日本大百科全書(ニッポニカ) 「モスクワ遠征」の意味・わかりやすい解説
モスクワ遠征
もすくわえんせい
1812年にナポレオン1世が行ったロシアに対する遠征。ロシア遠征ともいう。ナポレオンは、1806年11月のベルリン勅令で大陸封鎖を宣言し、翌年のティルジット条約によってロシアにも協力を約させたが、穀物輸出国であるロシアがこれに従わなかったため、12年、64万の大軍を率いてロシアに攻め込んだ。兵力の半分はポーランド、オーストリア、ドイツ、イタリア、スペイン等の同盟国軍であった。ロシア側は、スウェーデン、イギリス、スペインと同盟を結ぶ一方、バルクライ・デ・トーリ将軍麾下(きか)の第一西部軍(12万7000)、バグラチオン将軍の第二軍(4万5000~4万8000)、トルマソフ将軍の第三軍(4万3000~4万6000)など約23万をもって防衛にあたった。同年6月24日、ネマン川を越えたナポレオン軍は、ビルノ、スモレンスクを経て進撃し、総司令官クトゥーゾフ将軍の率いるロシア軍と9月7日ボロジノで交戦、多大の損害を出しながらも、9月14日モスクワに入城した。
だが、ナポレオンの和平交渉の呼びかけはアレクサンドル1世によって無視され、またモスクワが原因不明の大火で炎上して糧食が乏しくなったのみならず、冬も間近に迫ったので、ナポレオンは10月19日モスクワ撤退に踏み切った。退却は、ロシア軍の追撃と農民のゲリラ攻撃により悲惨を極め、ネマン川を越えて逃げ帰ることのできたのはわずか2万5000人にすぎなかったという。捕虜10万を含めて55万人がこの遠征で失われたともいわれる。遠征は、2年後のナポレオン没落の遠因となった。
[栗生沢猛夫]