ミンスク(読み)みんすく(英語表記)Минск/Minsk

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ミンスク」の意味・わかりやすい解説

ミンスク
みんすく
Минск/Minsk

ベラルーシ(白ロシア)共和国の首都ポーランドとの国境付近に源流をもつベレジナ川の支流に臨む。人口171万9000(1998)、198万2444(2018推計)。同共和国の工業、商業、学術、文化の中心都市である。ワルシャワからモスクワに至る交通路上の最大の都市で、古来、「バリャーグ(ノルウェー)からギリシアへの道」といわれる南北の商業ルート上の重要な交易都市でもある。ベラルーシ科学アカデミー、大学などの研究教育機関、博物館、美術館、劇場など、文化施設が多く、バロック様式の教会や修道院もみられる。ドイツ占領下の第二次世界大戦中には市街の74%が破壊され、建造物は戦後再建されたものが多く、住宅団地や工業地区も都市計画に従って設けられた。工業製品は各種トラクター、ラジオ・テレビ、時計・カメラ、自動車(ディーゼル・トラック、ダンプカートレーラー、木材運搬車)、工作機械などで、ミンスク自動車工場とミンスク・トラクター工場は最大企業である。軽工業は工業生産の22%を占め、毛織物皮革食肉醸造などの工業が都市向け消費を指向して立地している。

山本 茂]

歴史

町の名が年代記に初めて現れるのは1067年のことである。このころはポーロツク公国の一要塞(ようさい)であった。12世紀初めミンスク公国の首都となるが、14世紀初頭にはリトアニア大公国の版図に入った。1499年マクデブルク都市法が導入されて都市としての発展に拍車がかかった。16世紀後半には二つの定期市が開催されるなど、ベロルシアならびに近隣諸国の都市との間に活発な交易が行われた。しかし17世紀中葉のロシア・ポーランド戦争、18世紀初頭の大北方戦争などにより、市は何度も破壊された。第二次ポーランド分割(1793)後ロシア領に併合され、ミンスク県の県庁所在地となった。その後、ベラルーシの商工業、交通の中心地として発展を続けるが、20世紀に入ってドイツ軍(1918)、ポーランド軍(1919)、ナチス・ドイツ軍(1941~1944)の占領を受けるなど、その歩みはかならずしも順調ではなかった。

[栗生沢猛夫]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ミンスク」の意味・わかりやすい解説

ミンスク
Minsk

ベラルーシの首都。またミンスク州の州都。同国のほぼ中央にあり,ベレジナ川支流スビスロチ川に臨む。 1067年の年代記に記されるロシアの古都の一つで,1101年ミンスク公国の首都となった。 14世紀リトアニア領,のちポーランド領に入ったが,1793年の第2回ポーランド分割でロシア領となった。その後行政中心地として,また,1870年代モスクワ-ワルシャワ間とリエパヤ-ロムヌイ間の鉄道路線の交差点となってのち,工業中心地として発展し始めた。 1919年白ロシア共和国成立とともにその首都となった。第2次世界大戦後,ソビエト連邦の西部国境が西へ移動して白ロシアの領土が拡大し,また東ヨーロッパ諸国がソ連圏に入ったことから,ミンスクの地理的位置の有利さが顕著になり,市の工業発展を促した。 1991年ベラルーシの独立とともにその首都となる。機械工業,金属加工業の発達が著しく,特に大型ダンプカー,トラクタ,モーターバイク,ボールベアリング,モータ,テレビなどの製造工業が盛んである。また繊維,縫製,食品 (乳製品,食肉,ワイン) ,皮革,印刷,医薬品,建設資材などの工業も立地している。ベラルーシの教育・文化中心地でもあり,多くの大学,ベラルーシ科学アカデミー,国立オペラ・バレエ劇場,博物館などの施設がある。市街は 1505年クリミアのタタール人に,1812年フランス軍に,1919~20年ポーランド軍に,さらに 1944年ドイツ軍に破壊されたが復興し,急速な人口増により市街地が拡大しつつある。鉄道,ハイウェーの要地で,空港もある。人口 186万4090(2011)。

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