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四月蜂起 しがつほうきAprilsko vostanie

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

四月蜂起
しがつほうき
Aprilsko vostanie

オスマン帝国の支配に対する 1876年のブルガリアの民族蜂起。蜂起はルーマニアのジュルジュに本部をおいたブルガリア革命中央委員会によって準備され,当初5月1日を予定していたが,発覚の危険を恐れて4月 18日に繰上げて開始した。南部を中心に拡大,農民層を巻込み,反封建的性格を帯びたが,武器不足のため次第にオスマン帝国軍に鎮圧され,フリスト・ボテフ軍の抵抗を最後に5月 23日屈服。1万 5000人の犠牲者を出した。蜂起は失敗したが,ブルガリアは2年後民主的な『タルノボ憲法』のもとで自治を獲得した。

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世界大百科事典 第2版の解説

しがつほうき【四月蜂起】

1876年にブルガリア全土で起きた民衆の武装蜂起。14世紀末以降オスマン帝国の支配下にあったブルガリアでは18世紀後半になると,社会経済的な発展に伴い中産階級が台頭してきた。民族解放運動の担い手となった彼らは,他のバルカン諸民族の運動や,ロシアや西欧の思想の影響を受けて,1860年代になると政治的な独立という具体的な目標を掲げるにいたった。なかでもラコフスキを中心とする急進的な青年たちは革命による独立の達成を考えた。

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世界大百科事典内の四月蜂起の言及

【ブルガリア】より

レフスキらは71年ブルガリア革命中央委員会を設立し,ブルガリア各地を回って革命組織の地方委員会を数多く設立したが,レフスキは73年,運動の半ばで逮捕・処刑され,その指導はボテフらに引き継がれた。 蜂起は,準備不足のまま1876年5月(旧暦4月),コプリフシティツァとパナギュリシテPanagjurišteで勃発した(四月蜂起)。しかしブルガリア全土にまで広がるにはいたらず,逆に,オスマン帝国の不正規兵や,当時南ロシアから移住してきたチェルケス人やタタール人によって鎮圧され,約1万5000人もの住民が虐殺された。…

【ボテフ】より

…1868年ルーマニアに渡り,ブカレストやブライラでレフスキカラベロフら民族解放運動家と論説や時評などの文筆活動で民族解放思想を鼓吹するとともに,武装蜂起の準備を推し進めた。76年〈四月蜂起〉が始まるや,蜂起隊を組織し,オーストリアの汽船ラデツキー号を乗っ取ってブルガリアに渡り,オスマン・トルコ軍との激戦のすえ戦死した。《お母さんに》(1867),《悲歌》(1870),《ハジ・ディミトル》《わが祈り》(ともに1873),《バシル・レフスキの処刑》(1875)など,隷従の苦悩と自由の希求を民謡的な形式を用いて歌い上げた詩20編を書き残し,解放後の文学や革命運動に大きな影響を及ぼした。…

※「四月蜂起」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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