アラブの春(読み)あらぶのはる(英語表記)Arab Spring

翻訳|Arab Spring

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アラブの春」の意味・わかりやすい解説

アラブの春
あらぶのはる
Arab Spring

2010年末ごろから中東・北アフリカ地域で本格化した反政府民衆運動。1968年にチェコスロバキアで起きた民主化運動プラハの春」にならって、「アラブの春」とよばれる。2010年12月にチュニジアで発生した反政府デモを発端に、アラブの大多数の国に大規模抗議デモや反政府集会が伝播(でんぱ)した。23年続いたチュニジアのベンアリ政権が2011年1月に倒れた(ジャスミン革命)のをはじめ、同年2月にエジプトムバラク政権、同年8月にリビアのカダフィ政権、同年11月にイエメンのサレハAli Abdullah Saleh(1942―2017)政権が倒れるなど、アラブ地域の長期独裁政権が相次ぎ崩壊した。民主化要求を受け入れ、バーレーンヨルダンモロッコでは憲法改正が実現。国民向けの補助金支給、閣僚入れ替え、選挙権拡大、議会権限拡大などの改革を実施した国もある。しかしシリアではアサドBaššār al-‘Asad(1965― )政権と反政府勢力との内戦が欧米諸国を巻き込んで泥沼化するなど、政情が緊迫している国も多い。

 アラブの春では、高い若年失業率などの経済的格差や独裁政権への不満を背景に、限定的な参政権しか認められてこなかった民衆が運動の原動力になった。衛星放送、携帯電話、フェイスブックやツイッターといったSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)などを通じ、反政府デモや当局の弾圧などの情報が瞬時に国境を越え、多くの国々の民衆に共有されたという特徴もある。アメリカやヨーロッパ諸国は独裁政権の崩壊や民主化を支持したが、シリアのアサド政権に対する国際制裁ではロシアと中国が反対するなど、国際社会の対応は一枚岩ではない。また、エジプトにおいては、ムバラク退陣後に民主選挙で誕生したモルシ政権が軍部のクーデターによって崩壊、その後も混乱が続いており、アラブの春の後退が懸念されている。

[編集部]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アラブの春」の意味・わかりやすい解説

アラブの春
Arab Spring
アラブのはる

2010年末のチュニジアで勃発した体制権力への異議申し立て運動(いわゆるジャスミン革命)に端を発し,広くアラブ世界に伝播した反独裁政権運動。チュニジア人露天商が焼身自殺という手段で行なった路上抗議運動が,またたく間に近隣のアラブ諸国に飛び火し,各地で大規模な大衆抗議運動となった。その結果 2011年1月にチュニジアのベンアリ政権,2月にエジプトムバラク政権,8月にリビアカダフィ政権の長期独裁支配が瓦解した。動乱は以降も収束せず,2012年にシリアは事実上の内戦状態に陥り,イエメンバーレーンでも社会秩序の動揺が続いた。このほか,ヨルダンモロッコサウジアラビアクウェート西サハラなどでも大衆の街頭運動と官憲との衝突が見られた。おしなべて似たような構造をもつ権威主義的体制への不満が,主として都市部の中間層が掲げる民主化・自由化への要求と結びつき,またフェイスブックやツイッターといったソーシャルメディアの浸透が新たなかたちでの大衆の動員につながったこともあって,アラビア語を共通の母語とするアラブ世界にほぼ同時的な動乱の連鎖が起こったと考えられる。しかし,各国の政治・社会改革要求の内容や方向は必ずしも一様ではなく,独裁体制を打倒したチュニジア,エジプト,リビアも,その後すみやかに新体制に移行できたわけではなかった。「アラブの春」の呼称は「プラハの春」など東ヨーロッパの民主化運動にならったものであるが,当時の西ヨーロッパをモデルとしたプラハの春とは異なりイスラム的価値観を抱える中東で,どこまで民主化が進むかに注目が集まった。

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