グルジア(英語表記)Gruziya

デジタル大辞泉 「グルジア」の意味・読み・例文・類語

グルジア(Gruziya)

ジョージア

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精選版 日本国語大辞典 「グルジア」の意味・読み・例文・類語

グルジア

  1. ( Gruzija )[ 異表記 ] グルジヤ カフカス(コーカサス)山脈の南側にある国。西は黒海に面する。首都トビリシ。一九二二年、ザカフカス連邦共和国が成立するまで、モンゴル、トルコ、ペルシアなどの支配、侵略を受けた。三六年ソビエト連邦に加入。九一年独立。マンガン、石炭などの鉱物資源に富み、柑橘類、ブドウなどの生産が多い。スターリンの生地。

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改訂新版 世界大百科事典 「グルジア」の意味・わかりやすい解説

グルジア
Gruziya

基本情報
正式名称=グルジア共和国Sakartvelos Respublikis/Republic of Georgia 
面積=6万9700km2 
人口=(2011)=430万人 
首都=トビリシTbilisi(日本との時差=-4時間) 
主要言語グルジア語(公用語),ロシア語,アルメニア語 
通貨=ラリLari

ヨーロッパ南東部,大カフカス山脈南西斜面と黒海東岸にはさまれた共和国。ソ連邦を構成する共和国の一つであったグルジア社会主義共和国Gruzinskaya SSR(正称はサカルトベロ・ソビエト社会主義共和国Sakartvelos Sabchota Sotsialisturi Respublika)が,1991年4月グルジア共和国として独立回復を宣言した。ソ連邦解体後の93年12月独立国家共同体(CIS)に加盟した。国内にアブハジア自治共和国アジャリア自治共和国南オセティア自治州を含む。国名の〈グルジア〉は,俗に3世紀のキリスト教の聖人ゲオルギウスに由来するとされるが,グルジア人自身は国名をサカルトベロSakartveloと称する。

北は標高4000~5000mの大カフカス山脈がそびえてロシア共和国との境を構成し,東はアゼルバイジャンに接する。南は小カフカス山脈などの複雑な山並みを隔ててアルメニア,トルコにつづき,西は黒海に臨む。カスピ海に向けて南東に流れるクラ川,黒海に注ぐリオニ川の流域は温暖で,クラ川中流のトビリシの月平均気温は1月1.3℃,7月24.6℃,リオニ河口のポチではそれぞれ4℃,22℃である。黒海沿岸では降水量が多く,バトゥーミ地方では年間2400mmを超え,竹林も見られる。しかし国土の中央を南北に走るリヒ山脈に妨げられて,トビリシより東の平地では400mm未満と少なくなり,ステップ地帯が広がる。国内の住民の大半はグルジア人で,総人口の70.1%を占め,他はアルメニア人8.1%,ロシア人6.3%,アゼルバイジャン人5.7%,オセティア人3.0%,ギリシア人1.9%,アブハジア人1.8%,その他3.1%(1989)となっている。

(1)古代 この地域では青銅器時代後期に部族連合の形成が進み,前8世紀にはウラルトゥの碑文にディアオキDiaokhi,コルカKolkhaなどの名が見える。前6~前4世紀には西部にギリシアのアルゴナウタイ伝説の舞台コルキス王国,東部にイベリア王国が建てられ,以後,ギリシア,アケメネス朝ペルシアセレウコス朝ポントス王国,ローマなどの政治的・文化的影響下に発展した。4世紀には,キリスト教化が進み,イベリア王国では,聖女ニノの努力によって国教化された。キリスト教化は,それまでオリエント的神政王権に近かった王権の性格を変えるとともに,建築,美術,哲学,文学などの発展の転機となり,当代一流の哲学者であるイベリア人のペテロ(409-488)のような著名な学者を生んだ。

 しかしキリスト教の採用は,ササン朝の侵入の原因となり,523年に武力併合された。西グルジアのコルヒダは前2世紀に崩壊したが,4世紀にラジカ王国が興って,アルケオ・ポリス(現,ナカラケビ)に都を置いていた。しかし,これも562年ビザンティン帝国に併合された。また,東グルジアは7世紀後半アラブによって征服され,トビリシのアミールの支配を受けた。

(2)バグラト朝の繁栄 政治的独立を目ざす新しい気運を担ったのは南西グルジアで,バグラト家のバグラト3世(在位975-1014)は,国土の大部分を統一し,新王朝を開いた。バグラト朝は大諸侯の離反,ビザンティン,セルジューク朝トルコの侵入と戦いながら王権を保持した。特にダビト4世(建設王。在位1089-1125)は,聖俗の諸侯を抑えて軍制を改革し,セルジューク朝に勝利して12世紀にグルジアを西アジア最強の国家の地位につけた。最盛期はタマラ女王(在位1184-1213)の時代で,領土はザカフカスの全域に及び,国内外に修道院が寄進されて信仰と学術の中心となり,文学ではルスタベリの叙事詩《虎皮の騎士》を生んだ。タマラの死後は,数次にわたってホラズム軍,モンゴル軍の侵入を被って国土は疲弊し,王国も分裂の危機に瀕した。14世紀にはギオルギ5世(光輝王。在位1314-46)が出て,グルジアはモンゴル人の支配から脱した。しかし,まもなく1380年代にティムール帝国の侵入を受けた。このころから王権の分割と大領侯の自立化が進んだので,政治的には国家は解体し,1453年のコンスタンティノープル陥落後は,精神的にも他のキリスト教国から孤立した。

(3)分裂から統一へ オスマン帝国とイランのサファビー朝の対立の時代には,概して東西に二分されて両帝国の勢力圏に編入された。東グルジアでは,たび重なる戦乱と住民の強制移動によって人口は減少し,経済活動も停滞したが,それにもかかわらず1659年には,民衆の大反乱が起こってイラン軍を撃退した。西グルジアでは,住民のイスラム化,トルコ化が進行していたが,奴隷としてカイロ,イスタンブールに売られる者も多かった。

 18世紀はグルジアにとって重要な時期となった。グルジア東部のカルトリ王国カヘティア王国はイランのアフシャール朝に勝利した後,イラクリ2世(在位1762-98)の下で合同し,ここにカルトリ・カヘティア王国が誕生する。その結果,この地域が大きなまとまりを見せるようになり,経済的な発展と相まって,いくつかの都市が出現する。なかでもティフリス(現,トビリシ)は当時すでに2万5000の人口を擁するほどであった。文化面では,1709年印刷所が開かれ,オルベリアニSulkhan-Saba Orbeliani,バグラティオニVakhushti Bagrationi,エグナシビリBeri Egnashviliらの人文主義者の活躍が展開された。
執筆者:(4)ロシアへの併合 18世紀にいたり南下をめざしたロシア帝国は,イラクリ2世の下で興隆したカルトリ・カヘティア王国と1783年ゲオルギエフスク条約を結んで保護国とし,イラン,トルコと対抗した。95年イラン軍が同王国に侵攻,ロシア軍の救援もないまま,首都は陥落,破壊された。1801年アレクサンドル1世の詔書によって,同王国を廃し,東グルジアを直接ロシア帝国に併合した。西グルジアも03年にミグレリア,04年にイメレティ,10年にアブハジアと漸次併合され,露土戦争後の78年のアジャリア併合をもって,ロシア帝国のグルジア制圧は完了した。

 カフカス諸民族に対して徹底した植民地政策に基づく抑圧,ロシア化政策を行ったロシア帝国は,古くからの軍事・政治の要衝ティフリスにカフカス総督府を置き,カフカス支配の拠点とした。41年のグリア蜂起など,併合直後から各地で反植民地蜂起が起こった。64年東グルジア,64-71年西グルジアで農奴解放が行われた。地方経済の中心ティフリス,カスピ海の港バトゥーム(現,バトゥーミ)のほか,1848年に発見されたチアトゥラChiaturaのマンガン鉱山,トキブリTkibuliの炭鉱など,19世紀末各地で産業が発展し,ザカフカス鉄道網の建設も進んだ。

(5)社会主義への道 1892年最初の社会主義グループ〈メサメ・ダシ(第三グループ)〉が結成された。後のザカフカスのメンシェビキ,ボリシェビキの指導的活動家の多くがこの組織から出発した。1902年のバトゥーム・ストライキ,03年のロシア南部のストライキなど労働運動が展開された。05年のロシア革命の際には農民運動も激しく展開され,特にグリア地方の農民蜂起は,地域権力を手中にし,地主の土地を奪い,武装集団を組織するという徹底ぶりで,〈グリア共和国〉と称されたほどである。17年首都の二月革命の後,各都市にソビエトと市執行委員会,社会団体委員会(有産諸団体とソビエト諸団体の連立地方権力)が形成され,臨時政府はカフカス総督府に替えてザカフカス特別委員会をティフリスに置いた。各地のソビエト,その中心のティフリス・ソビエトではジョルダニアNoi N.Zhordaniya(1870-1953)の率いるグルジア・メンシェビキが主導権を握った。革命前からグルジアはメンシェビキの最大拠点の一つとして有名であった。首都ペトログラード(現,サンクト・ペテルブルグ)の十月革命に対してメンシェビキや,アゼルバイジャンのムサーワート,アルメニアのダシナクツチュンなどの民族主義諸派は17年11月,ティフリスにザカフカス委員部を形成,18年2月,ザカフカス・セイム(議会)を開設した。トルコ軍の侵攻下に4月,ザカフカス連邦共和国の独立を宣言したが,列強の干渉の中で内部矛盾を深め,5月には3共和国に分裂,メンシェビキはグルジアの独立を宣言した。グルジアはドイツと協定を結び,ドイツ軍が進駐した。12月にはこれに代わってイギリス軍が進駐した。西ヨーロッパの社会民主主義勢力は,権力に就いた唯一のメンシェビキとしてグルジアに共感を寄せた。アゼルバイジャン,アルメニアのソビエト化の後,最後に残ったグルジアでは,21年2月,ロリの民衆蜂起を機に同月25日,赤軍第11軍がティフリスに入城,ソビエト権力の樹立を宣言し,グルジア・ソビエト社会主義共和国が形成された。

 22年3月アゼルバイジャン,アルメニアとともにザカフカス連邦的同盟,12月にザカフカス連邦共和国を形成し,12月30日にはロシア,ウクライナ,白ロシア(現,ベラルーシ),ザカフカスの4ヵ国でソビエト連邦を形成した。しかしそれは書記長スターリン,赤軍とロシア共産党カフカス局の指導者オルジョニキーゼ(共にグルジア出身)の中央集権化に対して,共和国の自立性を求めたグルジア共産党のマハラゼFilipp I.Makharadze(1868-1941),ムジバニBudu Mdivani(1877-1937)らの激しい抵抗を排して強行されたものであった。晩年のレーニンはこれを知り,官僚主義的中央集権制に基づく大国主義的抑圧として,スターリンらを厳しく批判した。しかし,この〈グルジア問題〉は,反対派を〈民族主義的偏向〉として切り捨てたスターリン派の勝利をもって終わった。スターリン体制下で〈ムジバニ=オクジャワ裁判〉(1936)などで,土着の活動家が〈民族主義的偏向〉の名の下に大量に粛清された。1936年憲法でザカフカス連邦共和国は廃止され,グルジアとして独立のソ連邦構成共和国となった。

1970年代からのペレストロイカ,独立へ 72年中央からの批判で党第一書記が失脚,後任のE.A.シェワルナゼの中央統制強化・民族主義批判の締付けに対し,民族の自立性を求める広範な抵抗の動きが高まり,78年グルジア語の〈国語〉規定を削除した共和国新憲法草案が大規模な抗議デモの前に撤回された。シェワルナゼは路線転換し,民族的要求への配慮・経済改革を打ち出し,85年グルジアの改革派としてゴルバチョフに抜擢され,ソ連外相となる。70年代から80年代初めのグルジア等の自立的な動きは,ペレストロイカに先立つ重要な要因となった。〈グルジア問題〉の歴史の見直しは諸民族の関係の見直し要求と結び付き,中央集権的な国家構造を問うものとなった。

 89年4月トビリシ事件(独立回復要求集会へのソ連軍の弾圧)がグルジア社会の転換点となり,11月最高会議は21年ソビエト化をロシアによる〈占領と事実上の併合〉とする報告を承認した。諸民族の運動が噴出すると〈大きくない共和国に三つの自治(アブハジアアジャリアの各自治共和国,南オセティア自治州)を抱える〉グルジアは歴史的な負の遺産の重圧にさらされた。アブハジア,南オセティア(〈北オセティア[共和国]〉の項目参照)の共和国昇格・分離要求をめぐる緊張は武装対立にエスカレートし,事態は独立をとなえるグルジア(90年3月独立交渉開始宣言)と連邦中央,ロシアとの対立と絡み合って展開した。10月最高会議選挙でZ.ガムサフルディアが率いる〈円卓会議〉派(民族諸組織の連合)が大勝し,11月最高会議議長に就いた。91年3月国民投票は独立を圧倒的に支持,4月最高会議は独立回復を宣言,ガムサフルディアを大統領に選出した。連邦中央は軍事的圧力を加えたが,5月ソ連内で初の大統領直接選挙でガムサフルディアが圧勝した。夏以降〈円卓会議〉派が分裂,共産党から最高会議選挙ボイコット派民族諸組織までの反大統領派が形成された。反大統領派の軍事クーデタで92年1月ガムサフルディアが追われ,3月反大統領派はシェワルナゼを元首にかついだ。

 大統領派の反攻,アブハジア独立運動の活発化で,西グルジアは三つ巴の内戦となった。アブハジアで敗れ,大統領派との内戦が激化すると,93年秋シェワルナゼはロシアとの提携に転じ,独立国家共同体加盟に踏み切った(正式加盟12月)。年末ガムサフルディアが死亡し,同派の武装抵抗は封じ込められた。94年2月ロシア軍駐留,軍事協力を含むロシア・グルジア友好善隣協力条約が調印された。7月国連安保理はグルジアへのロシア軍の展開を平和維持軍として認めた。95年11月大統領選挙でシェワルナゼが当選した。グルジア社会には,ロシアの軍門に下って南オセティアに続いてアブハジアも失ったという敗北感は深く,シェワルナゼ路線への批判も強い。経済問題,アブハジアからの難民問題も深刻である。

農業生産高は1980年に1940年比で4倍に達し,93年には国内総生産の86.9%を占める。西グルジアの黒海沿岸,リオニ川流域を中心とする茶,ミカンなどのかんきつ類,果物,亜熱帯作物,タバコの栽培と,東グルジアのクラ川流域,および山間部を中心とするブドウ栽培が特徴的である。畜産(牛,羊),養蚕も行われる。工業生産高は80年に1940年比で16倍,1913年比で166倍で,93年には鉱工業等が国内総生産の約12%を占める。グルジアは,チアトゥラのマンガン鉱,トキブリ炭田など,鉱物資源に富む。水力資源も豊富で,ザカフカス最大のイングリ水力発電所がある。重工業は金属,機械工業が主で,合金,鋼管,電気機関車,トラック,工作機械,電気製品などが生産される。国内外で名高い茶,ブドウ酒を筆頭として,果物,生糸,タバコなどの軽工業,食品加工業も発展している。黒海沿岸,カフカス山系は,観光ばかりではなく,気候療法(亜熱帯気候),鉱泉療法の療養地,保養地としても旧ソ連邦屈指であり,内陸部のバクリアニ,ボルジョミ,ツハルトゥボ,黒海沿岸のガグラ,ノーブイ・アフォン,ピツンダ,スフミなどが名高い。

 また,トビリシは,文化,学術の面で,旧ソ連邦有数の中心都市である。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「グルジア」の解説

グルジア
Gruziya

ロシア,トルコ,アルメニアアゼルバイジャンに囲まれた南カフカースの国。西に黒海,北に大カフカース山脈を望む。紀元前にコルキス王国とカルトリ王国が成立し,4世紀から6世紀にかけてキリスト教化した。ローマ,サーサーン朝ウマイヤ朝の支配をへて,10世紀にビザンツ帝国アッバース朝からバグラト朝が独立して全土を統一,11世紀一時セルジューク朝の支配を受けたのち,12~13世紀にかけて最盛期を迎えた。しかしモンゴル帝国ティムール帝国などの支配を受けて国力が衰え,オスマン帝国サファヴィー朝などに分割統治されたのち,19世紀の初めロシアに併合された。ロシア革命後短期の独立期をへて,ソ連に編入されたが,1992年独立した。

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百科事典マイペディア 「グルジア」の意味・わかりやすい解説

グルジア

ジョージア

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「グルジア」の意味・わかりやすい解説

グルジア
ぐるじあ

ジョージア

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「グルジア」の意味・わかりやすい解説

グルジア

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世界大百科事典(旧版)内のグルジアの言及

【ソビエト文学】より

… 各民族文学はきわめて多様な成立過程,特色をもっており,ロシア文学と匹敵する,ないしはそれ以上の歴史をもつ文学が多い。これらの文学の主要なものは,(1)東スラブ語系(ウクライナ,白ロシア)文学,(2)バルト3国の文学,(3)カフカス地方(アルメニア,グルジアなど)の文学,(4)チュルク語系・イスラム系諸民族の文学である。
[東スラブ語系文学]
 古代ロシアの首都キエフは1240年モンゴル軍に攻略されて以来衰微し,今日のウクライナ,白ロシア(現ベラルーシ)に当たる地方は14世紀になって,リトアニア・ポーランド連合の支配下に入った。…

※「グルジア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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