年代記(読み)ねんだいき

精選版 日本国語大辞典 「年代記」の意味・読み・例文・類語

ねんだい‐き【年代記】

〘名〙 歴史上の事件を年代順に記録したもの。年暦。
※愚管抄(1220)一「常の年代記には此年号をばかきもらせるなるべし」
浮世草子世間胸算用(1692)一「かかる事には古代にもためし有〈略〉と、年代記(ネンダイキ)を引て申せど」

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デジタル大辞泉 「年代記」の意味・読み・例文・類語

ねんだい‐き【年代記】

歴史上の出来事を年代順に記したもの。クロニクルクロノロジー
[補説]作品名別項。→年代記
[類語]歴史史実青史通史編年史ヒストリークロニクル

ねんだいき【年代記】

《原題、〈ラテン〉Annales》古代ローマの詩人エンニウスによる詩。ローマの歴史を描いた長編叙事詩だが、現存するのは約600行のみ。ホメロスの詩の技法をラテン語詩に初めて導入し、ラテン文学の父とよばれる。

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改訂新版 世界大百科事典 「年代記」の意味・わかりやすい解説

年代記 (ねんだいき)

歴史記述のスタイルの一つで,生起した歴史事象を編年によって記録・叙述したものをいう。

年代記という形式の歴史記述がヨーロッパで最も典型的な発展を遂げたのは,中世世界においてである。厳密には,年代記と邦訳しうるものに,ラテン語でアナルannalと,クロニカchronica(クロニコンchronicon)と呼ばれる2種類のものがある。前者は,文字どおり,毎年ごとの記録を意味し,個々の事件・事項はきわめて簡潔に記載される。また後者は,時代順を追うとはいえ,重要な事項については,かなり詳細な記述をも含み,文学的な粉飾すらも施したものである。しかし,この2用語は必ずしも意識して区別されたとはいえず,上の定義に反した例も多い。年代記は,まずその記述の母体の選択に特色がある。修道院もしくは司教座教会など,由緒あるキリスト教団体を母体とするものが早く成立し,のちに都市,国家もしくは部族(民族),領邦(領国)に及んだ。さらに,これら個別的母体を基礎におきつつも,世界年代記と呼ばれる,ヨーロッパ文明全史とでもいえるものも出現した。

 教会および教会内団体史は,カエサリアのエウセビオスらの古代教会史叙述の伝統をうけて,中世のものとしては,セビリャイシドルス(7世紀),ベーダ(8世紀),マリアヌス・スコトゥス(11世紀)の著作など,早期の例がある。部族史,のちには国家史としては,9世紀には成立したと考えられる《アングロ・サクソン年代記》を筆頭として,13世紀成立のスペイン(カスティリャ)国家年代記や,16世紀初頭まで書き継がれた《フランス大年代記》が代表的である。11~12世紀における自治都市の成立は,都市民の歴史意識を強く刺激し,多数の都市年代記が作成された。ケルン,ヘントなど代表的な中世都市の年代記は,各都市の形成と展開の過程を,きわめて如実かつ鮮烈に描いている。世界年代記は,ことに12,13世紀に作成され,その構想の壮大さや歴史意識の鮮明さによって,しばしば言及されるものである。旧約聖書《創世記》から論じ起こし,オリエント,ギリシア,ローマの諸文明を経由して,ヨーロッパ文明の成熟への道程を描いているが,神話的記述と,最近年についての現実的記述の段差が,ことに強い印象を与える。フライジングオットーの《年代記》(《二つの国の歴史》ともいう。12世紀中葉)がよく知られている。なお,ここで〈二つの国〉とは,天上の国と地上の国という意味であり,理想主義と現実主義の交錯を写しだしている点からいっても,代表例とみなすことができる。このほかにも,プラハのコスマスの《ボヘミア年代記》(12世紀初め),ヘルモルト・フォン・ボサウの《スラブ年代記》(12世紀後半)など,一地方,一民族を母体としつつも,世界年代記のスタイルをとったものが多くみられる。

 一般に年代記は,多数の執筆者によって書き継がれるものだが,ある一時期に整理統合が行われ,その整理者の筆が表面に現れることが多い。しかし,さらにすすんで,力量ある著作家が,特定の対象や時代について,一貫した年代記を作成する場合もある。文学的,思想的にも吟味しうる内容をもつ年代記は,この種のものであり,すでに狭義の歴史叙述に属するものといってもよい。12世紀中葉のローマ教皇庁史をつづったソールズベリーヨハネスの《教皇庁史》は,そのタイトルにもかかわらず,年代記のスタイルをとっている。13世紀中葉のM.パリスの《大年代記》は,その時代に全ヨーロッパで起こった政治的・社会的諸事件を扱い,きわめて包括的な時代史として,高く評価されている。14~15世紀のフィレンツェの繁栄と騒乱とを描いた,2人の年代記作者,ビラーニ(14世紀)とL.ブルーニ(15世紀)とは,従来の都市年代記のやや形式的な叙述とは違い,個性的な記述をもって知られている。また14世紀後半の百年戦争の時代に,フランス,イングランド両社会を見聞して書いたフロアサールの膨大な年代記は,封建社会の爛熟と混迷を描いて,文学作品としても高く評価されている。

 13~14世紀を頂点として,中世においては多数の年代記が作成され,それらは良質な歴史史料を提供している。もちろんこれらの記述は現場の証言にも基づく信頼度の高いものではあれ,過度に簡潔であったり,著作者,整理者の立場によって,一面的であることを避けられない。また,年代記を歴史叙述の一環としてみるならば,中世における主要な素材であり,歴史観をうかがわせうる内容を備えているが,年代順の客観的もしくは機械的な事項並記のうちから,歴史観を描出するのには困難を伴う。とはいえ,ルネサンス以降の代表的歴史叙述も,とりわけ個人執筆の中世年代記の伝統を引き継いで発展したのであり,年代記がヨーロッパ文化史上の重要な一環をなしていることは疑いがない。
執筆者:

イスラム教徒は,アッバース朝の最盛期であった9世紀に,大帝国を建設した祖先の偉業と,彼らによって征服された諸民族,諸国家に思いをはせたとき,歴史意識に強く燃えた。ときあたかも,メディナ起源のマガージー史とイラク起源のアフバール史の二つの伝統が総合されて新しい歴史叙述が生まれ,半ば伝説的なイランの帝王史《フダーイ・ナーマ》もアラビア語に翻訳されており,シュウービーヤ運動は非アラブの優れた文化遺産の数々を明らかにした。このような背景のもとに9世紀末にヤークービーの《歴史》とディーナワリーの《長史》とが著され,10世紀初めのタバリーの《預言者と諸王の歴史》にいたってイスラムの年代記的世界史の伝統が確立された。それは天地の創造から筆を起こし,アダムに始まる預言者の歴史,前イスラム時代の諸民族,諸国家の歴史を述べ,ヒジュラ紀元元年以後は厳密な年代記形式をとる。とくに《預言者と諸王の歴史》は,同じタバリーの《タフシール》(コーラン注釈書)の姉妹編をなすもので,世界史の全過程を,天地の創造から最後の審判に至るまでの神の人類救済の意志と計画の具体化とする神学的歴史観によって貫かれ,その後におけるイスラム教徒の年代記の模範となった。年代記的世界史に新形式を開いたのは13世紀のイブン・アルアシールの《完史》とザハビーal-Dhahabī(1274-1348)の《イスラム史》で,前者は天地創造に始まり,それまでに書かれた史書のレジュメたることを意図して,タバリーの特徴であった詳細なイスナード(伝承の過程の記録)を省き,年代記の枠の中で事件の一貫した叙述に努める。後者は神学的歴史観に立ち,イスラム時代だけを対象とするが,政治史の記述と個人の伝記とを巧みに織り込む。その後のイスラム教徒の年代記には,世界史としての年代記のほかに,王朝史,地方史,同時代史としての年代記が数多く著されたが,18世紀末のジャバルティーの《伝記と歴史における事跡の驚くべきこと》を最後に年代記の伝統も絶えた。
執筆者:

中南米の原住民文化を征服したスペイン人によって,16,17世紀に書かれた諸記録をクロニカcrónicaと総称するが,これには編年的年代記と,文化・社会の記述の2種類の記録が含まれる。また,編年的年代記も,征服者であるスペイン人にかかわるものと,被征服者の諸民族にかかわるものが区別される。前者の例としては,征服の過程を記述したH.コルテスの《報告書簡》や,征服者間の内乱について述べたインカ・ガルシラソ・デ・ラ・ベガの《ペルー史》などがある。後者の例としては,アステカ族の歴史を記録したサアグンの《ヌエバ・エスパニャ事物総史》やドゥランDiego Duránの《ヌエバ・エスパニャのインディオ史》,あるいはインカ族の歴史を述べたシエサ・デ・レオンの《インカ帝国史》やサルミエント・デ・ガンボアの《インカ史》などが代表的なものとして挙げられる。

 サアグンやシエサのクロニカは,年代記であると同時に,原住民文化についても触れるところが少なくない。もっぱら文化や社会に焦点をあてて書かれたクロニカとしては,ソリタの《ヌエバ・エスパニャ報告書》(アステカ),ランダの《ユカタン事物記》(マヤ),モリナCristóbal de Molinaの《インカの神話と儀礼》(インカ)などがある。教会人の立場からのクロニカも多く,モトリニアの《ヌエバ・エスパニャ布教史》,カランチャAntonio de Calanchaの《布教史》,アリアガPablo José de Arriagaの《ペルーにおける偶像崇拝の根絶》など,教会と布教の年代記であると同時に,原住民宗教に関する情報源でもある。インカ・ガルシラソの《皇統記》は,インカ人の血を引くメスティソの立場からの年代記だが,土着の記録者の作品は,キリスト教を受容しながらも,被征服者の視点を貫いたものが多い。ペルーにおけるポマ・デ・アヤラはその代表例だが,メキシコにもイシュトリルショチトルテソソモクらがいる。これらのクロニカのいくつかは《大航海時代叢書》に収録されて邦訳がある。
執筆者:

殷周時代の甲骨文金文は,干支(日),月,祀(王の在位年)という紀時法を用いており,それによって記された記録は,年代記の始源を示唆している。年代記の体裁が最もよく整った現存する最古の書物は《春秋》で,魯国12代の治世の年月にしたがって当時の主要な事件を記す。《春秋》は儒家の経典の一つであるが,本来は年中行事のために作られた暦に,その年の重要事件を記入したものといわれる。当時同じ性質のものに晋の《乗》,楚の《檮杌(とうこつ)》があったという(《孟子》離婁)。西晋の杜預は,〈春秋は魯の史記の名なり。事を記す者は事を以て日に繫(か)け,日を以て月に繫け,月を以て時に繫け,時を以て年に繫く〉(《春秋左氏伝》序)と述べている。戦国の魏の国史《竹書紀年》も年代記の一典型で,紀伝体の《史記》が出現するまで史書の大勢を占めた。その後も年代記的史書は多く出現し,そのなかには書名に春秋の語を用いたものが少なくない。

 年代記的史書編纂の体裁を中国では編年体と呼び,紀伝体,紀事本末体より早く出現するが,史実を年次によって配列することは歴史叙述の基本であり,他の2体にもその原則が貫かれている。紀伝体では本紀だけでなく,列伝も志も基本的には時間の進行に従って叙述される。その最も単純化されたものが《史記》以来の表で,史実と時間の相関関係がタテ・ヨコの軸で示される。紀事本末体も,本末の語が示すように叙述対象を限定した年代記であり,個人の年譜は年齢と年次を重ね合わせた年代記である。中国の年代記がこのように多彩なのは,天時と人事の間に相関関係を見てこれを価値づける歴史観によるところが大きい。歴代の王朝が史官を設けて日々生起する自然と人文の事件を記録させたのもこの理念からであり,その記録は起居注実録として制度化され,正史の素材ともなった。中国における年代記的著作の最高の到達点は《資治通鑑》で,1360年に及ぶ膨大な史実を,しかも紀伝体に劣らぬ豊かさで編年した技量は驚くべきものがある。
執筆者:

日本においても年代記は古代から近世に至るまで多数作られた。すでに《続日本紀》の701年(大宝1)の記事に〈年代暦〉の存在を示す記載が2ヵ所に見える。また《宋史》日本伝には,983年(永観1)渡宋した東大寺の僧奝然(ちようねん)が〈王年代紀〉1巻を宋朝に献上したことが見え,その内容をかなり詳しく紹介している。日本の年代記の多くは天皇1代ごとに事項を掲記する形をとっているので,〈皇代記〉ないしそれに類する書名をもつが,同名異書も少なくない。

 平安末~鎌倉期の古写を伝えるものを挙げると,宮内庁書陵部蔵柳原本《年代記》,東京国立博物館および天理図書館所蔵《年代記(皇代記)》,京都御所東山文庫所蔵《一代要記》などがある。柳原本《年代記》は,朱雀天皇より円融天皇に至る間,欠脱もある残欠本ではあるが,《続群書類従》所収の《奈良年代記》の後に接続するもので,南都の寺院に関する事項に詳しく,藤原氏長者の記載に意を用いているので,興福寺の僧の手に成るものかと推測される。東京国立博物館および天理図書館に分蔵する《年代記》2巻は,村上天皇より崇徳天皇に至る14代の皇代記で,《続群書類従》には《十三代要略》の書名で収められている。東山文庫本《一代要記》4冊は,同書諸本の祖本で,首部その他を若干欠くが,神代より花園天皇までを収め,かつ歴代天皇を朱線でつないで,帝王系図の役割ももたせている。また各代の最後に即位年相当の漢家年代を標記し,中国歴代王朝との対照に努めているが,これは日本の年代記によく見られる特徴の一つである。さらに南北朝~室町時代には,洞院公賢の書写増補した《皇代暦(歴代皇紀)》をはじめ,《皇代略》《皇年代略記》など多くの年代記が作成され,なかには源頼朝挙兵の1180年(治承4)から後土御門天皇の1499年(明応8)に至る間,歴代の事績のほか,幕府の役職や重要事項を列記した《武家年代記》もある。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「年代記」の意味・わかりやすい解説

年代記
ねんだいき

クロニクルchronicleないしアナルズannalsの訳語で、編年体の歴史記述をさす。全部、あるいは少なくとも一部が同時代の記述にあてられている点に特徴がある。同時並行的に事件を記録するのが年代記の原型だったからである。古代ローマにおいて、たとえばタキトゥスの『年代記』のような名作をみるが、おびただしい年代記がつくられて史書の代表的な型式となったのは、中世である。

 中世には、古代史書を典範として強く意識する一方、同時にキリスト教的、とくにアウグスティヌス的史観に立脚した、人類史的、普遍史的展望をもつ年代記が書かれた。トゥールのグレゴリウス『フランク人史』(6世紀)は、天地創造から同時代、すなわち「世の終末に近きころ」まで年を追って事件を記述している。歴史は、直接には奇跡によって、間接には人事を通じて、摂理が発現する過程とされている。尊師ベーダ(ビード)『アングル人の教会的歴史』(7世紀)、パウルス・ディアコヌス『ランゴバルド人の歴史』(8世紀)なども同様である。時代が下るにつれて、しだいに内容が精密化し百科全書風の色彩を帯びる。オットー・フォン・フライジング『二つの国の年代記』(12世紀)は、中世中期を代表する作品といってよい。普遍史は中世を通じて歴史記述の基準であったので、この系列はボシュエ『世界史』(17世紀)までたどることができる。

 司教座や僧院では、小範囲の事件が記録されていた。そのもっとも素朴なものは、聖務日暦の余白に周辺の事件や伝聞を記入するものであった。他方、『サン・ベルタン修道院年代記』『フルダ修道院年代記』などは、一地域の記録を越えて、カロリング帝国の公式記録としての性格をも帯びている。

 王朝の歴史はアインハルト『カール大帝伝』、ニタール『シャルル禿頭(とくとう)王伝』など、伝記体ないし治世録の形で出発し、やがてシュジェSuger『ルイ6世伝』『ルイ7世史』(12世紀)やギヨーム・ド・ナンジ『フィリップ3世事績録』(13世紀)などの名作を生むに至る。

 王権がある程度の国民的基盤をもつようになると、王朝と民族の起源を跡づける年代記が書かれる。『アングロサクソン年代記』(10世紀)、ジェフリ・オブ・モンマスGeoffrey of Monmouth『ブルトン人史』(12世紀)はその一例である。サン・ドニ修道院の年代記はカペー王家の記録を兼ねたが、これをもとに『フランス大年代記』(13世紀)が成立し、14世紀まで加筆が続けられた。

 知的水準の向上に伴い、俗人の筆になる回想録風の年代記が登場する。ジョアンビル『ルイ聖王言行録』(13世紀)、そしてなによりも百年戦争期の社会を活写したフロアサール『年代記』(14世紀~15世紀)などがそれである。これらは騎士的立場から記述されているが、他方には一群の市民的年代記がある。14世紀はフィレンツェ年代記の黄金時代で、コンパーニDino Compagni『年代記』やビラーニGiovanni Villani『新年代記』などを生んだ。これらの年代記は今日、史料として扱われ、各国の史料集成、なかんずくドイツの『モヌメンタ・ゲルマニアエ・ヒストリカ』に収録されている。なお、中国の年代記については「編年体」の項を参照されたい。

[渡辺昌美]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「年代記」の意味・わかりやすい解説

年代記
ねんだいき
annals; chronicle

歴史上の事象を年代順に記した書物をいい,史学史上歴史書の一類型をなすが,文学史的にも重要なものがある。古くは,古代ローマの詩人エンニウス (前 239~169) が彼の時代にいたるまでのローマ史を叙事詩として記した『年代記』や,タキツスの『年代記』などがあるが,歴史叙述の形式としての年代記が最も盛んに書かれたのは中世であり,修道院の記録なども多くはこの形式で書かれている。有名な年代記にはイギリスの七王国時代の『アングロ・サクソン年代記』,フランスの『フランス大年代記』,ロシアの『ロシア年代記』,イタリアの『黒白年代記』などがある。ドイツの年代記は,19世紀以降今日にいたるまで刊行され続けている大史料集『モヌメンタ・ゲルマニアエ・ヒストリカ』のなかに数多く収録されている。近代に入って年代記は歴史叙述の形式としては衰えたが,一方この形式をかりた J.ゴールズワージーの『フォーサイト・サガ』のような文学作品も生れた。中国では歴史事象を編年的に記録した書物が古くから編纂された。孔子の作とされる『春秋』は春秋時代の魯国の歴史を年代順に記したものであり,その注訳書の『春秋左氏伝』は戦国・漢代の編纂である。前漢の司馬遷の『史記』の本紀も年代記の形式をとっている。 11世紀の宋の司馬光の『資治通鑑』は中国の膨大な年代記であり,これ以後も数多くの年代記が編まれている。西アジア・イスラム史上には,アラビア語,ペルシア語,トルコ語などによる数多くの年代記が存在するが,なかでもタバリー (839~923) の『預言者と諸王の歴史』によって編年体によるその叙述の形式はほぼ決定され,その伝統は 19世紀のジャバルディー (1754~1825) にいたるまで受継がれた。日本には年代記という名の書物は,10世紀の僧 奝然 (ちょうねん) が宋朝に献じた『日本年代記』 (1巻,現存しない) やその他があるが,西洋風の年代記の概念からすれば,古代律令制下に編纂された『日本書紀』以下の歴史書は編年体の歴史叙述であるから,いずれも年代記といってよい。

年代記
ねんだいき
Annales

ローマの歴史家タキツスの歴史書。 115~117年頃の作。アウグスツスの死 (14) からネロの死 (68) までの4帝の治世のローマ史で,1~4巻,5,6巻の一部,11~16巻が現存。最後の巻も不完全。帝政初期の暗鬱な政治の記録で,作者の意図はおもにこの時期に特徴的な権謀術数,罪悪,追従,密告,弾圧の数々を描き出すことにあり,公平な視野に立っているが,それでもたとえばチベリウス帝などは実際以上に暗く描かれている。

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日本歴史地名大系 「年代記」の解説

年代記(四日市村年代記)
ねんだいき

一冊

別称 豊前国宇佐郡四日市村年代記 渡辺市郎兵衛網睦編

原本 渡辺家

解説 四日市村西庄屋の渡辺家が代々書継いできた記録をまとめて一冊にしたもの。渡辺家は庄屋・大庄屋のみでなく、元禄一一年に四日市村などが幕府領となってからは陣屋書役などを勤めていたため、諸地域の記録も多く記されている。支配関係や用水路・池などの開発、農作物などから災害や宇佐宮の祭、四日市別院の建立などの記録も書継がれている。

活字本 昭和五二年刊豊前国宇佐郡四日市村年代記(中山重記校註)

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百科事典マイペディア 「年代記」の意味・わかりやすい解説

年代記【ねんだいき】

編年によって記述した歴史記述をいい,世界各地にその例が見えるが,中世西欧の歴史書はその典型。教会やキリスト教団体,都市,部族や国家などを母体として書かれ,多分に教化的意図をもち,既存の史料を編集・整理したという性格が強いが,史実に忠実で文学的色彩に富むものもある。《フランク史》《アングロ・サクソン年代記》などが知られる。
→関連項目回想録編年体

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世界大百科事典(旧版)内の年代記の言及

【タバリー】より

…バグダード帰還後はシャーフィイー派的立場からハンバル派と厳しく対決しながら,著述活動に専念し,《諸預言者と諸王の歴史Ta’rīkh al‐rusul wal‐mulūk》《タフシール》などを著した。前者は初期イスラム史学史を代表する史書であるとともに最初の年代記である。世界の創造,前イスラム時代の諸民族の歴史を述べた後,イスラム時代に入ってからは,年代記の形で915年までのイスラム国家の発展・展開を述べたもので,神学的歴史観に立ち,後世の年代記作者の範となった。…

【編年体】より

…中国における歴史叙述の形式の一つで,紀伝体,紀事本末体と併せて史の三体という。司馬遷が紀伝体を創出する以前の史書に用いられた,年を追って事件を記すいわゆる年代記の形式である。そのため《隋書》経籍志では編年体の史書を史部古史類に分類するのであって,古史の体ともいう。…

【歴史劇】より

…そして,そのあとを継いで,シェークスピアは数多くの〈歴史劇〉を表した。普通には,6種9編(《ヘンリー8世》を除く)が史劇と呼ばれているが,これらはすべて年代記史劇である。推定制作年代順に挙げれば,《ヘンリー6世・第2部》《ヘンリー6世・第3部》《ヘンリー6世・第1部》《リチャード3世》《リチャード2世》《ジョン王》《ヘンリー4世・第1部》《ヘンリー4世・第2部》《ヘンリー5世》の作品である。…

※「年代記」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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