フリードリヒ[2世]
Friedrich Ⅱ
生没年:1712-86
プロイセン王。在位1740-86年。通称フリードリヒ大王Friedrich der Grosse。フリードリヒ・ウィルヘルム1世の子であるが,およそ文化に無関心な父と異なり,少年時代からフランス風の文芸や音楽を好み,即位の前年に著した《反マキアベリ論》で開明的な君主の理想を描いた。しかし王座に登るとまもなく,マリア・テレジアのオーストリア継承権に異議を唱えてシュレジエンを不法に占領し,マキアベリストの本質をあらわにする(オーストリア継承戦争)。戦勝により豊かなシュレジエン地方を併合した王は,重商主義政策で国力の充実を図る一方,信教の自由の容認や学校教育の改善などに啓蒙君主としての面目を発揮した。ベルリン近郊ポツダムにロココ風のサンスーシ宮殿を築かせてここに住み,早朝から政務室に入って国務の万般をみずから決定・指導したこの独裁的君主も,夜は著名な文人や芸術家を集めて,機知に富む社交のひとときを楽しむ〈哲人王〉となった。1750年からおよそ3年間,フランスの啓蒙思想家ボルテールが,王の賓客としてこの宮殿に滞在している。ほとんどがフランス語で書かれた膨大な著作の面でも,ドイツ史上に比肩する者がない。
シュレジエンを奪われたマリア・テレジアが外交努力によってフランスとの同盟を実現し,さらにロシアとも結んでプロイセンへの報復を企てると,1758年フリードリヒ2世は先制攻撃に出て七年戦争の口火を切った。この戦争でプロイセンはイギリスを除くヨーロッパの列強を敵に回すかたちとなり,王の軍事的天才が個々の会戦でよく示されたにもかかわらず,一時はロシア軍がベルリンに迫るなど,国家は滅亡の瀬戸際にまで追い込まれる。しかしフリードリヒ2世は超人的な精神力でこの危機をのりこえ,ヨーロッパの国際政治における大国プロイセンの地位を不動のものとした。戦後の再建期には,内地植民や産業の育成で富国強兵の実をあげ,行政,司法を近代化し,晩年には自然法学者の法務大臣シュファレツKarl Gottlieb Svarez(1746-98)に〈プロイセン一般ラント法〉を編纂させるなど,啓蒙絶対君主の模範と仰がれた。もとより,根本においてシニカルな懐疑論者である王の統治は,人道主義的なポーズにもかかわらず,結局は一個の警察国家を実現するにとどまった。また,社会政策の面でも,陸軍の幹部たる貴族(ユンカー)の特権をむしろ保護する方針をとり,国家的功利主義の立場から身分制秩序を温存,強化した。
執筆者:成瀬 治
フリードリヒ[2世]
Friedrich Ⅱ
生没年:1194-1250
シュタウフェン朝最後の神聖ローマ皇帝(在位1220-50),シチリア王(在位1197-1250)。ハインリヒ6世とシチリア王女コンスタンツェ(ノルマン朝シチリア王ルッジェーロ2世の息女)の間にパレルモに生まれる。1196年ハインリヒ6世はこの幼児をドイツ国王に選ばせたが,翌97年同帝の予測せぬ死により情勢は激変,ドイツにはウェルフェン家のオットー4世とハインリヒ6世の弟フィリップ(シュタウフェン家)の二重王権の対立状態が現出する。その間フリードリヒは教皇インノケンティウス3世の後見のもと,シチリアで多才で早熟な若者に成長。フィリップが暗殺された(1208)のち,教皇とフランス国王に支援されたドイツのシュタウフェン派はフリードリヒ2世を改めて国王に擁立(1211),翌1212年マインツで戴冠した。オットー4世がフランス王にブービーヌで大敗した(1214)のち,アーヘンで再び王冠を戴き単独支配を確立。20年聖界諸侯への特権授与とひきかえに,長子ハインリヒ7世Heinrich Ⅶを国王に選出せしめ,みずからはイタリアに帰って皇帝となる。25年第2の妃イザベッラとの結婚を通じてエルサレム王国を取得,29年にはエジプトのアイユーブ朝スルタン,カーミルとの外交協約により同地への支配権を実現する。爾来,彼の政治的関心の重点はイタリアに集中,ドイツへは35年と37年に数ヵ月ずつ,しかも息子ハインリヒ7世の反抗を断ち,次子コンラート4世Konrad Ⅳを王とするために赴いただけで,そこでは直接統治を断念して,領邦諸侯に国王大権を大幅に譲渡した。
一方,シチリア王国では,すでにノルマン諸王の打ち立てた支配伝統をいっそう発展させて,当時としては最も先進的な集権的官僚制統治体制を樹立,31年には中世ヨーロッパ初の国法典《皇帝の書Liber Augustalis》を公布した。しかし,皇帝の直接支配を他のイタリア地域にも貫徹しようとする政策は,ロンバルディア諸都市と教皇との結束した抵抗にあい,39年,教皇による2回目の破門宣告によって始まった両権力間の最後の戦いは,節度を知らない言論・権力闘争に発展,皇帝の死とシュタウフェン支配の終焉をもって終わった。〈中世最後の薔薇〉とも〈黙示録的怪物〉とも呼ばれるフリードリヒ2世は,特異な魅力に満ちた人物で,多くの言葉を自在に操る学識豊かな教養人であるとともに冷徹な権力政治家であり,異端の容赦ない追及者であるとともに〈イスラム教徒の友〉であった。彼の不死伝説は中世末期に至るまで民間に根強く広まっていた。
→フリードリヒ伝説
執筆者:山田 欣吾
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
フリードリヒ2世(大王)
フリードリヒにせい[だいおう]
Friedrich II, der Grosse
[生]1712.1.24. ベルリン
[没]1786.8.17. ポツダム,サンスーシ宮殿
プロシア王 (在位 1740~86) 。プロシア王フリードリヒ・ウィルヘルム1世の第3子。母ゾフィー・ドロテアはイギリス王ジョージ1世の娘であった。少年時代から詩文,音楽に親しみ,学芸を軽んじる父王としばしば衝突した。しかし長じては軍務,政務にも経験を積み,かたわらボルテールらフランス啓蒙哲学者と文通して,『反マキアベリ論』L'Anti-Machiavel (40) などを著わした。 1733年オーストリアとの接近を望む父王の命に従い,神聖ローマ皇帝カルル6世の姪エリーザベト・クリスティナと結婚したが,この不幸な結婚により,子宝には恵まれなかった。 40年5月 31日,プロシア国王に即位,即位後まもなくオーストリアのマリア・テレジアが「国事詔書」に基づき全オーストリア領に君臨すると,この機をとらえてシュレジエンを占領,オーストリア継承戦争と七年戦争を戦い抜くことにより,その領有を確保した。父から受継いだ有能な官僚行政機構と常備軍をますます強化,拡大し,あらゆる国務を独裁的に処理して,プロシア絶対王政の頂点を築いた。経済政策の面では,重商主義を推し進めて商工業を保護育成し,七年戦争後の再建期には開墾,干拓,内地植民などの社会政策をも実施した。またヨーロッパ史上に比をみない教養人でもあった王は,新築したポツダムのサンスーシ宮で,政務の余暇にロココ風の典雅な社交や著述を楽しみ,また音楽にも長じ,フルートのソナタや協奏曲を作曲し,学術面でもベルリンの科学アカデミーを復興した。宗教的には寛容政策をとり,晩年には自然法理論に基づく『プロシア一般国法典』を編纂させたりしたので,「啓蒙専制君主」の典型と仰がれた。しかしその統治の本質は冷厳な警察国家体制であるとともに,軍国組織維持のため貴族を保護する政策をとり,封建的な農民支配に一指も触れようとはしなかった。「国家第一の僕」という彼の君主観は,確かに王権神授説や家父長的王権からの脱却を示しているが,それは父王から引継いだプロシア的「滅私奉公」主義の徹底であり,絶対主義支配をいささかも弱めるものではなかった。
フリードリヒ2世
フリードリヒにせい
Friedrich II
[生]1194.12.26. イェジー
[没]1250.12.13. アプリア
ホーエンシュタウフェン朝のドイツ王 (在位 1212~50) ,神聖ローマ皇帝 (在位 20~50) 。ハインリヒ6世とシチリア王女コンスタンスとの子。フェデリーコ1世として 1198年シチリア王となり,1212年末マインツでドイツ王に戴冠。即位直前,ドイツ皇帝位をめぐって対立皇帝が出現し,政局は紊乱したが,彼はこれらの勢力を破って帝位を獲得した。十字軍にも出征し (28~29) ,エルサレムにも入城している。しかしイタリア生れの彼は,主としてイタリア,特にシチリアに関心を向け,ここに当時のヨーロッパでも類を見ない近代的な官僚制国家をつくり上げたが,その反面ドイツの統治をおろそかにし,在世中ドイツに滞在したのは 10年にも満たなかった。 1220年に教会諸侯に対し,教会領に国王が干渉しないことを約束する特権状 (教会諸侯との協約) を与え,次いで 31年世俗諸侯に領内の最高裁判権と貨幣鋳造権を認めた特権状 (→諸侯の利益のための協定 ) を発した。これはドイツ諸侯の事実上の独立を合法化したことにほかならず,領邦国家の発達はこれによって大いに促進された。彼のイタリア政策はローマ教皇との対立を生み,27,39,45年と3度教皇から破門され,45年には廃位され,ドイツ帝権は著しく弱体化した。没後に大空位時代を招来した。
フリードリヒ2世[ウュルテンベルク公]
フリードリヒにせい[ウュルテンベルクこう]
Friedrich II
[生]1754.11.6. レガ,トレプトウ
[没]1816.10.30. シュツットガルト
ウュルテンベルク公 (在位 1797~1805) ,フリードリヒ1世としてウュルテンベルク王 (在位 06~16) 。初めプロシア,オーストリアに味方し,反ナポレオンの態度をとり,1801年リュネビルの和約でライン川左岸の地を失った。以後急転して親フランス政策に改め,05年シュワーベン地方のオーストリア領を獲得し,かつ 06年王号を授けられた。その後ライン同盟に加入して領土を拡張し,13年までフランスのために戦ったが,ライプチヒの戦いののちはただちに対仏大同盟に加入し,ウィーン会議でも領土を失うことがなかった。国内行政の面では,久しく維持されてきた身分制国家体制を改め,絶対主義的な官僚行政を強化した。
フリードリヒ2世(独眼公)
フリードリヒにせい[どくがんこう]
Friedrich II, der Einäugige
[生]1090
[没]1147.4.6.
シュワーベン公 (在位 1105~47) 。ザリエル朝 (フランケン) の神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の甥。ハインリヒに嫡子がなかったので,血統上,彼が王位を継ぐはずであった。しかし 25年ハインリヒの死後,彼はザリエル家の遺産を継いで強力であったため,教会から警戒され,ザクセン家のロタール2世 (3世)がドイツ王 (皇帝) に選ばれた。このため彼は対立国王となって挑戦したが,35年に降伏し,37年弟コンラート3世がドイツ王に選出されると,その補佐役になった。
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フリードリヒ2世(大王)(フリードリヒにせい(だいおう))
Friedrich Ⅱ. (der Große)
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
フリードリヒ2世
生年月日:1194年12月26日
ドイツ王(在位1212〜50),神聖ローマ皇帝(在位20〜50)
1250年没
フリードリヒ2世
生年月日:1633年6月9日
ヘッセン・ホンブルク地方伯(在位1681〜1708)
1708年没
フリードリヒ2世
生年月日:1712年1月24日
プロシア王(在位1740〜86)
1786年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内のフリードリヒ2世の言及
【イタリア文学】より
…一方,吟遊詩人たちがオック語やオイル語([フランス語])の文学を北イタリアにしきりにもたらしているころ,プロバンスの恋愛詩を積極的に取り入れ,俗語詩を真っ先に開花させたのは,シチリアのホーエンシュタウフェン家の宮廷であった。フェデリコ(フリードリヒ)2世はパレルモの宮廷に各地から人材を集め,みずからも詩を書いたが,それは決して王侯の手慰みではなかった。彼は芸術,科学,哲学などを奨励したが,それらを保護しようとしたのではなく,現実にそれらをつくりだそうとしたのである。…
【シチリア王国】より
…しかし男系が絶えたため,グリエルモ1世の妹コンスタンツァと結婚したホーエンシュタウフェン家の[ハインリヒ6世]が王位継承権を主張し,各地の抵抗を鎮圧して即位した(在位1194‐97)。彼の死後,王国は教皇インノケンティウス3世の仲介によってハインリヒの子[フリードリヒ2世](在位1198‐1250)に受け継がれたが,その際に,教皇はノルマンのシチリア征服以来王国が教皇の封臣であることを宣言した。フリードリヒはノルマン朝の伝統を受け継ぎ,教会,都市,封建領主などの権利を厳しく制限し,官僚制を整え,裁判権を集中する一方,塩,鉄,絹などの国家独占によって財政基盤を強化した。…
【十字軍】より
… 12世紀中葉から末期にかけて,十字軍側と,ファーティマ朝を打倒してエジプトとシリアにまたがるイスラム統一勢力を結集した英傑[サラーフ・アッディーン](サラディン)を始祖とするアイユーブ朝(1169‐1250)の〈[ジハード](聖戦)〉との戦いは,エルサレムの争奪をめぐって熾烈となり,1187年7月[ヒッティーンの戦]に大勝したサラーフ・アッディーンはエルサレムを同年10月に奪回した。これに対し西欧3大国の君主(イングランド王リチャード1世,フランス王フィリップ2世,神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世)が勢ぞろいした大規模な第3回十字軍(1188‐91)が編成され,両者の争いはその最高潮に達したが,結局西欧側の退勢を挽回し得ず,かろうじて1192年エルサレムへのキリスト教徒巡礼の自由通行を保障する協定の締結をもって幕を閉じた。
[中期十字軍]
西欧側は臨時首都アッコを中心として,エルサレムなき残存領土の維持に努める一方,シリア・パレスティナの外周地域で間接的作戦を行いつつ,外交手段をもってエルサレム奪回を企てた。…
【シュタウフェン朝】より
…1138年から1254年まで,事実上連続してドイツ国王位につく。その間,[フリードリヒ1世],[ハインリヒ6世],[フリードリヒ2世]という3世代の英主は,いわゆる神聖ローマ皇帝としてヨーロッパ的覇権の樹立を目ざす。彼らの努力は結局挫折に終わるが,シュタウフェン諸帝の活躍は中世的皇帝権に最後の輝きを添えたものと評価されている。…
【第三帝国】より
…第3は聖霊の秩序で,全き知識と自由にみちた時代である。ヨアキムによれば,この第3期は1260年に始まり,そのときにはドイツ,イタリア両国にまたがって教会を支配しようとしたフリードリヒ2世が[アンチキリスト]となり,他方フランシスコ会修道士たちが指導して歴史を完成させ,再臨のキリストを迎えるに至る,という。この教えの信奉者たちは,フリードリヒが1250年に死んだことで期待を裏切られたが,アッシジのフランチェスコこそ第3期の最初の指導者であったとして,既成教会と対立した。…
【ナポリ大学】より
…1224年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世によって,教皇権と密接に関係した[ボローニャ大学]に対抗する大学として設立された。ボローニャが学生組合主体の自生的大学であったのに対して,皇帝権という普遍的権力による最初の設立型中世大学として注目される。…
【パレルモ】より
…ノルマン王朝の下で,1130年,パレルモは[シチリア王国]の首都となり,イスラム文化の伝統とも共存し,いわゆる12世紀ルネサンスの一大中心地ともなった。続くシュタウフェン朝の[フリードリヒ2世]は,ドイツ国王とシチリア国王を兼ねる神聖ローマ皇帝としてパレルモに居を定め,その宮廷は国際文化交流の場として地中海文明の中心地ともなった。みずからも詩作をするフリードリヒ2世の宮廷からは〈[シチリア派]〉の詩人と呼ばれるイタリア俗語詩の優れた作家が輩出した。…
【フリードリヒ伝説】より
…神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世および1世にまつわる伝説。どのような社会にも危機に際してかつての黄金時代へ回帰しようとする願望が生まれるが,ヨーロッパ中世にも13世紀半ばころに[ヨアキム・デ・フローリス]の世界の終末についての預言によって最後の皇帝への願望が生まれていた。…
【メッツォジョルノ】より
…[イタリア]【堺 憲一】
【文学】
メッツォジョルノが文学史に登場するのは,ラテン語から派生して,民衆語として各地域でばらばらに発達したイタリア語を,イタリア全土に共通する言語にまで洗練する必要が強く意識されるようになった13世紀初めであった。この時期に神聖ローマ皇帝に即位したフェデリコ(フリードリヒ)2世は,ギリシア語原典をラテン語に翻訳させるなどの文化政策を推進したため,イタリア各地やプロバンス地方からも多くの知識人がその宮廷に集まり,ここに[シチリア派]と呼ばれる一群の詩人たちが登場した。この詩派の最大の功績は,それまで単なる民衆口語にすぎなかったイタリア語を詩の言葉として洗練したことであり,ダンテは《俗語論》のなかで,彼らをイタリア語による文学の出発点として位置づけている。…
【メルフィ法典】より
…神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(1194‐1250)が1231年に南イタリアのメルフィで制定した[シチリア王国]の勅法集成。《皇帝の書Liber Augustalis》とも呼ばれる。…
【山】より
…山には王や英雄ばかりか軍勢まで死後にすんでいるという伝説が西ヨーロッパに多い。ドイツのハルツ山地にあるキュフホイザーKyffhäuserにはフリードリヒ2世(のち1世赤髭王に結びつけられる)が座ったまま待機していて祖国存亡の時がくると兵を率いて駆けつけるという([フリードリヒ伝説])。死者が山にすむという信仰から,山はまた小人や妖怪,悪魔,幽霊が寄り集まる所ともされた。…
【ランデスヘルシャフト】より
… ランデスヘルシャフトの形成過程はきわめて複雑であって,なんらかの要素(例えば[グラーフ]権力や[グルントヘルシャフト])にその基礎を一元的に求めた旧学説と異なり,今日では,多様な諸権利を束ねて一つの実力的支配=保護権力を築いてゆく聖俗諸侯の政治的努力の過程が重要視されている。それは11世紀から12世紀にかけて聖界諸侯領で先進的に成立し,13世紀にはバイエルン,オーストリア,マイセンなど有力な世俗諸侯領において,とくに強力な展開を示したが,皇帝フリードリヒ2世(在位1220‐50)の時代における二つの勅法は,そうしたランデスヘルの地位と権限とを帝国法的に承認したものとして画期的な意義をもっている。【山田 欣吾】。…
【領邦国家】より
…しかし神聖ローマ帝国ないしはドイツ王国を構成しているか否かは,領邦国家という概念の絶対的条件ではなく,皇帝権または王権からの自立度が強く一円的な支配領域を形成する諸侯領は領邦国家といってよく,たとえばドイツ騎士修道会領も領邦国家と呼ばれる。 ドイツで領邦国家ないし領邦君主に相当する語が初めて用いられたのは,皇帝フリードリヒ2世が聖俗諸侯に与えた2法(聖職諸侯1220年,世俗諸侯1231か32年)においてのことで,この2諸侯法はドミヌス・テラエdominus terraeすなわち領邦君主(ランデスヘル)に関税徴収権,鋳貨権,築城権,裁判権などの帝国の重要なレガーリエン(国王大権)を承認している。しかしこれらの諸権利はこの2法によって初めて諸侯に与えられたのではなく,2法は既成事実を承認したものにすぎなかった。…
【ロンバルディア都市同盟】より
…12世紀後半~13世紀前半にドイツ皇帝の強力な支配政策に対抗して北イタリアの主要都市が2回結成した大同盟。(1)第1回 神聖ローマ帝国を再建し,イタリアの繁栄する新興諸都市から権力と富を引き出そうと考えたフリードリヒ1世は,1158年イタリア支配を明らかにした[ロンカリア立法]を制定し,63年北イタリアの雄ミラノを征服し,実際に支配を確立したかにみえた。しかし,これに対抗してミラノを助ける同盟,すなわち64年ベローナ同盟が,さらに67年クレモナとポンティダの両都市代表者会議でロンバルディア諸都市の同盟が結成された。…
【医薬分業】より
…しかし医薬分業の制度がヨーロッパ全域に広がるのには長い年月を要した。一般には,1230‐40年,フリードリヒ2世Friedrich II(1194‐1250)がナポリ王国に調剤術と医術を分離した医薬分業制度を発令したのが公の医薬分業の制度のはじまりであるとされている。この制度が成立した基盤を考えてみると,医療の歴史を画する,ギリシア,ローマ,アラビアの各時代を経て医薬品の種類,剤形が増大し,医・薬の兼学が困難となり,また医師としては薬の調製という,いわゆる手仕事はふさわしい仕事ではないとするエリート意識から,薬の調製を調剤師にまかせるようになった。…
【音楽の捧げもの】より
…BWV1080)と並んで対位法技術の最高峰を示している。全13曲は同じ主題とその変形に基づいているが,この印象的な主題は1747年5月,バッハがポツダムを訪れたおりにプロイセン国王フリードリヒ2世(大王)が与えたもので(〈王の主題〉),そのときバッハは3声のリチェルカーレを即興演奏したと伝えられる。残りの部分はライプチヒに帰ってから作曲・印刷し,同年7月7日付けでフリードリヒ2世に献呈した。…
【騎兵】より
…しかし,ピストルの発明に着目して軽騎兵をピストルとサーベルで武装したスウェーデン王グスタブ2世によって,騎兵は歩兵,砲兵と並んで戦闘3兵種として復活した。グスタブ2世の騎兵運用は砲兵,歩兵によって組織戦闘力を崩したのち敵の側方から襲撃をかけて勝利を決定するもので,プロイセンのフリードリヒ2世はさらに騎兵に小型砲を装備させて,いわゆる横隊三兵戦術を完成し,騎兵の襲撃を多用した。 近代に入ると,ナポレオンは諸兵種連合の師団を創設したが,騎兵は師団内において3兵種の一つとして活躍した。…
【軍楽隊】より
… 18~19世紀,各国は軍事力の拡張に伴い,軍楽隊はその重要性を増すこととなった。近代軍楽隊の整備に最も熱心だったのは,フリードリヒ2世(大王)のプロイセンで,ウィープレヒトWilhelm Friedrich Wieprecht(1802‐72)は軍楽隊長として代表的存在である。また長い歴史をもつ軍楽隊として有名なフランスの〈ギャルド・レピュブリケーヌLa Musique de la Garde Républicaine〉は1848年の二月革命のときにパリ防衛のために組織された国民軍のバンドとして誕生した。…
【啓蒙絶対主義】より
…この時代フランスを中心に展開した啓蒙思想を,君主自身が〈上からの近代化〉のために採り入れ,官僚行政の拡充を通じて,さまざまの改革を試みたもの。これを代表する君主には,[フリードリヒ2世](大王),[ヨーゼフ2世]などがあり,初期の[エカチェリナ2世]もそれに含められる。 啓蒙絶対主義の思想的源流のひとつは,フランスの重農主義者が唱えた〈合法的専制主義despotisme légal〉に見いだされるが,その意味するところは,君主を啓蒙して〈自然の理法〉を信奉せしめ,独裁権力による立法活動を通じて,伝統的な諸特権を排除することにより,この自然法則を社会に貫徹させることにあった。…
【サンスーシ宮殿】より
…ポツダムにあるドイツの代表的なロココ宮殿。〈サンスーシ〉はフランス語で〈気苦労なし〉の意で,[フリードリヒ2世](大王)が命名した。大王自らの構想に基づき,[クノーベルスドルフ]が設計した別荘建築である。…
【徴税請負】より
…また,民間の資本形成の遅れたプロイセンは,その先進的・効率的な官僚機構を利して長く請負制を避けていた。[フリードリヒ2世](大王)は七年戦争を機にこの制度を導入し,フランス人の請負人に関税,消費税などの徴収をゆだねて税収を一挙に増大させた。しかし,徴税吏の過酷な徴収に対する反発が高まり,住民は彼らを〈吸血鬼〉と呼んで流血の衝突も続発した。…
【プロイセン】より
…
[騎士修道会国家プロイセン]
プロイセン人は固有の部族宗教を奉じ,10世紀の末プラハ司教アダルベルトがこの地に布教を試みて殉教したのをはじめ,その後ポーランド王による一時的な支配とキリスト教化の努力にもかかわらず,13世紀初頭まで頑強にその政治的・宗教的な独立性を保った。1126年,ポーランドのマゾビア(マゾフシェ)公が,プロイセン人を服属させるために[ドイツ騎士修道会]を招致すると,皇帝フリードリヒ2世も勅状によってこの企てを是認し,占領地に対する支配権を約束した。騎士修道会は,およそ半世紀に及ぶ激しい戦闘を通じて,83年までにプロイセンの征服をなしとげ,皇帝・教皇の支持のもとで,帝国諸侯のそれに匹敵する強力な領邦主権をこの地にうち立てた。…
【プロイセン一般ラント法】より
…フランス民法典(ナポレオン法典)やオーストリア一般民法典と並ぶ18世紀プロイセンの大法典。1780年フリードリヒ2世(大王)の命により,従来の継受ローマ法([ローマ法の継受])の適用を排し,新たに理性とラントの事情に適合し補充的効力をもつ一般法典をつくる目的で,法典編纂事業が開始された。その推進力となったのは,カルマーJohann Heinrich Casimir Carmer(1720‐1801)やスバレツCarl Gottlieb Svarez(1746‐98)らの啓蒙司法官僚である。…
※「フリードリヒ2世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」