独ソ戦(読み)ドクソセン

デジタル大辞泉 「独ソ戦」の意味・読み・例文・類語

どくソ‐せん【独ソ戦】

第二次大戦中の1941年6月、独ソ不可侵条約を破って、ドイツソ連を攻撃して始まった戦争。ドイツ軍はモスクワまで迫ったが、スターリングラードの敗戦以後敗退を続け、1945年ベルリン陥落、ドイツの無条件降伏に終わった。

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共同通信ニュース用語解説 「独ソ戦」の解説

独ソ戦

1941年6月、独ソ不可侵条約を破り、ドイツ軍が旧ソ連に侵攻した。当初は不意を突く形になったドイツ軍が圧倒し、一時は首都モスクワに迫った。ソ連軍は42年8月からのスターリングラード(現ボルゴグラード)の戦いでの勝利反撃に転じ、ドイツに攻め込んだ。ドイツは45年5月、無条件降伏した。ソ連の死者は民間人も含め2700万人に上るとされる。ソ連の構成国だったウクライナキーウ(キエフ)やハリコフなど主要都市などが激戦地となった。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「独ソ戦」の解説

独ソ戦(どくソせん)

ナチス・ドイツが独ソ不可侵条約を破り,1941年6月22日ソ連に対して電撃的な攻撃をかけて開始した戦争(ドイツ側の一般呼称はバルバロッサ作戦。ソ連では大祖国戦争)。ドイツの同盟国イタリアやルーマニア部隊を派遣した。当初壊滅的打撃を受け後退を余儀なくされたソ連軍は,10月までに200万人を超える兵士捕虜となったが,モスクワ前面での戦いでもちこたえ,41年冬ようやく最初の反攻を敢行してドイツの電撃戦略を挫(くじ)いた。双方とも100万人を超える部隊を投入した1942年7月~43年2月のスターリングラード(現ヴォルゴグラード)の戦いは,包囲されたドイツ軍の破局的敗北で終わった。43年7月ドイツが戦車軍団の3分の2を注ぎ込んだクルスク会戦以後,主導権は完全にソ連軍の手に移り,ドイツ軍は焦土戦術をとりながら退却を強いられた。ベルリン包囲戦で最終的にナチス・ドイツを打倒しえたソ連側の死者は2000万人を超え,独ソ戦期間中毎日平均1万4000人もの夥しい犠牲者を出したことになる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「独ソ戦」の意味・わかりやすい解説

独ソ戦
どくソせん
Feldzug gegen Sowjetunion

第2次世界大戦中の 1941年6月 22日~45年5月8日のドイツ,ソ連間の戦争。 A.ヒトラーはもともとボルシェビズムの打倒をナチズムの最大のスローガンに掲げ,ソ連打倒の機会をうかがっていた。 40年秋イギリスへの上陸作戦が不可能とみるとただちに対ソ作戦 (バルバロッサ作戦) の準備にかかり,41年6月兵力 250万を投入して攻撃を開始した。ドイツは対ソ戦を半年で終了すると豪語していたが電撃戦はソ連に通用しなかった。 12月アメリカも参戦しイギリス,ソ連とともに連合国が形成され,またソ連も陣容を立直して反攻に移り,42~43年のスターリングラードの戦いでの勝利以降,戦局を転換させた。 45年4月東ヨーロッパの全土を制圧したソ連軍は5月ベルリンを占領し,ドイツは降伏した。

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世界大百科事典(旧版)内の独ソ戦の言及

【第2次世界大戦】より

…この戦線の拡大は対ソ戦との関係でヒトラーの意図が問題にされており,イタリアの支援と後方の確保であったという見解と,この時期ヒトラーは〈世界電撃戦〉ともいう北アフリカ・近東までの侵出を考え,その延長上に立つものという見解に分かれている。いずれにしろ独ソ戦のまえには,ドイツはヨーロッパのほとんど全土に支配を及ぼしていた。41年6月22日ドイツ軍はソ連を攻撃した。…

※「独ソ戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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