モルドバ国(その他表記)Moldova

翻訳|Moldova

改訂新版 世界大百科事典 「モルドバ国」の意味・わかりやすい解説

モルドバ[国]
Moldova

基本情報
正式名称モルドバ共和国Republica Moldova,Republic of Moldova 
面積=3万3846km2 
人口(2010)=356万人 
首都=キシナウChişnǎu(キシニョフKishinyov)(日本との時差=-7時間) 
主要言語モルドバ語(公用語),ウクライナ語,ロシア語 
通貨=レウLeu

ソ連邦を構成する共和国の一つであったが,1991年8月27日,独立を宣言した。正称はモルドバ共和国Republic of Moldova。北,東,南はウクライナ共和国,西はルーマニア国境を接する。おもな言語はモルドバ語とロシア語である。

国土の大半は標高200m以下の丘陵地帯で,中央にはプルート川西部に広がるモルダビア高地(平均標高300m,最高地はバラネシティ山の429m)があり,その中心部に〈コードリkodri〉と呼ばれる森林地帯がある。ドニエストル川右岸にはドニエストル高地が広がる。モルドバはソ連邦ヨーロッパ部の中で最も温暖な地域の一つである。気候は穏やかな大陸性で,冬は暖かく(1月の平均気温-5~-3℃),夏はやや暑い(7月の平均気温19.5~22℃)。年降水量は南西部で400mm,北部で560mm。6月と7月に降水量が多い。あられひょうを伴った嵐がしばしば発生する。国内の主要な河川はドニエストル川(国内の延長657km。支流レウト川,ビク川,ボトナ川)とドナウ川下流左岸に注ぐプルート川(国内695km。支流チュグル川,カミャンカ川,ラルガ川)である。国土の75%は豊かな黒土地帯であり,オーク,シデ,カエデなどを主とする森林地帯が中央部を中心に8%を占める。北部にはベリツィ・ステップ,南部にはブジャク・ステップが広がり,ドニエストル下流域は沖積平野となっている。

主要民族はモルドバ人63.9%,ウクライナ人14.2%,ロシア人12.8%,チュルク語系民族のガガウズ人3.5%,ユダヤ人2.0%,ブルガリア人2.0%,白ロシア人0.4%,その他1.2%である(1979)。人口密度は120.2人/km2(1983)。都市人口の割合は43%(1983)。大都市はキシニョフ,チラスポリ,ベリツィ,ベンデリなどがあげられる。ソ連邦ヨーロッパ部の中では出生率がいちばん高く,死亡率がいちばん低い。都市化は進んでいるが,ソ連の共和国の中で都市人口の割合が最も低い(44%)。

 モルドバ語はルーマニア語にきわめて近いが,文字はキリル文字が使われている。モルドバ国内に住んでいるモルドバ人の97.7%(1970)がモルドバ語を母語としているが,都市ではモルドバ語を母語とする者の割合は低い。

第1次世界大戦後ベッサラビアはロシアからルーマニアに編入された。しかしソ連はこれに反対し,1924年にドニエストル川東岸ソ連領にウクライナ共和国の一部としてモルダビア自治共和国を形成した。40年6月ソ連軍は独ソ不可侵条約に基づいてベッサラビアと北ブコビナを占領し,40年8月2日モルダビア・ソビエト社会主義共和国の成立を宣言した。その際かつてのモルダビア自治共和国領の約60%はウクライナ共和国領となった。モルダビアでは土地,銀行,工場などの国有化が実施された。41年6月モルダビアはドイツ・ルーマニア軍によって攻撃され占領された。3年間の占領期間中に6万4000人の市民が死亡し,4万7000人以上の市民がドイツなどに強制的に送られ,住居の45%が破壊された。44年にソ連軍が再びモルダビアを回復したのち,急速に復興が進み,49年には工業生産が戦前の水準に戻り,50年までには農業集団化も基本的に達成された。64年に工業生産高は1940年の13.4倍に達した。1947年にはルーマニアとの間に平和条約が結ばれ,ルーマニア政府も公式にソ連邦モルダビア共和国の存在を認めた。

 モルダビアは古くからロシア,ルーマニア,トルコによる抗争の地で,1812年のロシアによるベッサラビア併合以降は反ロシア主義が強く,また主都キシニョフを中心として多数居住していたユダヤ人に対する反ユダヤ主義の強い地方でもあった。第2次世界大戦中にはルーマニア人によるユダヤ人に対するポグロムも発生した。モルダビア共和国はソ連邦の構成共和国の中でもとりわけ〈人工的〉に形成された共和国である。住民の大部分がモルダビア人=ルーマニア人であることから,ソ連の共産党・政府の1947年以来の主要な関心はモルダビア共和国の住民をルーマニアの影響から徹底して切り離すことにある。したがってルーマニアとは別のモルダビア民族,文化,国家を育成することに力が注がれると同時に,モルダビアとルーマニアを結びつけて歴史的モルダビアを再建しようとする民族主義に対して厳しい批判のプロパガンダが続けられている。83年冬および84年夏に,モルダビアの党・政府の指導部がソ連中央の党指導部によって厳しく批判されたことは,なお民族問題をめぐって緊張が存在していることを示唆した。

モルダビア共産党は1940年に創立された。82年に党員および候補は合計17万4277人,党中央委員会第一書記は1980年以来S.K.グロスが務めている。モルダビア・コムソモール(共産主義青年同盟)は1941年に創立された。同盟員数は60万1462(1983)。国の最高権力および立法機関は一院制の最高会議で,議員の任期は5年であり,常設機関として幹部会が選出される。最高会議によってモルダビア閣僚会議(政府)がつくられる。地方レベルの人民代表ソビエトは任期が2年半であり,選挙権は18歳以上となっている。歴代のソ連邦共産党書記長のうちブレジネフは1950-52年モルダビア党第一書記,チェルネンコは1948-56年モルダビア党中央委員会宣伝部長を務めていた。

畜産を含む農業がモルドバの経済の中心である。国内には367のコルホーズと464のソホーズがある(1983)。国土の83%が耕地で,耕地の75%で穀物が栽培されている。作物はトウモロコシ,冬小麦,大麦,冬ライ麦の穀物をはじめとして,タバコ,テンサイ,大豆,ヒマワリ,亜麻,麻,ブドウなどの果樹,野菜などである。特にブドウの栽培が盛んで,ソ連全体のブドウ畑の1/3がモルドバに集中し,ブドウ酒の生産量もソ連全体の1/3を占めた。畜産も盛んで,豚207万9000頭,牛115万頭,羊・ヤギ122万6000頭(1980)が飼育されている。畜産はモルドバの農業生産の30%を占めている。

 工業分野では食品工業生産が約半分を占め,軽工業,重工業がそれに続いている。ブドウ酒のほか,果実加工,ヒマワリの種の搾油,バター,マーガリン,食肉加工,タバコなどの部門があり,キシニョフにはシャンパンの,ベリツィにはブランデーの大規模な製造工場がある。そのほか,各地で木材加工,皮革工業,衣服製造が行われている。

 鉄道は東西方向のものが多く,ウクライナのオデッサとチェルノフツィを結ぶキシニョフ経由の鉄道が幹線となっている。鉄道路線距離は1150km,自動車用道路の距離は1万2500km(1982)。ドニエストル川は全域で汽船の運航がなされている。

 モルドバ共和国内にはキシニョフ大学をはじめとする八つの高等教育機関があり,5万3400人(1982/83)の学生が学んでいる。指導的学術機関として1961年に設立され,会員46名を擁するモルドバ科学アカデミーがある。モルドバでは1979年現在206種の新聞・雑誌がモルドバ語あるいはロシア語で発行されている。テレビやラジオはモルドバ語とロシア語で放送されている。民族的工芸品,〈ジョク〉と呼ばれる民族舞踊,〈ドイナ〉と呼ばれる音楽が知られている。
モルドバ[地方]
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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