ドイツ第二帝制(ドイツ帝国)を崩壊させ,ワイマール共和国の成立で一応の終結をみた革命。ドイツ十一月革命,また〈1918-19年のドイツ革命〉とも呼ばれる。ただし最近では,第1次大戦中から戦後にかけての大衆行動の発展に注目して,大戦期からワイマール共和国が一応の安定をみた20年ないし23,24年までを通して考えることが多い。
1914年8月,第1次大戦が勃発すると,ドイツでは,戒厳状態が布告される一方,〈防衛戦争〉遂行のための一致協力の体制として〈城内平和Burgfriede〉が成立した。それまで第二帝制と敵対関係にあったドイツ社会民主党も,戦争予算に協賛し戦争体制の一翼を構成した。その重要な推進力となったのは,戦時のストライキ中止を打ち出したレギーンら労働組合指導部であった。しかし,ルール重工業界やユンカーなど第二帝制の支配層を中心に領土拡大の動きが高まる一方,戦争の長期化のもとで食糧不足とインフレが進むと,労働者の間に〈城内平和〉への不満がしだいに高まり,各地でストライキや婦人を中心とした食糧騒動が起きるようになった。社会民主党内に開戦当初から存在した〈帝国主義戦争〉反対派もしだいに勢力を強め,戦争支持派による抑圧と排除に抗して,17年4月,ついにドイツ独立社会民主党を結成した。同党は,ハーゼ,カウツキーら平和主義的な党指導部から,ローザ・ルクセンブルク,カール・リープクネヒトを中心とする反戦革命派のスパルタクス派まで,さまざまな流れから構成されていた。
ロシアに革命が勃発したこの1917年は,ドイツでも大衆行動が大戦下最初の高揚を見せた年となった。4月のベルリンの軍需工場を中心に食糧配給の削減に反対して起こったストライキでその中心となったのは,旋盤工R.ミュラーの周囲に結集した金属労働組合の工場代表者・職場委員たちから成る,独立社会民主党系の革命的オプロイテrevolutionäre Obleuteであった。続いて夏には,水兵たちの間に,同党とも一定の関連をもちつつ,各艦の糧食委員会を中心として,平和と待遇の改善を求める運動が広がった。さらに翌18年1月には,ドイツ側の強硬態度によるソビエト・ロシアとの講和交渉の難航に抗議し,無併合・無償金の平和を求める全国的なストライキが,オーストリアに続いて勃発した。しかしこうした一連の大衆行動は,軍による弾圧や一定の待遇改善によって収束され,戦争体制を大きく揺るがすには至らなかった。
ブレスト・リトフスク条約による対ソビエト・ロシア講和後,ドイツ軍が総力を結集した西部戦線での大攻勢が失敗に終わり,敗戦が決定的になると,1918年10月,当時国政の中枢にあった軍部の要請により,社会民主党を含む中道諸党を基盤としたマックス・フォン・バーデン公Max Prinz von Baden(1867-1929)内閣が成立した。新内閣は,議会主義君主制の方向で〈上からの改革〉を進める一方,アメリカ大統領ウィルソンに講和の申出を行った。講和交渉が難航する間,海軍司令部が出撃命令を下すと,水兵はこれを拒否,11月4日にはキール軍港の水兵が弾圧に抗して反乱に立ち上がった。反乱は,戦争に疲れ平和を強く求めていた労働者・兵士の呼応するところとなり,急速に各地に波及,労働者・兵士評議会(労兵レーテ)が革命の機関として各地に誕生した(レーテ運動)。7日バイエルン王国の首都ミュンヘンで独立社会民主党のアイスナーの指導のもとに革命が勃発,9日にはベルリンで革命が起こり皇帝ウィルヘルム2世は退位,ここに第二帝制は崩壊した。ベルリンで革命の中心となったのは,革命的オプロイテ,スパルタクス派等の反戦諸派で,労働者評議会の議長には前者のミュラーが選出された。これに対して,エーベルト,シャイデマンら社会民主党指導部は,下からの革命の動きを抑え切れないと見てとると,同党と労働組合の組織力に支えられつつ,〈共和国〉と〈団結〉を合言葉に,兵士の支持をも得て主導権を握り,両社会民主党の連立政権(エーベルト,ハーゼを中心とする〈人民委員評議会〉)を成立させた。
労働者・兵士の革命に直面して,軍部は,社会民主党と結んでこれを抑えようとし(11月10日のエーベルト=グレーナー協定),産業界は,労働組合と結んで資本主義体制の維持と経済政策への発言権の確保をはかった(11月15日のシュティンネス=レギーン協定)。このシュティンネス=レギーン協定(中央労働共同体協定Zentralarbeitsgemeinschaftともよばれる)では,労働組合が初めて対等の交渉相手として認められ,また8時間労働日が承認された。しかしルール地方では,戦争中,産軍一体のきびしい弾圧体制のもとで酷使されてきた炭鉱労働者が,労働時間のいっそうの短縮と賃上げを求めて,各炭鉱の従業員集会・従業員委員会を中心にストライキ運動を展開した。大衆の〈直接行動〉を唱えてその先頭に立ったサンディカリストは,炭鉱労働者の間でしだいに勢力を広げた。他方,軍部は,休戦協定にのっとって帰国してくる前線部隊に期待をかけ,これに依拠して労兵レーテを圧殺しようとはかった。また,ブルジョア諸政党は,内部で再編成を遂げつつ,普通選挙にもとづく憲法制定国民議会選挙を要求し,革命から疎外されていた中間層の支持を集めつつあった。
こうした緊迫した空気の中で,12月中旬,ベルリンで全国労兵レーテ大会が開催された。大会では社会民主党が過半数を占め,革命的オプロイテやスパルタクスブント(スパルタクス派が改称)の主張する〈レーテ体制〉を退けて,国民議会選挙の早期実施を決定した。しかし大会は同時に,社会民主党指導部の意向に反して,軍隊の民主化と石炭業等の社会化Sozialisierungを求める決議を採択し,労働者・兵士大衆が旧体制の社会的基盤の根本的改革を求めていることを明らかにした。これに対して軍部は,クリスマスにベルリンでおきた人民海兵団事件の武力制圧に失敗すると,社会民主党政府(この事件での同党の態度を不満として独立社会民主党は下野)の支持のもとに,反革命派の復員軍人を主体とした義勇軍(フライコールFreikorps)の結成を強力に推し進めた。
翌19年1月,ベルリンの革命派が,同派系の警視総監の罷免を契機にエーベルト政府打倒に立ち上がると,政府は,社会民主党系の労働者を動員する一方,義勇軍を投入してこれを鎮圧した(〈一月蜂起〉)。その中で,前年末スパルタクスブントにブレーメン等の左翼急進派が合流して結成されたドイツ共産党の指導者ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトは虐殺された。2月ワイマールに招集された国民議会は,1月の選挙で38%の得票率を得た社会民主党のエーベルトを共和国大統領に選出,また,同党と自由主義左派の民主党,カトリックの中央党から成る〈ワイマール連合〉政府を成立させた。これに対して,ベルリン,ルール地方をはじめ各地の大都市や工業地帯では,大衆が,反革命への危機感と,根本的改革を進めない政府・社会民主党への幻滅とを強め,労兵レーテによった革命派が勢力を広げた。ミュンヘンでは,2月にアイスナーが反革命派に暗殺されたあとの激動の中で,4月初めアナーキストのランダウアーらによって〈バイエルン・レーテ共和国〉が宣言され,まもなく共産党がその指導権を握った。シャイデマンの率いるワイマール連合政府は,一定の〈社会化〉立法で大衆を分裂させつつ,義勇軍を各地に派遣して各個撃破を進め,5月初めにはバイエルン・レーテ共和国も武力制圧された。そして7月,国民議会は〈ドイツ国憲法〉(〈ワイマール憲法〉)を採択した。
1920年3月,前々月に発効したベルサイユ条約にもとづく兵力削減を契機として,旧軍将校やユンカーを中心とする反共和国勢力が〈カップ一揆〉をおこすと,大統領エーベルトをはじめとする社会民主党閣僚やレギーンの率いる労働組合はゼネストを呼びかけ,労働者はゼネストに立ち上がった。ルール地方や中部ドイツでは,革命派を中心とした労働者が一揆支持の国防軍部隊を武装闘争で圧倒した。しかし一揆が崩壊すると,政府は国防軍を投入してこの〈ルール赤軍〉に流血の弾圧を加えた。次いで21年3月,政府が中部ドイツ鉱工業地帯に保安警察部隊を派遣すると,労働者はストライキと武装闘争に立ち上がった。カップ一揆の際貧しい民衆の支持のもとに義賊的活動をくりひろげたマックス・ヘルツは,労働者部隊の中心的存在となった。前年,共産党から排除された左翼反対派が結成した共産主義労働者党,また,独立社会民主党左派と合同して大衆政党となった共産党の両党は,この〈三月行動〉に主導的に参与し,その敗北により手痛い打撃を受けた。
1923年,賠償問題に発するフランス軍のルール占領とそれへの〈消極的抵抗〉の中でインフレが極度に昂進すると,労働者は8月,共産党系の革命的経営評議会の呼びかけにこたえてゼネストに入り,クーノ政府の退陣をかちとった。産業界をバックとする国民党出身の新首相シュトレーゼマンは,22年末以降閣外にあった社会民主党の入閣でゼネストを収束させ,次いで9月には消極的抵抗を中止するとともに非常事態を宣言して,労働時間の実質的延長を中心とするマルクの安定策を推し進めた。10月ザクセン,チューリンゲンで社共両党が結んで〈労働者政府〉を形成すると,政府は国防軍を派遣してこれを抑えた。コミンテルンの指導のもとに進められた共産党の武装蜂起計画は,孤立したハンブルクでのバリケード戦に終わった(〈ドイツの十月〉)。労働者は,失業が増大する中で抵抗力を失っていった。他方,インフレに苦しむ中間層の支持を集めて躍進したヒトラーのナチ党も,11月,〈ミュンヘン一揆〉の挫折で抑え込まれた。こうして,ワイマール共和国は,ブルジョア政党・産業界のヘゲモニーのもとで社会民主党・労働組合も一定の地位を確保した体制として,翌24年の賠償問題の解決とドイツ経済の安定をはかるドーズ案の国際的な承認を経て,相対的な安定期を迎えることとなる。
執筆者:三宅 立
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1918年11月、ドイツにおいて、皇帝、諸王侯が追われた革命。「十一月革命」ともよばれるが、ドイツ帝国からワイマール共和国に至るこの民主主義革命の性格をめぐる、1950年ごろからの論議のなかで革命的移行期が重視され、「1918~19年のドイツ革命」ととらえられている。移行期の終了時点については見解が分かれるが、一般には19年1月19日の国民議会選挙に一つの画期を認めている。ワイマールに招集された国民議会が、ベルサイユ条約を受諾してドイツの国際的地位を確定するとともに、新憲法を制定して内政上の基礎を据えたからである。
[吉田輝夫]
1918年1月の労働者の大ストライキに示されるように、第一次世界大戦の長期化に伴い、ドイツ国民の犠牲は耐えがたく、平和への期待は強まった。同年8月西部戦線で敗れると、軍部は全面的崩壊を恐れて独裁的支配を譲り、10月、初めて議会に基づくマックス・フォン・バーデン政府が成立し、和平交渉を始めるとともに民主的改革に着手した。だが和平交渉ははかどらず、国民には皇帝ウィルヘルム2世の退位を要求する声が高まった。ドイツ海軍は、このような状況を無視して、イギリス艦隊に決戦を挑もうと、艦隊出撃を命じた。これに対し、水兵たちは「死の出撃」に反抗し、11月4日キール軍港で反乱、労働者と連帯してレーテRäte(評議会の意。「ソビエト」のドイツ語訳)を形成した。この運動はたちまち港湾都市に波及し、内陸部にも拡大した。
1918年11月7日、バイエルン王国の首都ミュンヘンに革命が起こり、王制は打倒され、労兵レーテが権力を掌握した。また、11月9日、ベルリンにゼネストが起こった。マックス・フォン・バーデンは皇帝に退位を求めたが、要領を得ないため、自らの責任で皇帝の退位を宣言し、社会民主党のエーベルトに宰相職を譲った。翌10日、皇帝はオランダに亡命した。11日、連合国との間に休戦条約が調印された。一方、その前日の10日、ベルリン労兵レーテ大会は人民委員政府を承認した。これは社会民主党と独立社会民主党から構成されたが、これを指導したエーベルトは、当面の課題を、秩序の維持、国民生活の保障、国民議会の準備、さらに平和条約の締結に置き、このため軍部、官僚、資本家などの協力を不可欠としたのである。
すでに1918年10月、資本家は革命を予想し、労働組合との接触を始め、11月15日には労資協定を結び、8時間労働日、労働組合の承認など大幅な譲歩をして労働者を体制内につなぎとめようとした。労働者のなかには社会主義の実現を求める声も強く、とくにルールの炭鉱労働者は鉱山業の「社会化」を要求した。だが政府は社会化委員会を設置するにとどまり、12月中旬の全国労兵レーテ大会が即時「社会化」を決議しても、資本主義経済を正常化したうえで「社会化」するとして、熱意を示さなかった。
人民委員政府は最高権力を掌握したが、従来の行政機関に依存し、これまでの官僚を技術的専門家として更迭しなかった。軍部にもボリシェビズムすなわち急進分子を抑圧する役割が与えられた。1918年12月16~20日の全国労兵レーテ大会はいわゆる「ハンブルク項目」を決議し、軍の徹底的解体、「国民軍」の創設などを要求したが、エーベルトはこれを無視しただけでなく、翌19年1月19日の国民議会選挙を決定させ、レーテを圧殺したのである。
[吉田輝夫]
エーベルトが、ドイツ軍国主義の支柱であった反動勢力と同盟したことが判然とすると、独立社会民主党は政府から離脱した。同党左派のスパルタクス団は、政府との対決姿勢を強め、1918年12月末共産党を結成し、翌年1月の選挙ボイコットを決定した。冒険主義者の活動は積極化した。一方、社会民主党のノスケは義勇軍(フライコール)の先頭に立ってベルリンに入った。19年1月15日、共産党の指導者カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクは彼らの手で殺害された。以後、ノスケの軍隊は各地でレーテを押しつぶし、ストライキを鎮圧した。3月、ベルリンのゼネストも義勇軍に抑圧された。5月、ミュンヘンのレーテ共和国は政府軍によって打倒されたが、これはレーテ運動にとどめを刺したといってよい。
このような状況のなかで1919年1月19日国民議会選挙が行われた。比例代表制が採用され、20歳以上の男女有権者の90%弱が投票した。選挙の結果は、第一次世界大戦前の基本的な政党構造が変化していないことを示した。19年2月、ワイマールに国民議会が招集された。大統領にエーベルトが選出され、社会民主党、中央党、民主党による「ワイマール連合」政府が形成された。これら3党はマックス・フォン・バーデン政府の支柱であった。こうしてドイツ革命は、主要局面の幕を閉じる。
[吉田輝夫]
ドイツ革命については、ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)では1950年代、プロレタリア的手段と方法でなされたブルジョア民主主義革命と規定された。ドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)では1950年代、社会民主党にはプロレタリア独裁を志向する勢力との同盟による社会革命か、保守勢力との同盟による議会制共和国かの二者択一しかなかったとされ、エーベルトの保守勢力との同盟が弁護されたが、60年代以後レーテ運動が注目を集め、これと結び付くことで伝統的権力構造は民主化されたのではないか、と論じられた。レーテ運動については、1950年代の東欧諸国で労働者自治との関連で再検討され、60年代から70年代には西欧の新左翼が直接民主主義の可能性を模索するなかで、レーテ運動が改めて注目された。1980年代末から90年代にかけて、冷戦が終わり、ソ連・東欧の社会主義国の政権が崩壊すると、それまで研究を主導してきたマルクス主義の側でも、暗黙の前提とされたロシア革命を基準とする見方がくずれ、革命での女性の役割、大衆の意識の問題などにも視野が広げられ、自由な研究がみられるようになった。
[吉田輝夫]
『A・ローゼンベルク著、足利末男訳『ヴァイマル共和国成立史』(1969・みすず書房)』▽『野村修編『ドイツ革命』(1974・平凡社)』▽『クララ・ツェトキン著、栗原佑訳『カールとローザ――ドイツ革命の断章』(1975・大月書店)』▽『セバスティアーン・ハフナー著、山田義顕訳『裏切られたドイツ革命――ヒトラー前夜』(1989・平凡社)』▽『林健太郎著『ドイツ革命史』(1990・山川出版社)』
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ドイツ帝国から,ヴァイマル共和国への移行をもたらした1918~19年の民主主義革命。第一次世界大戦の長期化に伴い,独裁権を掌握していた軍部も,西部戦線での敗退を機に譲歩を余儀なくされ,18年10月には議会にもとづく政府が成立して,上からの民主化に着手した。しかし,11月初めのキール軍港の水兵反乱に始まる蜂起がベルリンに及び,11月10日,人民委員政府の樹立をみた。革命の急進化を嫌う社会民主党は,社会主義革命を指向するスパルタクス団,独立社会民主党左派などの革命派との主導権争いで,旧勢力と妥協,19年の一月闘争では革命派を武力弾圧,国際条件にも助けられて政権を確保した。6月,ヴァイマルに国民議会が召集され,共和政のもとで資本主義の再編成が行われていくことになった。
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…18年12月,スパルタクスブントが独立社会民主党から分離すると,両者は12月31日合同してドイツ共産党を創設した。 ルクセンブルクら指導部はドイツ革命の長期的過程を想定していたが,党員の多くは当時の革命状況を過大評価し,国民議会選挙不参加を決定,19年前半の各地の蜂起に加わった。共産党は小勢力であったが,政府・ブルジョア層は革命の進展を阻止する観点から,あらゆる蜂起やゼネストをスパルタクスの名と結びつけ厳しく弾圧,19年1月にルクセンブルク,リープクネヒトが,3月にはヨギヘスLeo Jogiches(1867‐1919)が反革命軍に殺害され,党は有能な指導者を失った。…
※「ドイツ革命」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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