ロシアの詩人。戯曲、小説にも優れる。貧しい貴族で退役軍人の父と虚弱で音楽好きな母の間に10月15日モスクワで生まれ、裕福な地主貴族だった母方の祖母の領地で育った。3歳のとき母が亡くなると、不仲な父と祖母は衝突して別れ、以後偏愛と支配欲の強い祖母に養育された。幼少から語感が鋭敏で、4歳から10歳までに三度訪れたカフカスの自然から強烈な印象を受け、早熟な愛の目覚めを体験し、詩作や絵画の才能を早くから発揮した。1828年、教育熱心な祖母はモスクワ大学付属貴族寄宿学校4年次へ編入させた。1830年にモスクワ大学倫理政治学部へ入学するまでに、一生改作を重ねた叙事詩『悪魔(デーモン)』や多数の叙情詩を書き、一部は手書きの同人誌に載せたらしい。入学後も詩作は続き、その題材にもなった激しい不幸な恋も経験したが、ベリンスキー、ゲルツェン、オガリョフらのサークル活動とは距離を置いた。父(1831没)と祖母や母との不可解な関係に苦しんだことは、自伝的要素の濃い戯曲や叙情詩からもうかがえる。反動教授排斥紛争に加わり、1832年に退学したレールモントフは、ペテルブルグ大学への移籍に失敗し、近衛(このえ)士官学校で「恐怖の2年間」を過ごすはめになった。1834年に卒業して配属されたのはツァールスコエ・セロー(現、プーシキン市)の近衛軽騎兵連隊であったが、首都の社交界に入りびたり、上流階級の腐敗した生態をつぶさに観察した。未完の小説『リゴフスカーヤ公爵夫人』や詩劇『仮面舞踏会』はその文学的成果である。カフカスを舞台にしたロマン主義的叙事詩『ハジ・アブレク』が無断で雑誌に発表され、好評を得たのに立腹したのは、詩作への真剣な態度の表れであろう。
1837年1月プーシキンがダンテスとの決闘に倒れたとき、レールモントフは「玉座近くにたむろする」謀略家たちを告発した詩『詩人の死』を書いて親友と手写で流布させた。プーシキンの再来との文名を一躍高めたものの、その告発で当局によって逮捕され、カフカスの連隊へ事実上追放された。『現代の英雄』の構想はこの劇的運命を契機としてできた。追放の地でデカブリストやジョージア(グルジア)の革命的貴族と交流できたことは、後の作品に思想的深みと問題意識の先鋭化をもたらした。祖母の奔走が実って1838年に首都へ戻る。いまや有名詩人となった彼は社交界との溝をますます深め、『思い』や『詩人』にみられる苦悩と懐疑主義を募らせた。この間、『商人カラーシニコフの歌』(1838)、『ムツィリ』(1840)などの叙事詩、『帆』(1832)、『雲』(1840)などの叙情詩の名編を生んだ。1840年、『現代の英雄』の出版を目前に控えたある日、フランス大使の息子と引き分けた決闘が当局に発覚、ふたたびカフカスへ追放された。山岳民族への同情を秘めつつ勇敢に戦ったのは、退役して作家として生きることを熱望していたからであったが、1841年7月27日、静養先のピャチゴールスクで、ささいなことで決闘に応じ、近衛士官学校時代からの友人マルティノフの凶弾を受けて不帰の人となった。墓所、記念館が祖母の領地タルハーヌィ(現、レールモントボ)にある。
[木村 崇]
『池田健太郎・草鹿外吉編『レールモントフ選集』全二巻(1974、1976・光和堂)』▽『岡崎忠彦著『評伝レールモントフ』(1981・七月堂)』
ロシアの詩人,作家。3歳のときに母を失い,父と離ればなれで幼少年期を富裕な母方の祖母の領地で過ごす。1828年モスクワ大学付属貴族学校に入学,このころから詩作を始める。30-32年モスクワ大学に学ぶが中退。珠玉の抒情詩《天使》(1831),《帆》(1832)などを除けば32年までの詩,戯曲はのちの創作の下書きである。32年ペテルブルグの近衛士官学校に移り,放蕩三昧の2年間を経験する。34年に卒業して少尉となり,首都ペテルブルグの上流社会に出入りするようになると創作に立ち戻り,《オセロー》風な悲劇《仮面舞踏会》(1835)を書く。この戯曲は上流社会の偽善を赤裸々に描いたので上演の許可はおりなかった。
彼の名を一躍有名にしたのは,決闘で非業の死を遂げたプーシキンを悼む詩《詩人の死》(1837)であった。しかし,その中に詩人を死に追いやった宮廷に対する憤怒がこめられていたので,カフカスの戦線に追放される。このころからデカブリストなきあとの暗黒体制のもとで,反逆と幻滅をうたったレールモントフの本領がいかんなく発揮される。ナポレオン戦争の勇者をたたえた詩《ボロジノ》(1837),みずからの名誉を守ろうと権力に雄々しく挑戦した商人をうたった叙事詩《商人カラーシニコフの歌》(1837),詩《思索》(1838)で現代人の無為を鋭く批判した。38年首都への帰還を許され,文壇の流行児としてもてはやされても,上流社会を見下した態度は変えなかった。永遠の反逆児を描いた叙事詩の最高傑作《悪魔》が長い推敲(すいこう)の末,舞台をカフカスに移して38年にほぼ完成する。39年同じカフカスを背景に,自由の身にあこがれつつも傷つき倒れた見習修道士の物語《ムツィリ》が書かれ,亡き母を追慕した《コサックの子守歌》(1840),生を凝視した《わびしくも悲し》(1840)などの抒情詩の逸品が続々と生まれてゆく。40年決闘事件を起こし再びカフカスへ追放されるが,同年,創作の集大成《現代の英雄》の初版が出,《レールモントフ詩集》が刊行されるに及んで,文名はますますあがった。前者は〈余計者〉ペチョーリンの悪魔的風貌とあいまって,ロシアの作家たちに多大な影響を与え,日本でも明治以来広く親しまれてきた。41年休暇でペテルブルグへ戻るが,宮廷や上流社会を蔑視した態度は変えず,彼を敵視する皇帝によって首都退去を命ぜられ,永遠にロシアをあとにする。同年7月旧友と決闘し,短い生涯を閉じた。
執筆者:佐藤 貞雄
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1814~41
ロシアの詩人,小説家。最初軍人として出発したが,1837年プーシキンの死に際し発表した詩のために南ロシアに追放され,カフカースの自然を背景に『現代の英雄』などの作品を書いた。再び首都を追放され,決闘で死亡。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…ロシアの作家レールモントフの小説。1839‐40年《祖国雑記》誌に発表した分に2編を加えて1840年に刊行。…
… その他の国々では,ロマン主義は多くの場合国家統一へと向かうナショナリズムの進展と並行し,国民的な意識の高揚を目ざす国民文学運動として展開された。例えば,イタリアではリソルジメントと呼応しマンゾーニやレオパルディが文学運動を推進し,あるいはロシアではプーシキンやレールモントフらが,フランス文学の影響を排してロシア固有の文学の創造を目ざす国民文学運動としてのロマン主義を展開した。 この汎ヨーロッパ的な文芸運動も19世紀中ごろにはほぼ終わり,リアリズム等の旗印のもとに各国の社会状況に即した文芸思潮が登場した。…
※「レールモントフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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