ロシアのマルクス主義政党。マルクス主義が社会民主主義としてロシア人に初めて受容されるのは,亡命中のプレハーノフらが1883年ジュネーブで創立した〈労働解放団〉による。プレハーノフは後進国ロシアの当面する革命は専制打倒のブルジョア革命だとし,二段階革命を主張した。社会民主主義者のグループがロシアに現れるのは1880年代後半からである。運動はおもにポーランドとロシア西部諸県,特にユダヤ人の間で始まり,数年遅れで各地に広がった。91年の大飢饉や翌年のウッチのゼネストの影響下に数十のマルクス主義サークルが生まれた。その最有力グループがレーニン,マルトフらのペテルブルグ労働者階級解放闘争同盟である。レーニンらは逮捕・流刑になるが,各地にこれを模倣した〈闘争同盟〉がつくられた。98年3月ミンスクで開かれたロシア社会民主労働党創立大会は,これら同盟を主に,各地に散在するグループを統一組織に結集する試みであった。大会にはブンド(ユダヤ人の労働者組織)やペテルブルグとモスクワの〈同盟〉など6組織の代表9名が出席し,3日間の討議で党の名称決定,中央委員選出などを行ったが,綱領,規約,戦術を作成する力はなく,大会宣言執筆もP.B.ストルーベに委任した。
大会後,約500名の活動家が一斉逮捕され,創立された党は名前だけの存在となり,各地に小グループが孤立する状態が続いた。この分裂状態の中で党再建のイニシアティブをとったのはシベリア流刑を終えたレーニンらのグループである。彼らは〈労働解放団〉と協同し,新聞《イスクラ》を武器に理論を練り,組織を整え,自派の優位を確保したうえで,1903年夏ブリュッセルで開かれた事実上の党創立第2回大会に臨んだ。大会には数千名のメンバーをかかえる26組織の代表57名が参加,21日間の日程で綱領,規約,戦術などをイスクラ派優位の中で決定した。しかしブンドと経済主義者は中途で退場し,イスクラ派も党組織問題で,党員を職業革命家に限ろうとするレーニンらボリシェビキ派と大衆的労働者党を主張するマルトフらメンシェビキ派に分裂した。レーニンの《何をなすべきか》(1902)の見解表明以来党内に芽生えた対立がここに公然と衝突したのである。以後,両派はおもに党論を軸に激しい論争を展開し,ロシアの運動への影響力を喪失した。対立はその後,05年春にボリシェビキがロンドンで自派のみの〈第3回〉党大会開催を強行するまでに至った。
血の日曜日事件を発端に1905年のロシア革命が始まり,労働者がストライキにより革命で主導的役割を演じると,党内では当面の革命をブルジョア段階のものとするプレハーノフの二段階革命論が疑われ,革命の性格をめぐる論争が始まった。トロツキーは永続革命論(永久革命論)を唱え,レーニンは労農独裁論を打ち出した。革命が10月にペテルブルグのゼネストで頂点に達すると政府は譲歩し〈十月宣言〉で国会開設と自由を約束した。党活動は自由になり,亡命者も帰国した。下部からは党の統一を求める声が高まり,ボリシェビキ,メンシェビキの両派は別個に協議会を開き統一を決議した。革命の性格をめぐって両派の機関紙で永続革命論が展開され,支持を得ていった。しかし革命はここまでであった。労働者と農民の運動に恐怖を感じたブルジョアジーは反革命の側にまわり,革命は退潮に向かった。敗北の過程でロシアの後進性が再認識され,党は大勢としてブルジョア革命論に復帰していった。しかしながら,党の勢力は革命で急増し,06年春のストックホルム〈統一〉党大会時には党員数は約8万,07年春のロンドン党大会時には約15万に達した。
しかし07年6月のストルイピンのクーデタは党を瓦解させた。過酷な弾圧にテロルでこたえたボリシェビキとこれに反発し合法運動の重要性を説くメンシェビキとの不毛な争いは組織解体を促し,両派とも四分五裂の状態に陥った。10年の中央委員会パリ総会が党統一の最後の舞台となった。まもなく対立が再燃し,12年1月ボリシェビキが単独でプラハ協議会を強行したことを契機に,党は最終的に分裂した。夏のトロツキーらによる統一回復のための協議会(八月ブロック)はレーニン派のボイコットで不調に終わった。ついに国際社会主義ビューローが調停に乗り出し,14年7月,11のセクトに分裂した党を統一させようとブリュッセルで協議会を開いたが,第1次世界大戦のため流会した。大戦が勃発し,インターナショナルが崩壊すると,党の各派は戦争に対する態度の問題で混乱したが,戦争を帝国主義戦争として非難する国際派と祖国擁護派にほぼ二分された。
17年に二月革命が勃発すると,党の大勢はブルジョア革命の立場に立ち,組織統一が進んで統一大会の日程を決めた。しかしレーニンが帰国して〈四月テーゼ〉で革命を第二段階のプロレタリア革命に転化するよう呼びかけると,ボリシェビキはこれに従い,ブルジョア革命の立場を守ったメンシェビキと分離していった。ブルジョア臨時政府はやがて社会主義者の入閣により補強されたが,民衆の望む〈平和,パン,土地〉を与えることはできなかった。民衆はこれらを約束するボリシェビキのほうへ流れ始めた。メンシェビキ内ではマルトフら国際派が力を増し,社会主義政党が連立政府を組織して問題を解決するよう主張し成功するかにみえたが,ボリシェビキの十月武装蜂起に機先を制せられ失敗した。ボリシェビキ内にも単独政権に不安を感じるカーメネフら連立派が形成されたが,レーニンの断固たる意志に屈した。ボリシェビキは年末左派エス・エル党と連立政府をつくったが,18年3月,左派エス・エル党はブレスト講和会議に反対して政府から脱退した。メンシェビキは1917年末の党大会で国際派が指導権を握ったが,弾圧されて非合法下に置かれ,消滅に向かった。マルトフら一部のリーダーは亡命し,機関誌《社会主義通報》に拠り批判活動を続けた。ボリシェビキ党は18年春の第7回党大会で党名をロシア共産党(ボリシェビキ)Rossiiskaya kommunisticheskaya partiya(bol'shevikov)と変えた。唯一残されたロシア社会民主労働党のメンシェビキは,1963年ニューヨークで機関紙発行を停止した。
→ソビエト連邦共産党 →ロシア革命
執筆者:高橋 馨
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
ロシアのマルクス主義政党。ロシア人にマルクス主義が社会民主主義として受け入れられたのは、1883年にプレハーノフらがナロードニキ主義と決別して亡命地ジュネーブで創立した「労働解放団」においてである。彼らは、ロシアが西ヨーロッパ諸国同様、資本主義を通過すること、したがって当面する革命はブルジョア革命であると主張した。その後ロシア国内で生まれたマルクス主義者のグループが、全ロシア的組織の結成に向かい、1898年にミンスクでロシア社会民主労働党の結党大会を開いた。この大会は、ストルーベの筆になる「ヨーロッパの東へ行くほどブルジョアジーは弱体になり、文化的・政治的任務がプロレタリアートに降りかかる」という有名な宣言を発したが、参加した活動家の一斉逮捕によって活動は中断した。
党の再組織のためのイニシアティブをとったのは、レーニン、マルトフらが新聞『イスクラ』の刊行のために1900年に組織したグループである。その結果、03年夏、事実上の結党大会となった第2回党大会がブリュッセルとロンドンで開かれた。しかしこの大会で、党規約第1条をめぐり、イスクラ・グループが、職業的革命家の党を目ざすレーニン派と、より広い活動家も党員に含めようとするマルトフ派とに分裂、前者がボリシェビキ(多数派)、後者がメンシェビキ(少数派)とよばれるようになった。両派の対立はその後も続き、ボリシェビキは、18年、党名をロシア共産党(ボリシェビキ)と変更、メンシェビキの一部は国外での活動を続けた。
[藤本和貴夫]
党創立は1898年に宣言されたが,実質上の創立大会はプレハーノフ,レーニン,マルトフらが準備,指導し,党綱領・規約が決定された1903年第2回大会。この大会で規約の審議と指導部の選出をめぐって対立が生まれ,党はボリシェヴィキとメンシェヴィキの2派に分裂した。1906~07年には党は再統一されたが,その後は四分五裂となった。レーニンを中心とするボリシェヴィキが12年プラハ協議会を開き,党を再建したが,他の派はこれを認めず,自分たちもこの党の名を名乗り続けた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…ロシア革命(十月革命)によって誕生したソ連邦を支配した唯一の政治組織で,事実上の国家機関でもあった。1898年ロシア社会民主労働党として発足,ロシア革命後の1918年ロシア共産党(ボリシェビキ)Rossiiskaya Kommunisticheskaya partiya(bol’shevikov),25年全連邦共産党(ボリシェビキ)Vsesoyuznaya Kommunisticheskaya partiya(bol’shevikov)へと名称が変化し,52年にソ連邦共産党となった(以下,党と略称)。1991年8月クーデタの後,書記長ゴルバチョフが解散を勧告,書記長を辞任して,事実上解体した。…
…彼はこのような非連続的二段階革命論を終生保持し,時期尚早のプロレタリア革命は東洋的専制主義への逆転をうむと考えた。《イスクラ》刊行を通じてロシア社会民主労働党の再建にレーニンらと協力,1903年の第2回大会でレーニンとマルトフらが対立すると,やがてメンシェビキの側に加わった。05‐06年の第1次革命において革命戦略,農業綱領をめぐってレーニンと対立したが,反動期には解党派と闘った。…
…同年7月,内相プレーベが首都の路上で暗殺され,代わった内相スビャトポルク・ミルスキーPyotr D.Svyatopolk‐Mirskiiは譲歩路線に転換し,〈自由主義者の春〉が現出した。 政治党派としては,20世紀の初めよりマルクス主義者の党であるロシア社会民主労働党(以下〈社会民主党〉と略す)とナロードニキ系のエス・エル党が生まれ,活動していたが,全局を制したのは自由主義者たちであった。反政府的な地主層は,ゼムストボ(地方自治体)代表者の大会を開催して圧力を加え,解放同盟Soyuz osvobozhdenie(カデットの前身)に入っている自由主義的知識人は政治的デモンストレーションを目的とする解放宴会をくりかえし,立憲政治を要求したのである。…
※「ロシア社会民主労働党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
7/22 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新