプリフシティツァとパナギュリシテPanagjurišteで勃発した(四月蜂起)。しかしブルガリア全土にまで広がるにはいたらず,逆に,オスマン帝国の不正規兵や,当時南ロシアから移住してきたチェルケス人やタタール人によって鎮圧され,約1万5000人もの住民が虐殺された。…

【ボテフ】より

…1868年ルーマニアに渡り,ブカレストやブライラでレフスキカラベロフら民族解放運動家と論説や時評などの文筆活動で民族解放思想を鼓吹するとともに,武装蜂起の準備を推し進めた。76年〈四月蜂起〉が始まるや,蜂起隊を組織し,オーストリアの汽船ラデツキー号を乗っ取ってブルガリアに渡り,オスマン・トルコ軍との激戦のすえ戦死した。《お母さんに》(1867),《悲歌》(1870),《ハジ・ディミトル》《わが祈り》(ともに1873),《バシル・レフスキの処刑》(1875)など,隷従の苦悩と自由の希求を民謡的な形式を用いて歌い上げた詩20編を書き残し,解放後の文学や革命運動に大きな影響を及ぼした。…

※「四月蜂起」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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