目次 自然 地形,地質 気候 住民 歴史 マオリ族の移住 イギリス植民地時代 自治領へ 政治,社会 国内政治 外交 社会 経済 文化 文学 その他 基本情報 正式名称 =ニュージーランドNew Zealand 面積 =27万0467km2 人口 (2010)=437万人 首都 =ウェリントンWellington(日本との時差=+3時間) 主要言語 =英語,マオリ語 通貨 =ニュージーランド・ドルNew Zealand Dollar
赤道と南極の中間,南太平洋の南緯34°~47°に位置するイギリス連邦内の自治領。北島(面積11万5777km2 )と南島(15万1215km2 )の2大島,南島の南のスチュアート島,東方のチャタム諸島 などからなり,ポリネシアのクック諸島 ,トケラウ諸島 ,ニウエ島 も含む。温暖な気候に恵まれた牧畜国で,自然保護と高福祉政策を誇る。イギリス系,マオリ,南太平洋諸島からの移住者アイランダーが築く多文化・多言語併存の国である。なお,マオリ語では国名をアオテアロアAotearoaという。 執筆者:百々 佑利子
自然 地形,地質 環太平洋造山帯に属するニュージーランドでは,地形,地質が複雑で,山地,丘陵が大半を占める。南島のサザン・アルプスを中心とする脊梁山脈は,第三紀末から第四紀洪積世にかけて起こったカイコウラ造山運動によって形成されたもので,南島,北島にまたがり,南西~北東方向に走っている。南島では古生層,中生層の古い地質が広く分布し,西部や南部には変成岩が多い。南島南西部およびスチュアート島の変成岩は先カンブリア層である。サザン・アルプス中央部にはこの国の最高峰クック山(3764m)をはじめ高山が連なり,タスマン氷河などの氷河や,多数の氷河湖,氷河地形が発達している。東岸中部には洪積世の氷期の堆積物によって形成されたこの国最大のカンタベリー平野がある。南岸のサウスランド平野も同様の成因によるものである。西岸南部にはフィヨルドが発達し,独特の景観をつくりだしている。南島に比べると北島では一般に第三紀層,第四紀層の丘陵性の地形が卓越しており,サザン・アルプスの延長にあたる中生層の脊梁山脈の標高も高くない。北島の特色は第四紀洪積世の火山活動による火山地形にあり,北島中央部のルアペフ山(2797m。北島最高峰)や富士山に似た形の西部のエグモント山(2518m)などが知られている。中央部のタウポ湖(面積606km2 はこの国最大)からロトルア湖にかけて火山台地が広がり,間欠泉,温泉があり,地熱利用が進んでいる。北西にのびる半島部の西岸には,溺れ谷による湾入と,偏西風による砂州の発達で形成された直線的な海岸線との組合せがみられる。
気候 ニュージーランドの気候は偏西風の影響を強く受ける西岸海洋性気候である。大洋に孤立し,大陸の影響を受けないので,気温の年較差は小さく,おおむね10℃内外にとどまる。南北の緯度差による気温の地域差も日本に比べてはるかに小さく,夏は6℃程度,冬は8℃程度である。したがって標高による影響を別にして人口の大半が住む海岸地帯に限れば,夏の日最高気温が25℃を超えたり冬の日最低気温が氷点下となることは少ない。降水量の季節差も小さく,年間を通じて降雨があるが,地形の影響による地域差がみられる。とくに南島では西岸の降水量がきわめて多く,場所により年7000mmを超えるのに対して,東岸では年600mm以下にすぎず,東西の差が著しい。 執筆者:谷内 達
住民 全人口の75%がイギリス人を主とするヨーロッパ系で占められる。ポリネシア系の先住民マオリ族 は約40万人である。マオリは東ポリネシアの島(伝説ではハワイキ)からニュージーランドへ大航海をしてきて,シダの根やサツマイモや魚や鳥を食べ,木彫と歌舞と戦闘に秀でた石器時代の無文字民族だった。ヨーロッパ人渡来後,彼らとの土地戦争で一時期人口が大幅に減ったが,現在は人口の3/4が30歳以下という若い民族である。先祖と父祖の地を愛し,自然に宿る神々をたたえる伝統を今も失っていない。そのほか同じくポリネシア系で南太平洋諸島からの移住者アイランダーが約10万人いる。住民の75%が北島に住み,8割が南・北両島の都市部に集中している。
言語はヨーロッパ系,マオリともに発音,語彙が独特のニュージーランド英語を使う。1974年にマオリ語も公用語と認められ,2言語習得者が増えている。宗教は大部分がキリスト教で,アングリカン・チャーチ,長老派教会,カトリック,メソディスト派が四大教会である。マオリはキリスト教と固有信仰を矛盾なく両立させている。 執筆者:百々 佑利子
歴史 マオリ族の移住 17世紀中ごろ,欧米人に〈発見〉される以前に南・北両島に住んでいたポリネシア系住民マオリ族は,2回に分かれて東ポリネシア(現在のフランス領ポリネシアの諸島)から移住したと推定されている。初期の移住者はモア・ハンターと後世呼ばれ,8世紀ごろカヌーや漂流によって,ニュージーランドに住みついた。モア はポリネシア語で〈家禽(かきん)〉を意味し,南・北両島の草原にいた,翼がなく人間の背丈と同じくらいの大きな鳥で,当時のマオリは石器を使う狩猟・漁労民族だった。後期の大移住Great Migrationは13~14世紀ごろで,双胴のカヌー船団で熱帯ポリネシアからタロイモ,ヤムイモ,サツマイモといった栽培作物をもち込み,モア絶滅後は小鳥,魚貝類を採って暮らした。居住地域は南緯44°の南島カンタベリー地方にも広がった。マオリは精巧な細工の石斧,骨の釣針のほか,木彫芸術にすぐれ,戦闘用カヌー,精巧な飾りをつけた集会所,さらに緑岩石(ヒスイの一種)による装身具,彫刻の文様でも高い芸術的才能をみせた。
マオリはしだいに部族を形成し,土地は重要な財産として部族に所属した。部族は首長と平民,奴隷からなり,高位の首長が支配権を握った。部族間の戦争が多く,負けた部族は奴隷になった。ポリネシアに共通のマラエと呼ばれる聖地あるいは集会場が村落生活の中心で,戦争ではパpaという砦に戦士がたてこもった。首長も兼ねた聖職者は,さまざまのタプtapu(禁忌)を定め,法律や警察の役割を果たした。マオリは文字をもたず,口伝で歴史を伝え,自分たちの国をアオテアロアAotearoa(長くて白い雲の地)と呼んだ。
オランダ東インド会社から南方の新大陸を探すよう派遣されたタスマン は1642年に南島を〈発見〉し,故国オランダのゼーラント州にちなんでニーウ(新)・ゼーラント(この英訳がニュージーランド)と命名した。しかしタスマンが島には金銀などがないと判断したため,1769-70年にイギリスのJ.クックが到来して南・北両島を測量するまでこの地を訪れるヨーロッパ人はなかった。19世紀に入ると,隣のオーストラリア植民地からやってきたアザラシや鯨捕りがニュージーランドを基地として利用するようになった。彼らはマオリと衝突し,食人の習慣があったマオリに殺されることもあった。1814年には会衆派教会系のロンドン伝道協会のマーズデンSamuel Marsden(1764-1838)によるキリスト教の布教活動が始まったが,当時はマオリの人口,文化がヨーロッパ人のそれをしのいだ〈マオリ支配〉の時代であった。北島北端近くのアイランズ湾Bay of Islandsが交易の中心地となり,イギリス,フランス,アメリカの捕鯨船や商船が出入りした。イギリスではニュージーランドをオーストラリア植民地の一部にするか,新しい移住先にするか両論あったが,38年にニュージーランド会社が設立され,40年1月に最初の移民が現在の首都ウェリントン付近に着いた。
イギリス植民地時代 1840年2月6日,アイランズ湾岸ワイタンギでイギリス駐在官ホブソンWilliam Hobson(1790-1842)と,マオリの首長約50人との間でワイタンギ条約 が結ばれた。この条約によってマオリは主権をビクトリア女王に譲り,女王にのみ土地の購入権を与えた。一方,イギリスはマオリの土地,森林,漁場,資産の所有権を保障し,マオリにイギリス人としての権利を与えた。同年5月イギリスはニュージーランドの併合を宣言し,総督となったホブソンはオークランドを首都とした。なおワイタンギ条約締結日は,いま〈建国の日〉になっている。
52年にヨーロッパ人に選挙権(マオリ男性の選挙権獲得は67年)が与えられ,ニュージーランド自治議会が54年に開会した。同時に入植地域ごとの地方議会もできた。当時のヨーロッパ系人口は約3万2500人,マオリ系は20万人前後と推定される。マオリ系は,パケハpakeha(白人たち)が伝来の土地を農場や牧場に変えていくのに反発,北島ワイカト地区の大首長を58年〈マオリ王〉に選び,部族連合で白人の土地買収に歯止めをかけようとした。60年北島南部のタラナキで首長キンギWiremu Kingi(1795-1882)以下のマオリ戦士1500人と,イギリス軍,植民地軍,志願兵3000人が土地売買をめぐって衝突し,これをきっかけにマオリ戦争 が北島全域に広がった。戦闘は72年まで散発的に続き,マオリ王は81年までもちこたえた。
一方,南島では1861年にオタゴOtago地方で,さらにウェストランド地方でも金が発見され,オーストラリアからの金捜し移住者も加わって,オタゴ地方のダニーディンの人口は一気に5倍も増えて6万人になった。金は以後数年の間,ニュージーランドの主要輸出品目となった。この間,65年に主都がオークランドからウェリントンに移された。ロンドン生れのユダヤ系のボーゲルJulius Vogel(1835-99)首相は,蔵相時代の69年から海外での借款を活用して,道路,鉄道,電信網の整備に力をいれ,76年には地方議会を廃止して中央集権化を図った。この間,メリノ種とリンカン種をかけあわせたコリデール種の羊の放牧や小麦栽培も盛んになり,農畜産国の基礎がつくられた。82年には冷凍船が導入され,イギリスへの食肉輸出が飛躍的に増えた。
91年イギリスのフェビアン協会 の思想に通じる自由党が政権をとり,大土地所有者,農村地帯を地盤とする保守党との二大政党制が形成された。労働条件,労災についての使用者責任,労使紛争の調停仲裁機関といった社会改革,世界で初めての婦人の参政権(1893),老齢年金制度の設立(1898)のような先駆的な立法が行われたのは,イギリスの産業革命のひずみを正し,ニュージーランドを理想郷にしようとしたためで,保守党と,その後身の改革党も競うように社会福祉政策をとった。
自治領へ ニュージーランドは,1899年にイギリスの要請で南アフリカのボーア戦争 に派兵したが,しだいに自立気運が高まり,オーストラリアの連邦結成(1901)にも加わらず,1907年に自治領Dominionとなった。第1次大戦ではオーストラリアと連合軍(ANZAC (アンザツク))を形成し,15年にトルコのガリポリ半島上陸作戦で敗れたものの,ニュージーランド国民という意識が確立された。そしてニュージーランドは独自の外交政策をとるようになり,戦後は国際連盟に加盟した。国内では世界恐慌下の35年に,労働党(1916結成)のサビッジMichael Joseph Savage(1872-1940)が初の労働党政権につき,年金制度を充実させ,総合的な医療保険制度をつくった。第2次大戦では第1次大戦と同様に参戦し,アメリカに基地を提供した。
47年にニュージーランド議会はウェストミンスター憲章 の採択法案を承認した。これによってニュージーランドは法的にも完全独立を達成した。第2次大戦後,農産物の輸出が伸び,賃金と物価が安定した。49年に国民党(改革党と統一党が1936年に合併して結成)が労働党から政権を奪い,労働,国民両党の二大政党体制が以後90年代半ばまで続く。労働党のナッシュ内閣(1957-60)によって公共企業体での男女同一賃金制が取り上げられ,国民党のホリオーク内閣(1960-72)は男女賃金平等法(1972制定)を実施するといったように,政権政党が交代しても内政では継続性が保たれた。
1973年にイギリスがヨーロッパ共同体(EC。現,EU)に加盟して後,ニュージーランドの輸出市場はオーストラリア,EU,日本,アメリカと多角的になり,さらにはアジア太平洋経済協力会議(APEC)に加盟する環太平洋諸国への輸出が全輸出の70%を占めるにいたり,ニュージーランドは太平洋国家になった。外交面では84年からの労働党政権時代に,アメリカの原子力艦艇の寄港を拒否して,アメリカ,オーストラリア,ニュージーランド間の相互防衛条約(ANZUS(アンザス)条約 )が一時麻痺したが,90年に政権が保守的な国民党に代わってからは対米協調に戻り,大枠では自由主義国家路線をとっている。南太平洋地域ではサモア,トンガなどポリネシア系諸国への経済協力に力をいれている。
政治,社会 国内政治 イギリス国王を元首とする立憲君主国で,ニュージーランド人の総督(任期5年)が任命される。成文憲法はなく,法律と慣習法に基づいて国権が行使される。1986年の憲法法で国家の立法,行政,司法の役割が定められている。一院制の国会(任期3年)は93年の国民投票によって,従来の小選挙区制から小選挙区比例代表併用制に改められた。有権者は2票をもち,1票は選挙区の候補者に,もう1票は政党に投じる。後者の票は全国的に集計され,各政党の議席数を決める。定員120のうちわけは,小選挙区から60,マオリ選出議席5,政党指名リストから55。この新制度に基づく初の総選挙が96年10月に行われた。結果は国民党44,労働党37,ニュージーランド・ファースト党17,連合党13,消費者納税者同盟(ACT)8,ユナイテッド・ニュージーランド1となり,伝統的な国民,労働両党による二大政党制がやや崩れた。政権は,連立工作が難航したすえに,国民党がニュージーランド・ファースト党と連立して引き続き担当することになった。
80年代後半からの内政の焦点は経済改革で,労働,国民,連立と政権交代があったが,行政改革で小さな政府を目指し,規制緩和と民営化で経済の国際競争力を高めるのに成功した。OECD(経済協力開発機構)の96年年次報告でも,ニュージーランドは行革モデル国として高く評価された。労働党のロンギDavid Lange内閣(1984-89)のダグラスRoger Douglas蔵相が,石油危機後長らく低迷していた経済の再建に取り組み,〈ロジャーノミクス〉と呼ばれたその経済改革は国民党のボルジャーJames Bolger内閣(1990-97)にも引き継がれた。公務員の数は総雇用者数の27%から20%に減り,電気通信,鉄道,森林,郵便貯金,海運などの国有企業体は民営化され,さらに健康保険制度も大幅に手直しされ,農業補助金,輸出補助金が廃止された。自治体数は705から93へ削減され,地方公営企業体も民営化された。一連の改革で経済の競争力は高まったが,福祉・教育面での質の低下が問われ,政局は96年総選挙の結果に表れたようにやや不安定になった。
外交 ニュージーランドは国連の創設メンバーで,1993-94年には安全保障理事会の非常任理事国を務めた。平和維持活動(PKO)に積極的に参加し,湾岸諸国,カンボジア,ソマリア,ボスニアなどに軍を派遣した。またイギリス連邦会議の重要メンバーで,第1次,第2次大戦,朝鮮戦争,ベトナム戦争にも出兵した。1980年代半ば,労働党政権下で非核政策を打ち出し,一時アメリカとの軍事同盟が緊張した。フランスによる南太平洋での地下核実験にも反対し,南太平洋非核化の先頭に立った。オーストラリアとは非核問題で歩調の合わない時期があったが,伝統時に協調関係にあり,83年以来,経済緊密化(CER)協定によって双方の経済の一体化が進んでいる。
国民の約10%がポリネシア系のマオリであり,サモア,トンガからの出稼ぎ,移住者も多く,ポリネシア諸国との経済的,民族的つながりが深い。自治権をもつニウエ島,クック諸島はニュージーランドの経済援助に依存している。南太平洋フォーラム ,太平洋共同体(旧,南太平洋委員会)といった地域協力機関では,オーストラリアとともに先進国として島嶼国のサポート役を務めている。ニュージーランド軍は南太平洋での緊急災害救援や不法操業漁船の監視パトロールで島嶼国を支援している。
アジア太平洋経済協力会議(APEC )が力を得るにつれ,東南アジア諸国からの投資,貿易,移住が増え,政府は〈アジア2000〉プログラムを通して,アジアへの理解と関心を強めようと試みている。90年代に入って香港,台湾などからの移住者が増え,90年代後半になるとニュージーランド・ファースト党がアジア系移住者の規制を唱えはじめた。日本はアジアのなかで最大の貿易相手で,海産物,酪農製品,木材,野菜,ワインといった食料品を日本に供給している。日本からの観光客は年間10万人を超え,ニュージーランド航空が日本との間に週16便を就航させている。 執筆者:青木 公
社会 ニュージーランドがめざしてきたのは〈平等社会〉と〈多文化併存〉の理想実現である。完備した社会保障制度は医療無料化,年金制度の拡大,週40時間労働の法制化(1938)および災害保障法の制定(1972)を含む。住環境は良く,貧富の差は小さい。税金は高いが,高い生活水準が得られる。市民の奉仕活動も盛んで,犯罪も少なく安定した社会といえる。建国後100年以上,パケハ(ヨーロッパ系)社会との融和を図ってきたマオリは,1960年代に入ってから民族意識を強め,異なる文化を同等に尊重しようという気運が盛り上がってきた。マオリ省やワイタンギ審判所とニュージーランド・マオリ評議会(1962設立)ほか民間団体多数が,マオリとパケハ,または南太平洋諸島からの移住者とパケハあるいはマオリとの間で起こる諸問題や民族間の緊張や文化的多様性維持の調整に努めている。
全学校の9割が公立で,1割が教会付属の私立校である。義務教育は6歳から16歳までである。僻地の児童や病欠児童のために国立通信教育校(小・高課程)がある。大学は国立大学7校,農業専門大学2校があり,学生総数は約10万人にのぼる。ほかに技能研修学校,夜間高校,大学付属の校外教育制度がある。マオリは1928年からパケハと同一教育を受けている。74年にはマオリ語教員講座が設置され,マオリ語授業が増えた。 執筆者:百々 佑利子
経済 ニュージーランドは戦後一貫して輸出立国を国是としてきた。食肉,羊毛,酪農品,木材,水産物を輸出し,かわりに自動車,機械などを輸入する典型的な垂直型パターンであった。輸出相手国としては旧宗主国のイギリスに圧倒的に依存してきたが,1973年イギリスがECに加盟したため輸出特権を失い,その前提は根本から覆されることとなった。さらに,その後の2次にわたる石油危機が世界規模のインフレを触発し,ニュージーランド経済は農産物の輸出不振と工業製品の輸入価格高騰という二重の圧力に見舞われ,国際収支は大幅に悪化,また外国からの借款も急増した。政府は,高度経済成長の時代が去ったこと,したがって,こうした状況が長期にわたって持続するとの判断から,国内経済の活性化,構造改革を中心とした抜本的政策転換に踏み切った。それはエネルギー分野へ公共投資を重点的に行い,国内需要を刺激することであった。しかし,この政府の野心的試みはまったくの裏目となり,未曾有の対外債務の増加となって現れた。他の先進国家がハイテク産業への転換でその危機を脱したのに対して,ニュージーランドは依然として重厚長大産業振興と1次産業育成に力を入れたことが遠因であった。国家財政破綻の際まで追いつめられた政府にとって,賃金,金利を含め,全面的な統制経済を導入する以外に当面の解決策は見あたらなかった。
しかし政府は83年以降,再び抜本的改革に手を染める。それは,国全体の仕組みを根底から再編成し,経済立て直しを狙った国家主導による〈市場国家宣言〉とも言うべき一種の静かな革命であった。統制撤廃と行政改革を中心としたその政策は,金利規制の撤廃からニュージーランド・ドルの変動制移行,大型間接税の導入,国営事業の民営化と合理化,政府機構の徹底したスリム化と民間経営原則の導入となって次々と具現化されていった。その成果はたちどころに現れ,大幅な雇用の伸び,高度経済成長,国家財政の黒字,貿易収支の黒字転換となって裏付けられ,ニュージーランドの改革の成果は90年代を象徴する世界的モデルの一つとして喧伝されるまでになった。
しかし長期的展望に立つとき,この改革が万能でないことも明らかである。永年にわたって築いてきた充実した社会保障制度が大幅に後退し,中産階級国家として育まれてきた国民の融和と連帯,および少数先住民族マオリとの共存をいかに図るか,そしてまた外資の大幅導入と移民の取扱いなど,この改革が長期にわたって与える影響・問題についてはなんら検討されることなく,先送りされたままになっている。 執筆者:堀 武昭
文化 文学 ニュージーランド文学の古典は先住民マオリの口承文芸で,創世神話,カヌーによる大航海譚,部族伝説,系譜,祝詞,呪文,詠唱歌,ことわざが伝えられている。19世紀半ばにG.グレー 総督はマオリ族長の手書きの原稿をもとに《父祖の勲》(マオリ語。1854)と《ポリネシア神話》(英語。1855)をロンドンで出版した。初期のマオリのようすを伝える貴重な資料である。マオリ神話と伝説を採話したものにはほかに,テーラーRichard Taylor(1805-73)の《マウイの魚》(1855),ホワイトJohn White(1826-91)の《マオリ古代史》(1887-90)がある。ベストElsdon Best(1856-1931)の《マオリ》(1924)はマオリ民族論,アルパーズAntony Alpers(1919-97)の《マオリ神話》(1964)は思慮深い再話である。文字を獲得したマオリ系研究者の好著も多い。P.H.バック の《偉大なる航海者たち》(1938)と《マオリの渡来》(1949)は歴史的,人類学的にマオリを理解する必読書である。ナタApirana Ngata(1874-1950)の《マオリ詠唱歌集》(1929)は,彼の死後も名語り手フリヌイ・ジョーンズ博士が引き継ぎ,第3集まで刊行中である。シモンズDavid Simmonsの《偉大なニュージーランド神話》(1976)は航海譚,部族伝説,系譜の決定版である。ウィリアムズWilliam Williams(1800-78)の《マオリ語辞典》(1844)は,1975年に言語学者ブルース・ビッグズ博士が見出し語,用例ともに大幅に改訂した第7版を出版した。現在はパケハ(ヨーロッパ系)のマオリ関係図書の誤りをマオリが正す時代になっている。
イギリス植民地時代初期のニュージーランド文学者は異郷意識にさいなまれていた。ニュージーランド生れの女流作家K.マンスフィールド を見習ってヨーロッパへ文学修業に渡った者も多い。大不況後の1930年代にサージソン が登場,労働者階級の生活をニュージーランド英語の話しことばで短編に描き,旧世界からの文学的自立を促すきっかけをつくった。その後,詩と短編小説の分野で創作活動が盛んになった。30年代後半から75年ごろまで息長く新しい国の自然の恵みをうたった代表的な詩人として,グローバーDenis Glover,バクスターJames Baxter,キャンベルAlistar Campbellがいる。ニュージーランドでは詩作は国民的なレベルでの余技になっている。人口が少なく,作家業専門で暮らすことが困難な事情を考慮して,政府は文学基金(1946),図書館が購入する図書に補助金を出す作家助成金制度(1973)の援助をしている。
サージソンに続いた作家たちには,疎外感の多様な分ち合い方を描いたダガンMaurice Duggan(1922-76。代表作《砂利坑の夏》1965),文目(あやめ)も分かぬ夢幻の世界を創ったフレームJanet Frame(1924-2004。代表作《めしいのために香りをつけた庭》1963),新世界人としての存在証明を追求したシャドボールトMaurice Shadbolt(1932-2004。代表作《ニュージーランド人》1959)らがいる。また,近年は民族の血の呼び声に目覚めたマオリ系作家も活躍しており,グレースPatricia Grace(1937- 。代表作《ムツフェヌア,死んだ大地》1980),イヒマエラWiti Ihimaera(1944- 。代表作《タンギ,通夜》1973)がよく知られている。
その他 ポリネシア系民族のなかでマオリの木彫は最も高い水準に達した。彼らは緑石や骨製の道具を使って,集会所の羽目板や棟木に先祖の神格化した像を刻んだ。垂木には自然現象を様式化して描き,赤(神聖な色)・白・黒の彩色を施した。緑石のペンダントや棍棒,亜麻や羽毛で織ったマントや腰みの,族長や神官などの身体中を覆った入墨も伝統芸術である。入墨以外は今も北島のロトルアの美術工芸センターを中心に若い世代へ伝えられている。
島国で孤立した生活を強いられたイギリス系の移住者たちが発達させたもののうち注目すべきは陶芸と織物である。陶芸はバーナード・リーチや日本の陶芸家との接触後,R.モンロー,T.ベーリスら国際的芸術家を生んだ。羊毛産地ゆえ農家には紡ぎ車があり,手織の衣服や敷物は品質の良さで知られている。そのほか点描画のR.ハモン,油絵のD.ベニー,写真家B.ブレークも国際的に活躍している。
子どもが小馬を乗りこなし,ヨットをあやつるほど,野外スポーツは盛んである。世界一,二の強さを誇るラグビーの〈オール・ブラックス〉,エベレスト初登頂のヒラリー がよく知られているほか,ニュージーランドは一流の中・長距離走者も生んでいる。 執筆者:百々 佑利子