レーテ運動(読み)レーテうんどう(英語表記)Rätebewegung

改訂新版 世界大百科事典 「レーテ運動」の意味・わかりやすい解説

レーテ運動 (レーテうんどう)
Rätebewegung

第1次世界大戦後のドイツ革命において各地で形成された労働者・兵士評議会(労兵レーテArbeiter-und-Soldatenräteを中心に展開された直接民主主義的な大衆運動。平和の実現や旧体制の打破など政治に対する大衆の意志の貫徹をめざし,地方行政・工場・軍隊などにおける第二帝政以来の権威的諸関係の民主化をはかった。この運動の中から議会制民主主義および資本主義にかわる政治・経済体制〈レーテ体制Rätesystem〉の形成も提起され,一部の地域ではレーテが政治権力を掌握する〈レーテ共和国Räterepublik〉が形成された。ほぼ同時代の,ロシア革命におけるソビエトハンガリー革命のタナーチ,イギリスのショップ・スチュアード運動(職場委員),イタリアの工場評議会運動のほか,第2次大戦後のユーゴスラビアにおける労働者自主管理,1956年のハンガリー動乱における労働者評議会との関連が,歴史的条件のちがいを超えて注目される。1960~70年代には,高度産業社会における民主主義の可能性の模索の中であらためて注目された。

19世紀末から20世紀初頭にかけて飛躍的な発展を遂げた工業化・都市化,また帝国主義的発展に伴う軍事力増強のもとで形成された大工場・炭鉱兵営・軍艦群は,多数の労働者や兵士の結集を可能にし,また,そこに形成された権威的・抑圧的な諸関係は,彼らの間に抵抗のエネルギーを蓄積させた。その一方,大規模化した労働者組織(社会民主党労働組合)は,しだいに官僚主義化・体制内化し,第1次大戦の勃発とともに支配体制への協力の政策に転じた。こうして既成の組織を通じる抵抗のルートを大幅に閉ざされた大衆は,山猫ストライキなどの直接行動に訴えるようになる。支配体制の側では大衆の不満をそらそうとして〈労働者委員会〉や〈糧食委員会〉を設けたが,これらもしばしば大衆の抵抗の機関と化した。

レーテ運動は,1918年11月のキール軍港の反乱に始まるドイツ革命の中で全面的な開花を遂げ,地域性・重層性を特質とする。

(1)地域性 各地の労兵レーテは,革命に立ち上がった労働者や兵士の代表機関として形成され,旧権威の崩壊とともに地域における新しい権威を形成した。旧来の行政機関は存続を認められ,レーテは監督権を行使するとともに治安の維持や食糧の確保にあたった。これらの労兵レーテは,それぞれの地域の労働運動の歴史的伝統,また革命の過程でどの党派が主導権をとったかなどによって党派的構成を異にした。大半の地域では,労働者レーテは,社会民主党・労働組合と独立社会民主党とが対等の原則で構成するか,あるいは前者がほぼ単独で支配するかの形をとり,また兵士レーテは,一般に中間層出身の下士官・兵が有力な地位を占め,多く社会民主党の側に立った。こうして大多数の労兵レーテで社会民主党が優位を占めた。これに対して,デュッセルドルフ,ミュールハイム,ハンボルン,ブレーメンなど西・北ドイツの一連の都市やハレを中心とする中部ドイツ鉱工業地帯では,大戦中以来の大衆の行動性と結びつき,これをさらに推し進めようとする革命派(〈革命的オプロイテ〉を中心とする独立社会民主党左派,スパルタクス派(ドイツ共産党),左翼急進派,サンディカリストなど)がレーテ内で優位に立ったが,相互の連繫を確立しえないまま,軍部と結んだ中央政府に各個に押さえ込まれていった。こうした中で,革命の当初から農民レーテBauernräteが形成され,19年4月の〈レーテ共和国〉にも中央農民評議会がいったんは参加したバイエルンの例は,注目される。

(2)重層性 レーテ運動の推進力となった大都市では,一般に工場や兵営がレーテの選出ないし改選の母体とされ,そこから選出された労兵レーテの全体集会でさらに執行評議会が選出されるという構造をとった。また工場の内部では,革命の展開の中で大戦中以来の労働者委員会・職員委員会にかわって経営評議会Betriebsräteが選出され,工場内における労働者・職員の民主化要求の中心的機関となった。炭鉱では,1919年1月のルール地方のストライキで,炭鉱の〈社会化Sozialisierung〉とその第一段階としての〈レーテ組織〉(坑内区レーテから経営レーテ,鉱山地区レーテを経て中央炭鉱レーテに至る)の選出が提起され,4月ストライキでは,こうしたレーテ組織から成る新しい鉱夫組合が闘争の中心となった。また,同月のベルリンにおける金属工業及び銀行業の職員のストライキでは,職員の採用・解雇に関する職員レーテの共同決定権がその主要求項目であった。こうした一連の動きに対して,労働組合は経営レーテをその統制下におこうとし,企業家側は経営レーテによる監督や共同決定権に強く抵抗した。そして社会民主党を中心とする中央政府は,〈社会化は進行している〉と喧伝しつつ(実際には,石炭業の強制シンジケート化と政府による監督にとどまった),軍事力を投入して,各地の運動の抑圧に成功する。こうして,ワイマール憲法の〈経済評議会〉条項,また,レーテ運動を換骨奪胎した1920年の経営評議会法が,レーテ運動の敗北の上に成立するのである。
ドイツ革命 →労働者管理
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のレーテ運動の言及

【主体性】より

…したがって,西欧マルクス主義の革命モデルは,集合的主体性の確立過程が同時に個人的主体性をも確立させるものであり,前者の努力を欠くと,個人的主体性はそれ自体虚偽意識にすぎないブルジョア的個性にとどまるという論理構成をとっていた。評議会運動(レーテ運動)敗北後の歴史は,彼らの主張の正しさを示してきている。 同様の論理の道筋を解放運動のなかで提示したのが,1960年代アメリカにおける黒人解放運動である。…

※「レーテ運動」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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