文芸批評とは文学作品についての言語,作品という一次的文学現象ないし言語構造体に対する上部(メタ)言語だとする考え方がある。この考え方によれば,アリストテレスの《詩学》も日本中世の歌合せにおける判詞も文芸批評だということになる。実際,文学の歴史においてかなり長い間,文学現象に対するメタ言語は,先行する作品からの美学体系やジャンルの特性や修辞学の抽出,各文学ジャンルにおける模範的完成体の提示,それらを基準とした個々の作品に対する優劣の判断という形をとってきたし,しばしば文芸批評史は古い時代のこうした文学考察から始められる。だが,こうしたいわば広義の文芸批評において,批評家は普遍的価値の代弁者ないし奉仕者にほかならず,作品は普遍的な美的基準のための素材,あるいは具体例にすぎないことになる。
しかし,たとえば17世紀末のフランスで,古典ギリシア・ラテン作家を美の絶対的規範とするか,近代作家の優越を認めるかという〈新旧論争〉が起こったことは,文学作品の価値基準の多元性という問題をすでに提起している。実際,優劣の判断において論争となれば,評者の解釈と判断基準を詳しく説明する必要が生じ,分析が深められ解釈が綿密化するにつれて,作品は個としての輪郭をしだいに明瞭にし,ある一人の人間の知的・感性的活動の結実としてとらえられていくことになる。また,もし解釈,判断,評価,分類,説明という機能が批評から切り離せぬものだとすれば(今日の文学ジャンルとしての文芸批評はそういうものである),批評はかなり多数の読者=公衆にあてて書かれるものだということになる。そして批評の読者がかなり多数の公衆としての姿を示すとは,それがいわば社会内で制度化されることであり,この制度化は職業としての作家,批評家の制度化と見合う。さらに,このような作家-批評家-読者の3項関係が成立するためには,文学の観念の確立,文学という観念によるある言説領域の切取りがなされねばならない。とすれば今日理解されている文学ジャンルとしての文芸批評の成立は,文学の観念ないし制度の確立に引き続いて起こったできごとということになる。
西欧における文学の観念は,実はそれほど古いものではない(ギリシア・ローマ時代には,歴史,哲学,雄弁,詩などがある大きな言説総体をなしていた)。詩や小説など文学的産出物の総体を一つの独立した観念としてとらえる傾向が生まれ,その観念を表示するものとして,すでに存在はしていたが今日とは違う意味に用いられていたliterature,littérature(フランス語),Literatur(ドイツ語)などの語が選ばれたのは,大体1770年から1800年のころなのである。〈今日われわれが知っているような,また実践しているような批評は19世紀の所産である。19世紀以前にも批評家は存在する。しかし,批評なるものは存在しない〉というA.ティボーデの定義の生まれるゆえんはここにある。
19世紀は第1に,文学作品の多量の生産と消費の始まった時代であり,それと並行する新聞・雑誌ジャーナリズムの伸長は,公衆のために批評を書く多くのジャーナリズム批評家,いわゆる時評家を生んだ。また第2に,19世紀は歴史の世紀であり,大学教授は古典研究あるいは文学史という形で過去の財産目録の作成に励み,批評家はこの財産目録を自分の批評の兵器庫とし,みずからもそれを豊かにしようと努力する。第3に19世紀の主調をなすロマン主義的な個性重視は,美学的な裁断と分類の批評ではなく,個々の作家・作品に個別的な価値を認め,趣味のさまざまな体系に平等の価値を与える相対主義的批評を志向させる。そこに19世紀の歴史志向が介入してくるとき,文芸批評の基軸は作家・作品の個的な時間における生成過程に置かれるようになり,作家の伝記を参照する心理主義的方法が選ばれる度合が増す。最後に,批評対象の個別性の重視と対応して,批評家自身の個別性もまた重要視されるようになり,教養ある読み巧者つまり批評の豊かな兵器庫の所有者の巧みな語り口が求められるし,批評家の側についていえば,批評は個々の作家・作品の文学的価値を読者のために語る言説にとどまらず,批評家自身の知的・感性的冒険の間接的表白という性格すら帯び始めるであろう。
サント・ブーブが代表的な批評家であるのは,19世紀において文芸批評が制度として確立するとともに示したさまざまな性格を,彼が一身に集め担ったからである。大学の公開講座でポール・ロアイヤル修道院の歴史の全体を説き明かす彼は,他方では孜々(しし)として多様な書物を読み,文壇生活者として文壇の現場の劇を観察しながら,20年間にわたり休みなく毎週1回の《閑談》を書き続けた時評家である。そして,伝記,手紙,証言など広範な資料をたずね,作家の自己形成期に焦点を合わせて心理主義的分析を進めていくその伝記的方法と,〈パリでは,真の批評はおしゃべりをしながら作られていく〉という有名な言葉にふさわしい批評の閑談調。さらに彼は,本を読み批評を書くことを通じて自分自身の魂の問題とかかわり続ける文学者でもあった。
こうしたサント・ブーブの姿から,批評の一典型像を引き出すことができる。つまり,文芸批評とは,一人の文学者がアクチュアルな文学状況を呼吸しつつ,ある作家ないし作品について行う演奏であり,この批評=演奏はその外延において文学史および文芸学と混じり合うが,対象の価値を発現させながら演奏自体が価値的であろうとするものである(ただし,価値にかかわっていることを自覚し,みずからも価値的であろうとする点において,文学史,文芸学と截然と区別される)。こうした文芸批評の最右翼に位置するのが,〈個々の芸術作品のみならず,美そのものを批評して,芸術家が未完成のまま残しておいた,あるいは自分では理解しなかった,あるいは不完全にしか理解しなかった一つの形式をみごとに満たす〉ものこそ最高の批評であり,したがって最高の批評は〈創作よりも創造的〉とするO.ワイルドの立場である。批評における方法の問題も,批評が価値発現の演奏であるということから生起してくる。
サント・ブーブは,〈批評家とは本の読み方を知っている人だ〉と言い,また〈私にとって批評とは(対象への)転身である〉と書いている。つまり,彼は,本をいかに読むか,対象内にいかに参入し,一体化するか,という文芸批評の二つの課題を提示した。サント・ブーブから現代に至る批評の歩みも,そこにおけるさまざまな方法論議も,単純にこの二つの課題を繰り返し問いかけてきた。そしておそらくその背景には,近代批評の成立のころから始まり,しだいに顕在化してきた言語意識の変革がある。文学作品について,その舞台装置としてある時代や社会に関心を払い,作家の倫理的姿勢や世界観を語るという姿勢,つまり作品を何ごとかの表現=代行者とみる姿勢と,作品の作品としての価値への注目,文学的言語はそれ自体が経験であるとする姿勢は,近代批評においてかなり長い間未分化であった。だがフローベールやマラルメのころから,文学言語は表現=代行機能においてではなく,多義的な姿,あるいはむしろそれ自体がいわば厚みをもつ事件として顕現してくる。T.S.エリオットが,ホメロス以降のヨーロッパ文学の総体が形づくる一つの同時的秩序を感じつつ,書き読まねばならぬという文学伝統論を語ったのも,文学作品の固有の価値を,文学言語それ自体が経験であるところに求めようとしたからにほかならない。こうして,1920年代のロシア・フォルマリズムは,文学言語をもっぱらその形式面,機能面でとらえることで〈文学性〉を洗い出そうと意図し,それは今日の文学記号論へと発展していく。また30年代にアメリカで興った〈ニュー・クリティシズム〉も,とりわけ詩的言語の表出力を,その意味の重層性において見定めていく。さらにフランスでは,C.デュ・ボスやジュネーブ学派における批評対象への内的同化を方法的に推し進めて,批評とは批評家が主体的に選び取ったなんらかの方法(現象学,深層分析等々)を援用しながら,作品内に彫り込まれた時間意識,作品内ではむしろ埋もれている一見ささやかな事象にまとわりつくエロスなどを手がかりに,作品が作品として存在し始める瞬間の構造を照らし出そうとする〈ヌーベル・クリティク〉の批評家たちが出現する。これらの批評はいわゆるジャーナリズム批評から多少とも遠く,また多少とも文芸美学的である。しかし,これらを近代以前の美学的批評と区別するものは,何よりもまず文学言語を表現=代行機能から引き離す言語意識であり,続いて作品の個別的経験の重視である。この地点からさらに踏み出して,H.R.ヤウスらの〈コンスタンツ学派〉は作品の受容過程を綿密に分析し,R.バルトは読むことと書くこととが同一作業の二つの面のようにして,無数の先行テキストの記憶を織り直していく〈テキスト相互関連性〉の実践の快楽を語り,M.ブランショはマラルメやカフカの文学的営為が,文学をして何かしれぬ散乱状態へと導くそのありようを照らしだすだろう。
ところで,このような急進的な批評意識を成立させる文学的状況は,必ず,作品生産の現場においても急進的な作品を生むものだ。たとえばロブ・グリエの《消しゴム》(1953)の新しい文学的価値をバルトが鮮やかに解明したように,いわばひとつの事件として提出された作品に対して,その作品の著者とほぼ同じ問題意識をかかえ,ほぼ同じ思想的基盤に立つ批評家が,その作品の出現が文学の世界に何をもたらしたかを語って新しい文学的状況を切り開いていくことは,ジャーナリズム批評の使命である。読者に作品の読み方といまの文学状況を知らせるジャーナリズム批評は,この点で,多くは大学の枠内から生み出される精密な深層批評や文学研究と交流し合う。
執筆者:清水 徹
幕末の洋学移入の延長線上に入ってきた西洋思想とその紹介が,まず明治初年の啓蒙思想として流布し,そのなかから文学論が散発的に現れた。チェンバー兄弟編の百科全書の文学項目(Rhetorics and Belles Lettres)が菊池大麓によって《修辞及華文》(1879)として訳され,また《新体詩抄》(1882)の序文が詩論の発端を示すなどして,やがて坪内逍遥《小説神髄》(1885-86)が出て近代文芸評論は成立する。このリアリズム小説論は,二葉亭四迷〈小説総論〉(1886)の虚構理論に発展し,明治20年代にいたって坪内逍遥と森鷗外との論争などを通じて,文芸批評は時代の文学への指導的役割を確立する。だが文学が他の諸価値から自立した世界を形づくり,かつそれが文学者の内心の思いの表現であることを表明したのは北村透谷であり,透谷を含む《文学界》グループが西欧近代のロマン主義の移植を媒介として近代的な文学観を確立したとみられる。このような文学観は《文学界》に次いで明治のロマン主義思潮を代表する雑誌《明星》の人びとによって美意識の近代性を補強された。また明治の評論は文学に固有のもののほかに,社会,倫理,宗教の領域にまたがるものも多く,福沢諭吉の社会評論をはじめ,内村鑑三,徳富蘇峰,高山樗牛(ちよぎゆう),山路愛山などの活動も目だった。これらの潮流は,一方では近代日本の方向づけを目ざしつつ,他方,人生論的・求道的な色彩をもしばしば兼備し,そのためにかえって開かれた社会性をもっていた。やがて明治40年代にかけて〈自然主義〉の運動が興ると,西欧経由のリアリズム論が創作の方法的主張をかねて唱えられた。明治期の文芸評論は19世紀西欧の文芸思潮の影響を強く受け,ロマン主義,リアリズム,世紀末的な審美主義などが,それらに対応する日本の文学運動を推進させていった。《明星》以後の雑誌《スバル》もまた同様であった。
1910年(明治43)に《白樺》,11年に《青鞜》が創刊されて,大正文学への道が開かれた。《白樺》は武者小路実篤,志賀直哉,有島武郎らを同人とし,理想主義的な色彩をもって人間の〈自我〉の開花を求め,この流れは大正時代の個人主義的な思潮の一端を形づくる。《青鞜》は女性中心の雑誌で,女性解放運動の先駆となった。また明治時代から散発的に現れていた求道的な人生論はやがて大正教養主義として展開し,他方,社会問題への関心は大杉栄らの雑誌《近代思想》(1912-14)を通じて社会主義的な傾向を深めた。これらの動向は,明治時代の秩序に対する個人の意識の進展と不可分で,このような文学的な個人主義は,近代日本の小説では〈私小説(わたくししようせつ)〉という形で自己の精神や生活を定着する様式を形成した。私小説論はこの意味で日本の近代批評の重要な一部をなしている。
関東大震災を境にして昭和文学への道が開かれた。大正期の社会主義思想はマルクス主義文学理論となって青年層をとらえ,創作と批評とは左翼文学の内部では不可分のものであった(プロレタリア文学)。この流れのほかに震災後の都市化現象にマッチしたモダニズムの文学論も展開した。〈新感覚派〉の理論はその一例である。このような時代のなかで,西欧文学における近代人の自意識をわがものにして,文芸批評を自立したジャンルとして確立したのが小林秀雄である。ここにおいて批評はそれ自身の論理と世界とをもつ文学様式として,創作の従属物から自立した。しかし昭和前期の戦争の時代は,文芸批評の自由な開花を許さぬ形で展開し,評論界には終戦まで,西欧的な個人を捨てて民族主義的な全体性を説く言論が支配的になった。第2次大戦後は,戦時の価値観を逆転する形で開幕し,昭和初年の左翼文学理論が復活するとともに,それを修正しつつ個人の価値を説く《近代文学》派の批評が戦後文学の指導理念になった。戦後派の小説はこのような理念に支援されながら,他方,既成の私小説的リアリズムを破ろうと,さまざまな方法上の模索を行った。市民小説の確立が唱えられながら,同時に私小説からの脱皮が求められたのは,戦後の近代化の動向と批評とが歩調を合わせていたためでもある。しかし以上の動向の対極には,戦後を安易に解放の時代と考えない立場があり,小林秀雄,河上徹太郎,福田恒存らの批評は,歴史の連続性を重くみる傾向が強かった。このような分極現象は近代化の動向への対処のしかたにも関係があり,戦後の初期の動向が日本古典をも時代おくれの無用物とみかねない性急さをもっていたのに対して,占領終了後から経済成長期にかけて,近代化に還元できない領域が再評価を受けた。柳田国男や折口信夫への関心はその表れで,文学や思想は近代の表皮の下に根を求め始めた。またマルクス主義が現実への適応力を失い始めた結果,脱イデオロギー状況が成立し,経済成長以後のマスコミの拡大のもとで,文学者がどのように自己を守りつつ創造に従事するかが,批評の自己検証としても問われている。
→文学理論 →文芸時評
執筆者:磯田 光一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
文学作品が読者に与える印象・感動を分析し、それを創作の理想に照らして文学作品の価値判断を行うこと、およびその文章化されたもの。
[小林路易]
文芸批評の歴史的変遷はきわめて複雑で、その定義づけも甚だ多岐にわたるが、その顕著な趨勢(すうせい)を取り上げると、おおよそ次の三大対立に図式化することができよう。
[小林路易]
あらかじめ定められたなんらかの客観的規準によって評価を下す裁断批評judical criticismと、できあいの尺度を用いずに、読者個人の主観的な好悪や印象に基づいて判断する印象批評impressionistic criticism。裁断批評における客観的規準のもっとも伝統的なものは理想美であり、アリストテレスがその『詩学』においてギリシアの劇・詩の特性を帰納して以来、営々として磨き上げられた古典主義美学は、ボアローの『詩法』(1674)に至って完成する。17世紀のフランスでは、とくに悲劇について、筋・時・場所の単一を定めた「三一致の法則」をはじめ、題材、登場人物、幕数、語彙(ごい)などについて細かい取り決めと制約があった。これにほんの少し抵触して『ル・シッド』を書いたコルネイユは、その大成功への嫉妬(しっと)もあって厳しい社会的制裁を受けたが、この仮借ない断罪ぶりは、旅人をベッドに寝かせて、背が高すぎれば足を切り落とし、背が低ければベッドの長さまで足を引き伸ばしたと伝えられるギリシア神話のプロクルステスProkrustesに例えられる。近代に至って、新しい世界観の登場とともにこのような絶対美の概念とその桎梏(しっこく)(厳しい制限)は当然のこととして崩壊、文学活動の個性的分化、価値観の多様化が生み出した混沌(こんとん)のなかで、絶対美にかわるなんらかの確固たる規準を求めての彷徨(ほうこう)が始まる。ことに大学の教壇に立つ、いわゆる講壇批評家たちにこうした新しい規準やドグマへの要求が依然として強かった。19世紀に勃興(ぼっこう)した科学主義・実証主義のただなかにあって、テーヌは血統・環境・契機の三大要素をもって作家・作品を規定しようとし(環境説)、ブリュンチエールはダーウィンに倣った文芸ジャンルの進化説を、フロイトは無意識的リビドーを批評の根底に据えた。
印象批評もまたその歴史は古く、滋味掬(きく)す(深い味わいをくみとる)べき優れた作品を連綿として生み出してきた。しかし、ホメロスを攻撃したゾイロスZoilos(前4世紀)に典型的にみられるように、高名な作家に対するねたみや悪意をあらわにすることもまた多かった。近代以降の印象批評ではいちおう良識や冷静さが基盤となるが、作家や作品について語ると称しながら、その実、自己の個人的な嗜好(しこう)や心情の吐露に傾き、対象評価の理由づけに乏しいうらみなしとしない。この弱点をついたブリュンチエールとそれに対するアナトール・フランス、ルメートルら印象批評家の激烈な論争は、結局空中分解し、決定的に批評を二極化させたまま今日に及んでいる。
[小林路易]
アリストテレスは文学の効用をカタルシス(感情の浄化)にありとしたが、文学になんらかの実益を期待する視点はその後も根強く存在して批評の一角を占める。ことに政治・宗教・教育方面に携わる人たちにこの傾向が強く、彼らは自己の信条に忠実であればあるほど、文学作品に自律性よりは教化の道具をみる。毛沢東(もうたくとう)の『文芸講話』(1942)、バチカンの『禁書目録』(1564~1965)、公的権力による文学裁判・発禁、作家の国外追放などはその極端な例だが、マルクス主義的唯物論者は多く文学に現実打開の実践的方法を求め、謹厳な宗教者・教育者は猥雑(わいざつ)・非禁欲的文学に顰蹙(ひんしゅく)する。アーノルドが文化・教育に大きな関心を寄せながらも清教徒的偏見から文学を守ることをもって批評の使命としたのは、根底において彼がその対極をなす審美批評utilitarian criticism家であったからで、文学者は一般に文学を文学以外のいかなる効用的規範にも従属させることを好まない。かくして世の職業的批評家の大半は多かれ少なかれ審美批評家の範疇(はんちゅう)に属する。ただしその場合にも、より高次の効用批評aesthetic criticism的発想がついて回ることがあり、それがいわゆる「芸術のための芸術」(ゴーチエ)に対する「人生のための芸術」(トルストイ)、換言するなら芸術至上主義に対する人生至上主義ないし人道主義文学の見地である。芸術、なかんずく文学を人生の上に置くか下に置くかは大問題で、一方の極には「文学は男子一生の仕事に非(あら)ず」とした二葉亭四迷(ふたばていしめい)が、そしてその対極には「人生は一行のボードレールにも若(し)かない」とした芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)がいる。トルストイ、ベリンスキー、チェルヌィシェフスキー、ロマン・ロラン、そして白樺(しらかば)派は前者に属し、ポー、ゴーチエ、ボードレール、ペイター、ワイルド、そして谷崎潤一郎、佐藤春夫、三島由紀夫らの耽美(たんび)派作家たちによるエッセイは後者に属する。
[小林路易]
近代以前の古典主義的批評が理性と宿命を基盤とした普遍性への指向を顕著に示したのに対して、ロマン主義以降の批評は感性の優位を主張し、人間ひとりひとりの個性・特殊性を重視したから、必然的に文学作品そのものよりも、その背後の作者の存在に興味がもたれるようになった。作品そのものに生命があるのではなく、作品に生命を与えているのはその作者である人間にほかならぬという発想である。サント・ブーブは「この木にしてこの果実あり」といい、作家と作品を密接不可分のものとして、作家の実生活をもって作品を解明しようとした。彼によれば、在来の批評家も作者の存在を認めてはいたが、それは作品を通しての空想にすぎず、その像は不可避的にゆがんでいた。そこで彼は、断簡零墨に至るまで資料を集め、いっさいの先入観を排して作家の実像に迫った。「偉大な作家の作品と資料に2週間ばかり沈潜していると、当初模糊(もこ)としていた輪郭がしだいに明確化し、個性的になってくる。そしてその作家の癖や微笑や古い傷口や髪の毛の下のしわまでわかるようになると、もう個々の分析などは雲散霧消して全体が息づき、作家がひとりでに向こうから話しかけてくる」。サント・ブーブの批評の特徴は、在来の主観的印象批評に客観的事実の研究をプラスして掘り下げ、観察と心理的洞察と説明を打って一丸としたところにある。彼が近代批評の祖と称されるゆえんであり、批評は彼において、小説、詩、戯曲と並ぶ文学の一ジャンルにまで昇格した。彼の方法の主として実証主義的側面は科学的批評としてテーヌ、ルナン、ブランデス、ブリュンチエール、ランソンらに受け継がれ、審美的側面は鑑賞批評としてアーノルド、ペイター、アナトール・フランス、小林秀雄らに受け継がれた。そしてさらに前者から、後にプロレタリア文学の擁護(ようご)・育成につながってゆくマルクス主義的文芸社会学的批評、フロイト、ユング、ボトキンらの精神分析学的批評、クローチェらの理想主義的歴史的批評などが生まれ、ひいては文学史研究、文芸学の誕生をも促すこととなった。また作家の内面への参入は、その後ますます深化して、アラン、チボーデ、デュ・ボス、バシュラール、プーレ、そして人間存在の内奥に「実存」をみたサルトルらに至る。
しかし、20世紀初頭のバレリー、プルースト、T・S・エリオット、リチャーズ、エンプソンらはサント・ブーブの伝記的批評に反対して、彼とは逆に作品を作家から切り離し、文学作品は完全に自律的な全体であり、在外的ないかなる要素とも無縁であるとする立場をとった。「ホメロスの伝記はあまりよくわかっていない。しかし、そのために『オデュッセイア』の海の美しさが色あせて見えることはない」(バレリー)。こうした考え方が1930年代以降のアメリカにおける「新批評(ニュー・クリティシズム)」に発展し、古典主義的批評、ロマン主義的批評に続く、象徴主義的批評とでも称すべき批評史上の第三波形成の契機となった。この批評は客観的な方法によるイメージの分析とそれを概念化するための独自の批評用語の開発をその特色としたが、イメージにこだわりすぎて凋落(ちょうらく)、やがてヤーコブソンらプラハ学派のフォルマリズム批評、ロラン・バルトらによるフランス派構造主義批評などにその席を譲った。これら広義の「新批評」の特徴は、いずれも作家の意志を考慮せずに、文学作品(テクスト)の無意識的・潜在的言語特性や作品構造を闡明(せんめい)(明らかに)することにあり、多く哲学、精神分析学、文化人類学、民俗学、言語学、意味論、文体論、記号論などの諸学を援用、一般にきわめて難解で、文芸批評というよりは文芸学・詩学的色彩が濃い。
[小林路易]
現代批評の先端的動向は依然としてこのテクスト重視派を主流とし、ことに文学作品の自己完結性否定の思想が目だつ。すなわち、テクストを創作行為と読書行為の協調によってさらに上位のテクストに移行さるべき未完成のもの、ないしは再構築すべきものとする考え方(晩年のバルトとポスト構造主義)、総合的組成物とするとらえ方(クリステバの間テクスト性)、さらには読者ひとりひとりが硬化したテクストを内的に破壊することによって初めて文学が成立するとする見地(解体批評)などである。それに、ドライデン、S・ジョンソン、サント・ブーブ、ボードレール流の在来型批評や、新文学宣言や、さらに各種批評の総合・折衷・使い分けの主張、読者論、文学快楽説、文学空間論、文学不可知論などが混在して、文芸批評の裾野(すその)はますます拡大しつつある。
[小林路易]
『カルローニ、フィルー著、平岡昇訳『文芸批評』(1956・白水社)』▽『リチャーズ著、岩崎宗治訳『文芸批評の原理』(1963・垂水書房)』▽『チボーデ著、戸田吉信訳『批評の生理学』(1969・冬樹社)』▽『ハイマン著、外山滋比古編『批評の方法』全12巻(1974・大修館書店)』▽『ブリュネル他著、平岡昇・川中子弘訳『文芸批評の新展望』(1985・白水社)』▽『ファイヨル著、大野桂一郎他訳『フランス・文学と批評』(1986・三修社)』▽『ゲーリン他著、日下洋右・青木健訳『文芸批評入門』(1986・彩流社)』▽『ジャン・イヴ・タディエ著、西永良成・山本伸一・朝倉史博共訳『二十世紀の文学批評』(1993・大修館書店)』▽『R・セルデン著、鈴木良平訳『現代の文学批評――理論と実践』(1994・彩流社)』▽『土田知則他著『現代文学理論 テクスト・読み・世界』(1996・新曜社)』▽『T・イーグルトン著、大橋洋一訳『文学とは何か 現代批評理論への招待』新版(1997・岩波書店)』▽『川口喬一・岡本靖正編『最新 文学批評用語辞典』(1998・研究社)』▽『武田悠一編『ジェンダーは超えられるか――新しい文学批評に向けて』(2000・彩流社)』
…その理由の第1は,ジャーナリズムの発達であり,第2は,個人主義的な哲学の普及である。たとえば,文芸批評が文芸家の活動の重要な一部門となり,職業的批評家が発生したのは,フランス革命以後19世紀においてであった。しかし市民社会が世界大戦によって危機を自覚するまで,その根本的な原則に対する批評はなかった。…
…文芸批評と呼ぶことのできるものは,アリストテレスの《詩学》やホラティウスの《詩論》から今日のいわゆる文芸批評にいたるまで,さまざまのかたちで存在する。その文芸批評が目的とするのは,普通には,文学作品かその作者にかかわりのある諸問題について語ることである。…
※「文芸批評」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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