マケドニア紛争(読み)まけどにあふんそう(英語表記)Macedonia Conflict

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マケドニア紛争」の意味・わかりやすい解説

マケドニア紛争
まけどにあふんそう
Macedonia Conflict

2001年に発生したマケドニア(→北マケドニア)の人口の約 30%を占めるアルバニア人の権利拡大を要求する武装勢力,民族解放軍 NLAとマケドニア政府軍との間で起こった紛争一連のユーゴスラビア紛争の最後の戦争。マケドニアは旧ユーゴスラビアから流血の事件を経ることなく独立した唯一の国で,独立後はアルバニア人政党が与党に参画する民族共存のモデルとされてきた。しかし,コソボ紛争が長期化するに伴い国内のアルバニア人の不満が表面化し,ついに衝突が生じた。2001年2月アルバニア人が多数を占めるマケドニア北部,セルビア共和国のコソボ自治州との国境地域で NLAの活動が激化。NLAはマケドニア人とアルバニア人の地位を同等にするための憲法改正,アルバニア語の公用語化,および政府との直接交渉などを求めた。マケドニアは民族共存のモデルとされながら,実際はマケドニア人が優先され,アルバニア人やその他の少数民族は二級市民的な扱いがなされてきた。2001年3月マケドニア政府はヨーロッパ連合 EU北大西洋条約機構 NATOとの合意のうえで,NLAに対する掃討作戦を展開。一方 NLAはゲリラ活動を続け,両者の戦闘はテトボやクマノボといった北部の都市にも拡大した。EUと NATOは同 2001年5月に成立した挙国一致内閣(マケドニア人の 2政党とアルバニア人の 2政党から構成)に圧力をかけ,アルバニア人の権利拡大を要請した。マケドニア政府は EUや NATOと緊密な連絡をとりつつ,NLAの代表を排除してマケドニア人とアルバニア人の主要 4党間での協議を進めた。南部の都市オフリッドでの 2ヵ月以上に及ぶ協議の結果,同 2001年8月13日にアルバニア人の権利拡大を認める合意文書が正式調印された。合意内容は,(1) マケドニア憲法の改正,(2) アルバニア語をマケドニア語と同様に公用語とする,(3) 警察や地方行政職におけるアルバニア人の比率を高める,(4) 国勢調査の実施など。同 8月末には NATOがマケドニアに展開し,武器回収と NLAの解体にあたった。2001年11月議会で憲法の改正案が採択され,アルバニア人の権利拡大が正式に認められ,民族共存モデルを新たにつくる努力が続けられることになった。(→ユーゴスラビア史

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