デジタル大辞泉
「アラブの春」の意味・読み・例文・類語
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アラブの春
2010年末からアラブ世界で広がった民主化運動 。若者らがSNS (交流サイト )を使って反政府デモを展開した。チュニジア、エジプト、リビアなどで長期独裁政権を崩壊に追い込む一方、シリアのアサド政権はデモを弾圧し、現在も続く内戦に突入した。エジプトでは強権体制が復活し、リビアも混乱から内戦に至るなど揺り戻しが相次いだ。
更新日:2023年3月31日
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アラブの春 あらぶのはる Arab Spring
2010年末ごろから中東・北アフリカ地域で本格化した反政府民衆運動。1968年にチェコスロバキア で起きた民主化運動「プラハ の春」にならって、「アラブの春」とよばれる。2010年12月にチュニジアで発生した反政府デモを発端に、アラブの大多数の国に大規模抗議デモや反政府集会が伝播(でんぱ)した。23年続いたチュニジアのベンアリ 政権が2011年1月に倒れた(ジャスミン革命)のをはじめ、同年2月にエジプトのムバラク政権、同年8月にリビアのカダフィ政権、同年11月にイエメンのサレハAli Abdullah Saleh(1942―2017)政権が倒れるなど、アラブ地域の長期独裁政権が相次ぎ崩壊した。民主化要求を受け入れ、バーレーン 、ヨルダン、モロッコ では憲法改正が実現。国民向けの補助金支給、閣僚入れ替え、選挙権拡大、議会権限拡大などの改革を実施した国もある。しかしシリアではアサドBaššār al-‘Asad(1965― )政権と反政府勢力との内戦が欧米諸国を巻き込んで泥沼化するなど、政情が緊迫している国も多い。
アラブの春では、高い若年失業率などの経済的格差や独裁政権への不満を背景に、限定的な参政権しか認められてこなかった民衆が運動の原動力になった。衛星放送、携帯電話、フェイスブック やツイッター といったSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)などを通じ、反政府デモや当局の弾圧などの情報が瞬時に国境を越え、多くの国々の民衆に共有されたという特徴もある。アメリカやヨーロッパ諸国は独裁政権の崩壊や民主化を支持したが、シリアのアサド政権に対する国際制裁ではロシアと中国が反対するなど、国際社会の対応は一枚岩 ではない。また、エジプトにおいては、ムバラク退陣後に民主選挙で誕生したモルシ 政権が軍部のクーデター によって崩壊、その後も混乱が続いており、アラブの春の後退が懸念されている。
[編集部]
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アラブの春【アラブのはる】
2010年12月チュニジアではじまった民主化を求める運動(ジャスミン革命)を発端として,北アフリカ・中東のアラブ諸国に波及した民主化要求運動を象徴する言葉。2011年1月エジプトのムバーラク 長期政権が崩壊,同年2月リビアで反政府デモが起こり内戦に発展,カダフィー 政権が倒壊するなど,アルジェリア,イエメン,サウジアラビア,ヨルダン,シリアなど多数の国々で反政府デモや抗議活動が連鎖的,断続的に発生した。いずれも若者たちのソーシャルネットワーク が運動の発端で大きな力を発揮したとされている。しかし各国 各地域の政治 体制の違いや政治勢力間の複雑な関係もあり,さらに,この地域に利害関係を持つ米,仏,英などの介入もあって,政権倒壊後も混乱が続いた。当初から,政治運動としての核を持たず政治的結集点の形成を準備しなかった〈アラブの春〉はひとしなみに純粋な民主化運動と美化できるものではなく,かえって市民に多くの厄災をもたらしているという批判も出されていた。2013年エジプトでモルシ政権が軍部によるクーデターによって崩壊し,再び国軍主導による政権に戻るという事態が生まれたこと,イラク を拠点とするイスラム過激派組織ISが,シリアやリビアで〈アラブの春〉以降急速に勢力を拡大し,2014年6月〈イラク・レバント のイスラム国 〉という〈カリフ制国家〉の建国を宣言するまでに成長するのを許したこと等々,この批判が証明されるかたち となった。 →関連項目アラブ首長国連邦 |エジプト |カルマン |テロリズム |モルシ
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アラブの春 Arab Spring アラブのはる
2010年末のチュニジア で勃発した体制権力への異議申し立て運動(いわゆるジャスミン革命)に端を発し,広くアラブ世界に伝播した反独裁政権運動。チュニジア人露天商が焼身自殺という手段で行なった路上抗議運動が,またたく間に近隣のアラブ諸国に飛び火し,各地で大規模な大衆抗議運動となった。その結果 2011年1月にチュニジアのベンアリ 政権,2月にエジプト のムバラク 政権,8月にリビア のカダフィ 政権の長期独裁支配が瓦解した。動乱 は以降も収束せず,2012年にシリア は事実上の内戦状態に陥り,イエメン やバーレーン でも社会秩序の動揺が続いた。このほか,ヨルダン ,モロッコ ,サウジアラビア ,クウェート ,西サハラ などでも大衆の街頭運動と官憲 との衝突が見られた。おしなべて似たような構造をもつ権威主義的体制への不満が,主として都市部の中間層が掲げる民主化・自由化への要求と結びつき,またフェイスブックやツイッター といったソーシャルメディア の浸透が新たなかたちでの大衆の動員につながったこともあって,アラビア語を共通の母語とするアラブ世界にほぼ同時的な動乱の連鎖が起こったと考えられる。しかし,各国の政治・社会改革要求の内容や方向 は必ずしも一様ではなく,独裁体制を打倒したチュニジア,エジプト,リビアも,その後すみやかに新体制 に移行できたわけではなかった。「アラブの春」の呼称 は「プラハの春 」など東ヨーロッパの民主化運動にならったものであるが,当時の西ヨーロッパ をモデルとしたプラハの春とは異なりイスラム的価値観を抱える中東で,どこまで民主化が進むかに注目が集まった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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