ムバーラク

百科事典マイペディア 「ムバーラク」の意味・わかりやすい解説

ムバーラク

エジプトの政治家。陸軍および空軍の士官学校に学び,ソ連留学の経験もある。空軍の主要ポストを歴任し,1975年サーダート大統領のもと副大統領に就任。1981年サーダートが暗殺され,大統領に昇格した。サーダートの対イスラエル和平路線を引き継ぎ,アラブの盟主としてエジプトの発言権を保持,2005年初の複数候補による大統領選で5選を果たし,事実上の独裁体制を続けた。2010年12月,チュニジアで起こった反政府デモで同国の長期政権ベンアリ政権が崩壊(ジャスミン革命),その影響を受けた,ムバーラク退陣要求の反政府デモがエジプト全土に拡大した。2011年2月,ムバーラクは大統領辞任を発表,全権をエジプト軍事評議会に委譲した。軍事評議会は憲法を停止し,半年以内に憲法改正,大統領選,議会選挙を実行するとした。2011年モルシ政権が誕生,ムバーラクは不正蓄財などで,息子二人と身柄検察に拘束された。2012年1月の公判でデモ隊の殺害に関与したとされ検察から死刑を求刑されたが,5月特別法廷は終身刑を宣告した。しかし,2013年国軍がクーデタで権力を奪取,2014年11月再審判決で無罪となった。
→関連項目アラブの春エジプトモルシ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ムバーラク」の意味・わかりやすい解説

ムバーラク
Mubārak ibn Ṣabbāḥ

[生]?
[没]1916.1.3.
クウェート首長 (在位 1896~1916) 。クーデターによって兄ムハンマドを追い,即位した。オスマン帝国に忠誠を誓いながらも,1899年イギリスと秘密協定を結び,その保護下に入る。また,イブン・サウード家アブドゥル・アジーズ (→イブン・サウード ) を保護し,その敵イブン・ラシード家と戦った (01) 。 1909年トルコ政府はクウェート=イギリス間の条約関係を承認し,第1次世界大戦の結果ムバーラクはイギリスの保護下で独立した。晩年にはかつて保護していたサウード王国のアブドゥル・アジーズと激しく対立した。

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世界大百科事典(旧版)内のムバーラクの言及

【エジプト】より

…その後エジプトは,60年代に,アメリカの南北戦争を契機として綿作と綿花貿易を飛躍的に拡大させ,良質の綿花の単作供給市場として特化してゆくこととなる。こうした経済的社会的変化に対応して,土地法・商法その他の法制の洋式化も進行したが,思想の面ではタフターウィーアリー・ムバーラクのように自立的な近代化を志向する人びとも現れた。 第3代のサイード・パシャ(在位1854‐63)が認可してイスマーイール・パシャ(在位1863‐79)のもとにフランス人レセップスが69年に開いたスエズ運河は,エジプトの戦略的地位の重要性を飛躍的に高め,かえって災いを招くことになった。…

【クウェート】より

…クウェートは公式には第1次世界大戦までオスマン朝の宗主権を認めていたが,実質的には独立国家であった。1896年大首長ムバーラクが宮廷クーデタで即位してからはイギリスへの傾斜を強め,1899年イギリスの保護国となる条約を結んだ。
[政治]
 1950年に〈近代化の父〉といわれるアブドゥッラー首長が即位し,61年にイギリスとの保護関係を解消してクウェートは独立した。…

※「ムバーラク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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