日本大百科全書(ニッポニカ) 「ングーギ」の意味・わかりやすい解説
ングーギ
んぐーぎ
Ngugi wa Thiong'o
(1938― )
ケニア、キクユ・ランド出身の小説家、評論家。当初はジェームズ・ングーギの名で作品を発表し、1970年代に現在のアフリカ名に改名した(グギと表記することもある)。ウガンダのマケレレ大学在学中に大学の文芸誌『ペン・ポイント』の編集に加わり、自作を発表する一方、『泣くな、わが子よ』(1964)と『川を隔てて』(1965)を執筆した。同大学卒業後、イギリスのリーズ大学に留学し、F・ファノンをはじめとするカリブ海域文芸作品とマルクス主義関連書の読書に没頭しながら、マウマウ団主導のケニア独立闘争の過程でみられたキクユ内部の背信と恥部を描いた代表作『一粒の麦』(1967)を完成した。67年に帰国してナイロビ大学で教職につき、文芸誌『ズカ』を創刊した。69年から各1年間マケレレ大学とノースウェスタン大学で教え、71年にナイロビ大学に復職。おりからのベトナム戦争の影響もあって、アメリカ帝国主義反対の立場から、ネオ・コロニアリズム(新植民地主義)批判の大作『血の花弁』(1977)を出版して、買弁化したケニア政府に攻撃を加えた。同時に郷里リムルで民衆との共同製作によるキクユ語(ギクユ語)の上演劇『したい時に結婚します』(1977)を上演する実験劇場活動に乗り出した。これが政府を刺激して上演禁止処分を受け、1977年12月に身柄を拘束され、政治犯として刑務所に収監された。78年末に釈放されたが、この間の記録は『拘禁されて』(1981)に詳しい。同じネオ・コロニアリズム批判のキクユ語による最初の小説『十字架上の悪魔』(1982)は、投獄中に看守の目を盗んで便所紙に書き残した作品である。その後1982年にロンドンに渡り、イギリスとアメリカで亡命生活を送り、エール大学とニューヨーク大学で教えた。そのほか、小説に『マテイガリ』(1987)、短編集に『秘めやかな生活』(1975)、劇作品に『黒い隠者』(1962)、M・ムゴとの共作『デダン・キマチの裁判』(1976)、評論集に『帰郷』(1972)、『政治の中の作家』(1981)、『精神の非植民地化』(1986)、『中心を動く』(1993)、『ペン先・銃先、そして夢』(1998)がある。また1982年には、初めて児童向け物語『偉大なる戦士と羽根の生えたバス』を出版した。1981年(昭和56)秋に来日、「私は孤立していない」という名句をはいて、日本の反体制文学運動家に感動を与えた。
[土屋 哲]
『小林信次郎訳『一粒の麦――独立の陰に埋もれた無名の戦士たち』(1981・サンワ企画)』▽『宮本正興訳『作家グギ・ワ・ジオンゴの思想と実践』(1985・第三書館)』▽『宮本正興訳『精神の非植民地化――アフリカのことばと文学のために』(1987・第三書館)』