ドイツ革命(読み)どいつかくめい(英語表記)Deutsche Revolution ドイツ語

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ドイツ革命」の意味・わかりやすい解説

ドイツ革命
どいつかくめい
Deutsche Revolution ドイツ語

1918年11月、ドイツにおいて、皇帝、諸王侯が追われた革命。「十一月革命」ともよばれるが、ドイツ帝国からワイマール共和国に至るこの民主主義革命の性格をめぐる、1950年ごろからの論議のなかで革命的移行期が重視され、「1918~19年のドイツ革命」ととらえられている。移行期の終了時点については見解が分かれるが、一般には19年1月19日の国民議会選挙に一つの画期を認めている。ワイマールに招集された国民議会が、ベルサイユ条約を受諾してドイツの国際的地位を確定するとともに、新憲法を制定して内政上の基礎を据えたからである。

[吉田輝夫]

経過

1918年1月の労働者の大ストライキに示されるように、第一次世界大戦の長期化に伴い、ドイツ国民の犠牲は耐えがたく、平和への期待は強まった。同年8月西部戦線で敗れると、軍部は全面的崩壊を恐れて独裁的支配を譲り、10月、初めて議会に基づくマックスフォンバーデン政府が成立し、和平交渉を始めるとともに民主的改革に着手した。だが和平交渉ははかどらず、国民には皇帝ウィルヘルム2世の退位を要求する声が高まった。ドイツ海軍は、このような状況を無視して、イギリス艦隊に決戦を挑もうと、艦隊出撃を命じた。これに対し、水兵たちは「死の出撃」に反抗し、11月4日キール軍港で反乱、労働者と連帯してレーテRäte(評議会の意。「ソビエト」のドイツ語訳)を形成した。この運動はたちまち港湾都市に波及し、内陸部にも拡大した。

 1918年11月7日、バイエルン王国の首都ミュンヘンに革命が起こり、王制は打倒され、労兵レーテが権力を掌握した。また、11月9日、ベルリンゼネストが起こった。マックス・フォン・バーデンは皇帝に退位を求めたが、要領を得ないため、自らの責任で皇帝の退位を宣言し、社会民主党エーベルトに宰相職を譲った。翌10日、皇帝はオランダに亡命した。11日、連合国との間に休戦条約が調印された。一方、その前日の10日、ベルリン労兵レーテ大会は人民委員政府を承認した。これは社会民主党と独立社会民主党から構成されたが、これを指導したエーベルトは、当面の課題を、秩序の維持、国民生活の保障、国民議会の準備、さらに平和条約の締結に置き、このため軍部、官僚、資本家などの協力を不可欠としたのである。

 すでに1918年10月、資本家は革命を予想し、労働組合との接触を始め、11月15日には労資協定を結び、8時間労働日、労働組合の承認など大幅な譲歩をして労働者を体制内につなぎとめようとした。労働者のなかには社会主義の実現を求める声も強く、とくにルールの炭鉱労働者は鉱山業の「社会化」を要求した。だが政府は社会化委員会を設置するにとどまり、12月中旬の全国労兵レーテ大会が即時「社会化」を決議しても、資本主義経済を正常化したうえで「社会化」するとして、熱意を示さなかった。

 人民委員政府は最高権力を掌握したが、従来の行政機関に依存し、これまでの官僚を技術的専門家として更迭しなかった。軍部にもボリシェビズムすなわち急進分子を抑圧する役割が与えられた。1918年12月16~20日の全国労兵レーテ大会はいわゆる「ハンブルク項目」を決議し、軍の徹底的解体、「国民軍」の創設などを要求したが、エーベルトはこれを無視しただけでなく、翌19年1月19日の国民議会選挙を決定させ、レーテを圧殺したのである。

[吉田輝夫]

終息

エーベルトが、ドイツ軍国主義の支柱であった反動勢力と同盟したことが判然とすると、独立社会民主党は政府から離脱した。同党左派のスパルタクス団は、政府との対決姿勢を強め、1918年12月末共産党を結成し、翌年1月の選挙ボイコットを決定した。冒険主義者の活動は積極化した。一方、社会民主党のノスケは義勇軍(フライコール)の先頭に立ってベルリンに入った。19年1月15日、共産党の指導者カールリープクネヒトローザルクセンブルクは彼らの手で殺害された。以後、ノスケの軍隊は各地でレーテを押しつぶし、ストライキを鎮圧した。3月、ベルリンのゼネストも義勇軍に抑圧された。5月、ミュンヘンのレーテ共和国は政府軍によって打倒されたが、これはレーテ運動にとどめを刺したといってよい。

 このような状況のなかで1919年1月19日国民議会選挙が行われた。比例代表制が採用され、20歳以上の男女有権者の90%弱が投票した。選挙の結果は、第一次世界大戦前の基本的な政党構造が変化していないことを示した。19年2月、ワイマールに国民議会が招集された。大統領にエーベルトが選出され、社会民主党、中央党、民主党による「ワイマール連合」政府が形成された。これら3党はマックス・フォン・バーデン政府の支柱であった。こうしてドイツ革命は、主要局面の幕を閉じる。

[吉田輝夫]

革命の規定

ドイツ革命については、ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)では1950年代、プロレタリア的手段と方法でなされたブルジョア民主主義革命と規定された。ドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)では1950年代、社会民主党にはプロレタリア独裁を志向する勢力との同盟による社会革命か、保守勢力との同盟による議会制共和国かの二者択一しかなかったとされ、エーベルトの保守勢力との同盟が弁護されたが、60年代以後レーテ運動が注目を集め、これと結び付くことで伝統的権力構造は民主化されたのではないか、と論じられた。レーテ運動については、1950年代の東欧諸国で労働者自治との関連で再検討され、60年代から70年代には西欧の新左翼が直接民主主義の可能性を模索するなかで、レーテ運動が改めて注目された。1980年代末から90年代にかけて、冷戦が終わり、ソ連・東欧の社会主義国の政権が崩壊すると、それまで研究を主導してきたマルクス主義の側でも、暗黙の前提とされたロシア革命を基準とする見方がくずれ、革命での女性の役割、大衆の意識の問題などにも視野が広げられ、自由な研究がみられるようになった。

[吉田輝夫]

『A・ローゼンベルク著、足利末男訳『ヴァイマル共和国成立史』(1969・みすず書房)』『野村修編『ドイツ革命』(1974・平凡社)』『クララ・ツェトキン著、栗原佑訳『カールとローザ――ドイツ革命の断章』(1975・大月書店)』『セバスティアーン・ハフナー著、山田義顕訳『裏切られたドイツ革命――ヒトラー前夜』(1989・平凡社)』『林健太郎著『ドイツ革命史』(1990・山川出版社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ドイツ革命」の意味・わかりやすい解説

ドイツ革命
ドイツかくめい
November Revolution

第1次世界大戦末期にドイツで発生し,帝政を倒した革命。 11月革命ともいう。戦場での敗北と経済の麻痺の結果,1918年 11月3日のキール軍港における水兵の反乱を発端に特にドイツの都市に革命が広がり,各地に労兵評議会が誕生した。 11月7日のミュンヘンの革命は9日にベルリンのゼネストに波及し,軍隊の一部も革命側に転じ,社会民主党の P.シャイデマンが共和国宣言を行なった。同月 10日にウィルヘルム2世はオランダに亡命,政権をとった社会民主党中心の人民代表委員会は,11日に連合国と休戦協定を結んだ。しかし社会民主党指導部は,旧軍部の力をかり,スパルタクス団などの反乱を鎮圧した。 19年1月 19日の選挙によりワイマール共和国政権が誕生した。

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