改訂新版 世界大百科事典 「ヤロスラフ」の意味・わかりやすい解説
ヤロスラフ
Yaroslav Mudryi
生没年:978ころ-1054
ロシアのキエフ大公(在位1019-54)。ウラジーミル大公の息子で,ノブゴロドに配されていた。父の死後,異母兄スビャトポルクを追放して1019年にキエフ大公位に就いたが,その後も弟ムスチスラフと争わねばならず,26年には彼と国土を分割して支配領域の一部を譲った。再び国土の統一を果たすことができたのはムスチスラフの死後の36年であった。彼は,北方のチュージ人(エストニア人の古称)の地にユーリエフ市(彼の洗礼名ユーリーにちなむ。現在のタルトゥ市)を,北東方1000km余のボルガ河畔にヤロスラブリ市を建設するなど,その支配領域の拡大・強化に努めた。しかし,彼の治世にすでに息子たちを配した町と領域の自立化傾向が見られ,彼も死の前にその事態を認める〈指示書〉を息子たちに与えている。彼の治世には,初代のキエフ府主教がコンスタンティノープルから派遣され,ソフィア大聖堂の建立,ペチェルスカヤ修道院の建設など,キエフ・ロシアにおけるキリスト教の定着化が進展した。彼自身はスウェーデン王女を公妃としただけではなく,息子たち,娘たちをヨーロッパ諸国の王女,王と結婚させることを通じてそれら諸国との結びつきを強めていった。簡素本〈ルスカヤ・プラウダ〉の一部を構成する〈ヤロスラフ法典〉は,彼がノブゴロド市民に与えたものとされており,立法者としての彼の側面を示す。旺盛な知識欲とによって〈賢公(ムードルイ)〉との異名を得た。
執筆者:細川 滋
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報