改訂新版 世界大百科事典 「西欧派」の意味・わかりやすい解説
西欧派 (せいおうは)
Zapadniki
1840年代から50年代にかけてのロシアで西欧型の近代化の必要を唱えた人々。統一された政治プログラムはもっていなかったが,その共通の傾向として西欧市民社会を理想化し,個人の自由の実現をめざして,ピョートル大帝の改革路線の継承発展を主張していた。そのため論敵のスラブ派から西欧派もしくは西欧主義者にあたる〈ザーパドニキ〉と呼ばれた。この派の大多数は貴族地主階級に属する知識人たちで,その代表的な人物としては思想家のチャアダーエフをはじめ,作家のツルゲーネフ,アンネンコフ,パナーエフ,ゴンチャロフ,ドルジニンAleksandr V.Druzhinin(1824-64),N.ネクラーソフ,歴史家のグラノフスキーTimofei N.Granovskii(1813-55),S.ソロビヨフ,法制史家カベーリンKonstantin D.Kavelin(1818-85),チチェーリンBoris N.Chicherin(1828-1904),経済学者ベルナツキーIvan V.Vernadskii(1821-84),バプストIvan K.Babst(1823-81)などをあげることができる。そのほか少数ながら商人階級出身の作家,評論家のボトキンVasilii P.Botkin(1812-69)や雑階級出身の急進的思想家ベリンスキー,デカブリストの革命的な伝統を受け継ぐ貴族のゲルツェンやオガリョフらも含んでいた。彼らは西欧派の思想を反映する定期刊行物《現代人Sovremennik》《祖国雑記Otechestvennye zapiski》《ロシア報知Russkii vestnik》《アテネイAtenei》のほか各種の文集や研究サークル活動を通じて啓蒙的な活動を行い,一般世論にも大きな影響を及ぼした。当時ニコライ1世治下のロシアで顕在化した専制と農奴制の危機に対応して,彼らは立憲制の導入や農奴制の廃止を含む“上からの”改革によって平和裡に解決することを望んだ。1855年のニコライ1世の死亡と,クリミア戦争の敗北後,カベーリンやチチェーリンは〈ロシアの自由主義者〉を自称し,その綱領的覚書で新皇帝アレクサンドル2世の“上からの”改革を支持し,ゲルツェンやオガリョフらの社会主義的傾向を批判した。さらに,貴族階級の支配的役割を認め,“下からの”改革を拒否して,農奴制廃止後のロシアの資本主義的発展を肯定した。61年の農奴解放令をめぐって両者の分裂は決定的なものとなり,前者は体制内改革派として専制政府を支持し,後者はチェルヌイシェフスキーらの急進的な改革派を支持して,革命的運動に荷担する。両者を西欧主義と総称する史家もあるが,ソビエト史学では,後者を人民の利益を代弁し西欧派と対立する独自の思潮とみなし,ベリンスキーを含めて〈革命的民主主義者〉と呼んでいる。
執筆者:今井 義夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報