翻訳|Asian Games
第二次世界大戦後、アジア諸国の友好と平和促進を目的として生まれたスポーツ大会。戦前の「極東選手権競技大会」と「西アジア競技会」が母体である。当時国際オリンピック委員会(IOC)委員であったソンディーGuru Dutt Sondhi(インド。1890―1966)の発案で、1949年にアジア競技連盟(AGF)が設立された。1986年からは、1982年に正式に設立されたアジア・オリンピック評議会(OCA)が大会を主催し、競技はIOC協賛のもと、すべてオリンピック精神に即して行われる。「Ever Onward(限りない前進)」をモットーに、大会メインスタジアムにはアジア競技大会旗と並んで、オリンピックの五輪旗も掲げられる。五輪旗は、この大会がオリンピック地域大会としての性格をもつことを示している。当初は夏季大会のみが開催されたが、1982年の第9回ニュー・デリー大会(インド)後に、日本オリンピック委員会(JOC)がOCAに冬季大会の開催を提唱し、1986年(昭和61)に札幌で第1回の冬季大会が開催された。OCA加盟数は2020年の時点で45か国・地域である。
[深川長郎・中西利夫 2021年1月21日]
第1回大会は1951年にニュー・デリーで開催。アフガニスタン、ミャンマー(当時ビルマ)、インド、フィリピン、スリランカ(当時セイロン)、インドネシア、ネパール、タイ、シンガポール、イラン、日本の11か国、約500人の選手、役員が参加。陸上、水泳、サッカー、バスケットボール、ウエイトリフティング、自転車の6競技が行われた。第2回大会は1954年フィリピンのマニラで開かれ、以後4年に1回、オリンピックの中間年開催と決まった。第3回大会は、オリンピック招致を意図していた東京で開催され、1958年に20か国が参加し、新装の国立競技場を中心に、13競技が展開された。1962年の第4回ジャカルタ大会は、主催国インドネシアが政治的、宗教的理由から台湾(現在はチャイニーズ・タイペイ=中華台北の名のもとに加盟)とイスラエルの参加を拒否したことから紛糾した。IOCは参加資格がある国が参加できない大会は正式な大会として認めることはできないと表明し、国際陸上競技連盟(現在のワールドアスレティックス〈世界陸連〉)と国際ウエイトリフティング連盟が同調。ウエイトリフティングは競技が中止となり、IOCも開催国に資格停止処分を宣した。しかし、インドネシアは翌1963年11月、別にガネフォ(GANEFO、新興国競技大会)を結成して、アジア大会に対抗する大会を開催したが、スカルノ大統領の失脚などによりガネフォは消滅、インドネシアはIOC復権が認められ、アジアのスポーツ界は安定を取り戻した。
第5回(1966)はタイのバンコクで平穏裏に開催。第6回(1970)はソウル開催を決定していたが、韓国の国内事情により返上、ふたたびバンコクで開催された。第7回(1974)はイランのテヘランで開かれ、この大会では1958年以来国際スポーツ界から遠ざかっていた中国の初参加が注目を浴びた。参加選手も25か国約2700人に膨れ上がった。アジア大会といえば日本のひとり舞台の感があったが、この大会では、初参加中国と地元イラン勢の活躍が目だち話題となった。第8回(1978)はシンガポール開催に決定後、同国の財政上の理由で返上、パキスタンのイスラマバードが引き受けたあと、これも国内事情から返上、結局、参加国が分担金負担ということで、三たびバンコクで開催された。第9回(1982)はニュー・デリーで行われ、金メダル獲得数で第1回からトップだった日本は、中国に次ぐ2位に落ち、以降は中国が「アジアの盟主」に君臨した。
第10回(1986)のソウルは、2年後にオリンピック開催を控えた韓国がメダル総数で1位。陸上男子ハンマー投げでは室伏重信(むろふししげのぶ)(1945― )が第6回大会から5連覇を達成した。この大会からOCAの主催となったが、競技数はさらに増え続け、肥大化の一途をたどることになる。第11回(1990)は北京(ペキン)で開かれ、イラクが湾岸戦争の影響でOCAから資格停止で不参加、台湾が中華台北の名称で第6回大会以来、20年ぶりに復帰した。第12回(1994)は初めて首都以外の広島で開催され、カザフスタンなど旧ソ連の5か国が初参加。第13回(1998)はバンコクで四度目の開催となり、陸上男子では伊東浩司(いとうこうじ)(1970― )が100メートル準決勝でアジア新記録の10秒00を記録するなど短距離三冠を獲得した。第14回(2002)は韓国の釜山(プサン)で開催され、開会式では韓国と北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が、2000年シドニー・オリンピックに続いて南北合同行進。競泳男子200メートル平泳ぎ決勝では北島康介が2分9秒97の世界新記録で優勝した。
第15回(2006)はアラブ諸国で初めてとなるカタールのドーハで行われ、資格停止処分を受けていたイラクが20年ぶりに復帰。第16回(2010)は中国の広州(こうしゅう)で開催され、オリンピックを上回る史上最多の42競技476種目を実施、中国が過去最多の金メダル199個を獲得した。第17回(2014)は韓国の仁川(じんせん)で簡素・効率化をテーマに前回より4減の38競技に圧縮して開催。第18回は開催年をオリンピックの中間年から1年前に移行してベトナムのハノイで予定されていたが、政府の財政難で返上。インドネシアが大統領選の関係で2018年に前倒しで引き受け、初めてジャカルタとパレンバンの2都市開催となった。競泳女子では池江璃花子(いけえりかこ)(2000― )が6冠に輝いた。
第19回(2022)は中国の杭州(こうしゅう)、第20回(2026)は愛知県と名古屋市の共催で開かれる。
[深川長郎・中西利夫 2021年1月21日]
第1回大会は1986年に札幌で開催。中国、北朝鮮、香港(ホンコン)、インド、韓国、モンゴル、日本の7か国・地域から選手約290人と役員約140人が参加し、スキー(アルペン、クロスカントリー)、スケート(スピード、フィギュア)、アイスホッケー、バイアスロンの4競技とデモンストレーションのスキー・ラージヒルジャンプが実施された。第2回(1990)はインドの開催返上で、ふたたび札幌で開催。第3回は、オリンピックの冬季大会と夏季大会の分離で冬季リレハンメル大会(ノルウェー)が1994年に変更されたため、冬季アジア大会は1年遅らせたが、北朝鮮の開催返上により、1996年に中国のハルビンで開かれた。第4回(1999)は韓国の江原道(こうげんどう)、第5回(2003)は青森でカーリングを加えた5競技が実施された。第6回(2007)は中国の長春(ちょうしゅん)、第7回(2011)はカザフスタンのアスタナとアルマトイで開かれたが、その後は競技施設の整った都市が少なく、開催地選定に難航。ようやく6年後の2017年に第8回が三度目となる札幌で開催(スピードスケートは帯広(おびひろ)で実施)され、ゲスト参加のオーストラリア、ニュージーランドを含めて最多32か国・地域から1164選手が参加した。第9回(2021)の開催地は未定。
メダル争いは第1回(札幌)こそ、日本が4競技35種目中、金29個、銀23個、銅6個を獲得して他国を大きく引き離したが、アジア諸国も急速に力をつけ、韓国での第4回(中国が1位)を除いては、開催国が金メダル数、メダル総数ともに1位。日本は5競技64種目が行われた第8回(札幌)では金27個、銀21個、銅26個で過去最多のメダル74個を獲得した。
[中西利夫 2021年1月21日]
アジア地域の総合スポーツ大会。原則として4年に1回,オリンピックの中間年に開催するIOC(国際オリンピック委員会)公認の地域競技会である。第9回大会(1982,インド)までは,アジア競技連盟Asian Games Federation(AGF)が主催したが,1982年末からAGFはアジア・オリンピック評議会Olympic Council of Asia(OCA)主催と改組された。第2次世界大戦前のアジアのスポーツ大会としては,極東選手権競技大会と西アジア競技大会の二つがあったが,戦後これを統合して全アジア的な大会を開こうとの動きがインド,フィリピンを中心に起こり,1948年ロンドンのオリンピックに参加したアジア諸国の話合いで結成が決まった。日本は,51年ニューデリーでの第1回大会にあたってインドの主張によって参加が認められた。第1回大会参加の11ヵ国は東南アジア中心だったが,回を重ねるごとに中東の各国も参加,中国も第7回大会(1974,テヘラン)から参加し,アジア大会は名実ともにアジア全域にまたがる大会に発展した。さらにその後,ソ連邦の崩壊によって中央アジアのカザフスタン,ウズベキスタン,キルギスタン,タジキスタン,トルクメニスタンの5ヵ国が新たにOCAに入り,加盟国は44ヵ国に増えた。これによって,初めて首都以外で開いた94年の第12回広島大会では参加42ヵ国,34競技,337種目とすべての面で史上最大の規模となった。実施競技もカバディ,セパタクロー,テコンドー,武術太極拳などアジア特有の種目も含まれるようになっており,地域色も出た大会となっている。しかし同時に,政治,宗教などの問題がからみ,紛争にまき込まれることも多くなった。
アジア大会にからむ政治問題の根底には,つねに,(1)中国-台湾,(2)アラブ-イスラエル,(3)韓国-北朝鮮という三つの対立図式があった。1962年の第4回大会(ジャカルタ)で,インドネシア政府は台湾とイスラエルに参加招請状を送らなかったが,これは中国あるいはアラブ諸国に義理立てした一種の代理排斥運動といえよう。しかし,石油戦略で裕福となったバーレーン,イラク,クウェートなどのアラブ諸国が続々とAGFに新加盟,連盟内での発言力を強大なものとするに及び様相が一変した。74年の第7回テヘラン大会で,中国が初参加,台湾がAGFから追放されたのも,アラブ諸国のバックアップが大きかったといえる。78年の第8回バンコク大会でも,アラブ諸国はAGF負担の開催資金のうち8割を援助して,さらに発言力を増大させ,AGFは,同大会および82年の第9回ニューデリー大会には〈警備上の理由〉でイスラエルを招待しないと決定した。こうしてアラブ主導型となったアジア大会は,82年末AGFをOCAと改組,以後イスラエルをアジア大会のメンバーから外し,欧州ゾーンに押し込むことに成功した。
また,1986年韓国のソウルで行われた第10回大会では,朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との対立の中,開幕直前に金浦(きんぽ)空港で爆弾テロ事件が起きた。さらに90年,中国の北京で開かれた第11回大会では,大会前イラク軍がクウェートに侵攻する湾岸戦争が起こり,OCAは投票でイラクを大会から締め出すことを決定するなど,大会はつねにアジアの政治情勢を色濃く反映している。なお,北京大会で台湾は〈中華台北〉の呼称で20年ぶりにアジア大会に復帰,〈二つの中国問題〉も一応の雪解けを見せた。
日本は,58年の第3回大会(東京),94年の第12回大会(広島)と2度大会を開催したほか,第1回大会から欠かさず大会に参加し,第8回大会までは金メダルの総数でつねにトップを占めアジアのリーダー的立場にあった。しかし,中国が初参加した第7回大会以降は独占的な強さは発揮できず,第9回ニューデリー大会ではついに中国に王座を明け渡し,続くソウルでの第10回大会では地元韓国にも抜かれて3位となった。その後も中国が首位で,2位を韓国と日本が激しく争う状況が続いている。98年の第13回大会はバンコク,2002年の第14回大会は韓国・釜山,06年の第15回大会はカタールのドーハで開かれた。10年の第16回大会は中国の広州で開催の予定。
なお,1986年からは冬季大会も始まり,第1回,第2回(1990)とも札幌,第3回は96年に中国のハルビン,第4回は99年に韓国のカンウォン,第5回は2003年に日本の青森,第6回は中国の長春で開かれた。第7回はカザフスタンのアルマトイでの開催が決まっている。
執筆者:加藤 博夫
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(真田久 筑波大学准教授 / 2008年)
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アジア地域各国のオリンピック委員会が組織するアジア競技連盟(1948結成)が主催する競技会。前身は1913年(大正2)から34年(昭和9)まで10回行われた極東選手権大会(日本も参加),34年の西アジア競技大会,40年の東亜競技大会(日本が主催)。第1回は51年(ニューデリー),54年の第2回以後は4年ごとに開催。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…IOCは,ヒトラー政府のユダヤ人迫害に抗議し,ベルリンで大会を開催する条件として,オリンピックに参加する選手,役員からユダヤ人を差別しないという誓約をヒトラー政府よりとりつけ,大会期間中,会場の内外で政治的な演説や政治的な標語の掲示を禁止した。62年,ジャカルタ(インドネシア)で,IOC協賛のアジア競技大会が開催されたとき,インドネシアのスカルノ政府は,親中国,親アラブの政治路線に従って,台湾とイスラエル選手団の入国を拒否した。IOCは,これを政治的差別として,インドネシアNOCの資格を63年4月まで停止した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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