ワッハーブ王国(その他表記)Wahhāb

山川 世界史小辞典 改訂新版 「ワッハーブ王国」の解説

ワッハーブ王国(ワッハーブおうこく)
Wahhāb

1744頃~1818,1823~89

サウード家の政治軍事力とムハンマド・ブン・アブドゥルワッハーブイスラーム純化運動が合体してできたアラビア半島における一種の宗教国家。厳格な唯一神信仰を特徴とし,スーフィズムなど「不純な」要素を破壊しつつ勢力を拡大した。19世紀にはメッカメディナを占領したが,ムハンマド・アリー軍に敗れる。第1次・第2次サウード王朝とも呼ばれ,のちのサウジアラビア王国に連なる。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ワッハーブ王国」の解説

ワッハーブ王国
ワッハーブおうこく
Wahhāb

1744ごろ〜1818,1823〜89
サウード家と結んでワッハーブ派が建てた王国
イスラームの聖地メッカを占領し,アラビア半島の大半を支配した。オスマン皇帝の要請を受けたエジプトムハンマドアリーによって一時滅亡(1818)したが,その後イギリスに支持されて復活。現サウジアラビア王国の母体となった。

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世界大百科事典(旧版)内のワッハーブ王国の言及

【アラビア半島】より

…ワッハーブの教えはベドウィン戦士の士気を奮い立たせ,昔ながらのベドウィン同士の戦いはジハードとして意義づけられた。1765年にムハンマド・ブン・サウードMuḥammad b.Sa‘ūdの没したとき,半島の中・東部の大部分はサウード家の支配に帰しており,それはサウード王国,またはワッハーブ王国とよばれる。19世紀の初めワッハーブ王国はイラクのシーア派の聖地カルバラーを襲い,メッカとメディナを占領した。…

【イエメン】より

…ナポレオンのエジプト遠征後,インド洋航路の中継地としてのイエメンの重要さに注目したイギリスは,1799年にペリム島(のち撤退),1839年にアデンを占領,54年にクリア・ムリア島,57年にペリム島の割譲を受け,68年から88年にかけてアデンの後背地を買収し,以上を一括してアデン植民地(1937年に直轄植民地)にするとともに,その東方の群小首長国とソコトラ島とを保護領(アデン保護領)にした。 アラビア半島のナジュドに興ったワッハーブ王国は,1804年にヒジャーズを併せ,翌05年にティハーマに進出した。オスマン帝国スルタンの命を受けたエジプトのムハンマド・アリーはこれに介入し,第1次ワッハーブ王国は18年に滅んだ。…

【ワッハーブ派】より

…故郷で迫害された彼は,ナジュドのダルイーヤに拠るムハンマド・ブン・サウードMuḥammad b.Sa‘ūd(?‐1765)の勢力拡大運動と結ぶこととなり,その結果,この運動はサウード家の政治的消長と軌を一にしつつ,アラビア半島に展開した。サウード家の支配はワッハーブ王国と呼ばれることもある。それは,19世紀初め,イラクのカルバラーを急襲し,メッカ,メディナを占領したが,オスマン帝国の命を受けたムハンマド・アリーの討伐軍によって滅ぼされた。…

※「ワッハーブ王国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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