アフリカ映画(読み)あふりかえいが

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アフリカ映画」の意味・わかりやすい解説

アフリカ映画
あふりかえいが

アフリカ映画とは、広義にはアフリカ大陸でディアスポラ(祖国から離れた土地に暮らす人々)を含むアフリカ人により製作された映画のことである。たとえば、1969年より続くアフリカ最大の映画祭である「ワガドゥーグー全アフリカ映画祭」Festival panafricain du cinéma et de la télévision de Ouagadougou(略称、FESPACO(フェスパコ))では、アフリカ大陸内部でアフリカ人によって製作された映画は、すべてアフリカ映画だとされる。一方、サハラ砂漠以北のイスラム圏である北アフリカ(エジプト、リビア、チュニジアアルジェリアモロッコなど)で製作されたものをアラブ映画、北アフリカを除くサハラ砂漠以南の地域サブサハラで製作されたものを、ブラックアフリカ映画と分ける見方もある。また近年増えてきている欧米の映画産業がアフリカを舞台に製作する映画は、非アフリカ人監督がアフリカ人俳優を出演させて製作しても、アフリカ映画とはみなさないのが通例である。

[吉田未穂 2018年8月21日]

歴史

アフリカ大陸に映画が紹介されたのは19世紀末までさかのぼるが、「最初のアフリカ映画は」という問いは、しばしばあいまいな答えに行き着く。1924年にチュニジアで製作された『Ain el Ghezelカルタゴの少女)』という短編がアフリカ人による最初の映画ともいわれる。サブサハラ・アフリカに限定すればアフリカ人監督が撮影した初めての映画は、1950年にスーダンのガダラ・グバラGadalla Gubara(1920―2008)によるドキュメンタリーSong of Khartoumハルツームの歌)』、あるいは1951年に『La leçon de Cinéma(映画の授業)』の撮影をした旧ザイール(現、コンゴ民主共和国)のアルバート・モンギタAlbert Mongita(1916―1985)の名をあげる人もいる。また、ベナン生まれセネガル育ちのポラン・スマヌ・ビエラPaulin Soumanou Vieyra(1925―1987)が、1955年にパリで『Afrique sur Seine(セーヌ河畔のアフリカ)』を製作した事実をあげる人もいる。アフリカ大陸に関する歴史がしばしばそうであるように、アフリカ映画の歴史はいまもなおつづられ、編まれる途上にあるといえる。しかし、アフリカ映画というアイデンティティをはっきりともって映画史上に現れた作品は1963年、セネガルのセンベーヌ・ウスマンが、ダカールの貧しい荷車引きを描いた『ボロムサレ』であり、この作品をもってアフリカ映画の始まりが語られることが多い。

 サブサハラ・アフリカで本格的に映画製作が始まったのは、1960年代にアフリカ諸国が次々と独立を果たしてからになる。このアフリカ映画の黎明(れいめい)期を築いたのはセネガル、コートジボワールニジェールなどのフランス語圏西アフリカの国々の映画人たちであった。モスクワで映画製作を学んだセンベーヌなどの海外留学経験者たち、現場で映画作りを学んだニジェールのウマル・ガンダOumarou Ganda(1935―1981)や、セネガルのジブリル・ジオップ・マンベティDjibril Diop Mambéty(1945―1998)などの独学派がいるが、パン・アフリカニズムを思想として共有し、アフリカの民族解放、植民地主義や人種差別との闘いのツールとして映画を位置づけているという特徴がある。

 ほかに、1960年代の代表的な監督と作品には、『La femme au couteau(ナイフを持つ女)』(1969)を製作したコートジボワール出身のバソリ・チミティBassori Timite(1933― )や、アフリカのアニメ映画の父といわれ、『La mort du Gandji(ガンジの死)』(1965)などを製作したニジェールのムスタファ・アラサーンMoustapha Alassane(1942―2015)などがいる。また短編ながら高く評価された作品に、南アフリカ出身のライオネル・ンガカーンLionel Ngakane(1928―2003)による、アパルトヘイト下の南アフリカでの異人種間の友情を描いた『Jemina & Johnny(ジェミナとジョニー)』(1966)がある。

 1970年代に入ると、ポルトガル領独立とともに、サブサハラ・アフリカ各地での映画製作が進み、第一世代と思想を共有しつつも、映画製作者たちの批判的な視線は独立後十数年を経ても植民地主義的構造に甘んじ、一方で権力を貪るアフリカの自国政府へ向けられる。たとえば、政府の農業政策が農村を疲弊させていると異を唱えたサフィ・ファイSafi Faye(1943―2023)、『三千年の収穫』(1976)で農村の封建主義的構造を描いた、エチオピアのハイレ・ゲリマHaile Gerima(1946― )、資本家・家長・軍事政権を批判する三部作を撮った、マリのスレイマン・シセSouleymane Cissé(1940― )らである。また、この時代には、1971年に「全アフリカ映画製作者連盟」Fédération Panafricaine des Cinéastes(略称、FWPACI(フェパシ))が結成され、1973年には、後に「アフリカのカンヌ国際映画祭」とも称される由緒あるフェスパコが軌道に乗り始める。

 ほかにこの時期の代表的な監督と作品には、センベーヌの『エミタイ』(1971)、ガンダによる『一夫多妻のワズウ』(1971)、マンベティによる『トゥキ・ブゥキ ハイエナの旅』(1973)、センベーヌの『チェド』(1977)、シセの『Baara(労働)』(1978)などがある。

 1980年代に入ると、映画製作は東アフリカや独立したジンバブエを含むアフリカ全域へと広がりをみせる。同時に1960年代のアフリカ独立以後に教育を受けた若い世代が映画製作を開始し、その視線は植民地主義批判を超えてアフリカ社会内部の問題へと向かう。たとえば『ヤーバ』(1989)や『掟(おきて)』(1990)で、植民地化以前の農村を舞台に、社会の掟とそれを超えようとする愛を描いた、ブルキナファソのイドリッサ・ウエドラオゴIdrissa Ouedraogo(1954―2018)、亡命後のアイデンティティ・クライシス(自己喪失)を描いたガーナのジョン・アコムフラーJohn Akomfrah(1957― )の『テスタメント』(1988)などがある。また、1987年にはシセの『ひかり』が、サブサハラ・アフリカ映画として初めてカンヌ国際映画祭コンペティションで選出され、国際審査員賞を受賞している。

 ほかにこの時期の代表的な監督と作品には、ナイジェリアのオラ・バログンOla Balogun(1945― )による『Money Power(マネー・パワー)』(1984)、モーリタニアのメド・オンドMed Hondo(1936―2019)による『Sarraounia(女王サラウニア)』(1986)、ギニアビサウのフローラ・ゴメスFlora Gomes(1949― )の『Mortu Nega(モルト・ネガ)』(1988)、コートジボワールのシジリ・バカバSidiki Bakaba(1949― )の『Les Guérisseurs(ゲリセール)』(1988)、センベーヌの『Camp de Thiaroye(チャロエ基地)』(1988)、ガーナのクワオ・アンサーKwaw Ansah(1941― )の『Heritage Africa(わがアフリカの夢)』(1989)などがある。

 1990年代になると、アフリカ諸国の社会構造にさまざまな影響を与えた構造調整計画が、映画産業にとって大きな打撃となって現れた一方、アパルトヘイトの終焉(しゅうえん)を迎えた南アフリカがアフリカ映画界に迎え入れられ、英語圏アフリカ諸国の映画の台頭や国際共同製作の進展など、新しい動きもみえてくる。従来からのテーマに加え、多様化したテーマが入り乱れる時代に入り、たとえば独裁や権力の濫用に対する抵抗を描いたマリのシェイク・ウマール・シソコCheikh Oumar Sissoko(1945― )の『独裁者ギンバ』(1995)や、ブルキナファソのガストン・カボーレGaston Kaboré(1951― )が監督した、少年の冒険譚(たん)を通じてブルキナファソの文化的多様性を語る『ブードヤム』(1997)、コンゴのバルフ・バクパ=カニャイダBalufu Bakupa-Kaniynda(1957― )が寓話(ぐうわ)スタイルでアフリカの独裁者を痛烈に批判した『Le damier(ル・ダミエ)』(1996)、ベルギーに娘を探しにやってきたコンゴの王様を通じてアイデンティティ問題を描いた、コンゴのムエゼ・ンガングーラMwezé Ngangura(1950― )の『Pièces d'identités(身分証明)』(1998)などがある。

 ほかにこの時期の代表的な監督と作品には、カメルーンのジャン=マリ・テノJean-Marie Téno(1954― )による『アフリカ、お前をむしりとる』(1992)、マンベティによる『ハイエナ』(1992)、コートジボワールのロジャー・ニョアン・ムバラRoger Gnoan M'Bala(1943―2023)による『キリストの名のもとに』(1993)などがある。

[吉田未穂 2018年8月21日]

現在の情勢や動向、今後の方向

21世紀に入り、アフリカ映画は大きな変革の過渡期にある。一つには英語圏アフリカ諸国の台頭がある。伝統的にアフリカ映画界においては、植民地時代に由来するフランス政府や公的機関の文化助成政策の影響で、フランス語圏アフリカ諸国の映画が圧倒的な優勢を占める時代が長く続いてきた。しかし、アパルトヘイト政策のため、長らくアフリカ映画界から除外されてきた南アフリカ共和国という大国が、豊富な資金と人材をもって合流し、国際共同製作などが進められている。また欧米のディアスポラを介在してアメリカの映画産業が、若手のアフリカ映画監督の養成・配給支援プログラムを開始するなど、国際的な連携も進んでいる。2005年には、スワジランド(現、エスワティニ)出身のゾラ・マセコZola Maseko(1967― )がアパルトヘイトと闘ったジャーナリストを描いた『Drum(ドラム)』がフェスパコのグランプリに輝き、続く2回のグランプリも、少年兵を題材にしたナイジェリアのニュートン・アドゥアカNewton I. Aduaka(1966― )の『エズラ』(2007)、軍事独裁政権下のエチオピアの絶望と青年の生き様を描いたゲリマの『テザ 慟哭(どうこく)の大地』(2008)と、英語圏作品が続いたことが話題になった。

 一方、もう一つの大きな変化は「ノリウッド」とよばれる、ナイジェリア映画産業の成功である。従来のアフリカ映画は、国際的に高い評価を得て国際映画祭などで上映されたとしても、アフリカでは配給システムが未発達なために、人々が自国の映画にアクセスしにくいという状況が長らく続いてきた。西アフリカの一部で小さく花開いた映画産業も大規模な産業にはなり得ず、アフリカ映画は、庶民の娯楽というよりは文化助成制度に支えられた芸術作品という性格で存在してきたという側面もある。

 しかし、近年の映像製作および配給のデジタル化により、事態は大きく変化している。ハリウッドやインドのボリウッド(ムンバイ(旧、ボンベイ)を中心とした映画産業)に続いて、ナイジェリアの「N」を冠して「ノリウッド」Nollywoodと総称される低予算映画群は、年間製作本数約1000本(2009年、UNESCO)と、製作本数ではハリウッドを超える規模に成長している。いままでは、アフリカ人が製作し配給し消費するというアフリカ映画が、産業として大規模に成立した初めての例であるにもかかわらず、その低予算映画的な作品の質から、従来のアフリカ映画とは一線を画すものと位置づけられてきた。ところが、映画人たちの努力や国をあげた映画産業振興により、近年ではクンレ・アフォラヤンKunle Afolayan(1975― )の『アラロミエ 呪いの女神像』(2009)など、国際映画祭で高く評価される作品も出てきており、質の高さを備えた作品群は「新ノリウッド映画」ともよばれている。作品発表の舞台としても、2005年より「アフリカ映画アカデミー賞」African Movie Academy Awards(略称、AMAA)が開催され、フランス語圏諸国を含むアフリカ各国や海外から700本(2013年時点)の応募がある映画祭へと急成長している。これらナイジェリア映画の影響はアフリカ全域に及び、抱える課題は多いものの、各地で低予算映画が産業として萌芽(ほうが)し始めている。

 またアフリカ大陸全域に広がった映像製作のデジタル化は、欧米の報道では語られないアフリカの物語をアフリカ人の手で語ろうとする若き映画人たちを、各地で技術的に後押しし、ドキュメンタリーを含めた映像作品として、社会問題を世に問う作品製作も盛んになっている。なかでも1994年に80万人におよぶ犠牲者を出したルワンダ大虐殺という悲劇を経験したルワンダからは、エリック・カベラEric Kabera(1970― )によるドキュメンタリー『記憶の守人たち』(2004)や、ハイチのラウル・ペックRaoul Peck(1953― )による『四月の残像』(2005)などが送り出されてきている。

 こうしたデジタル技術が可能にした新しいタイプの映画が興隆する一方、従来のアフリカ映画界も、映画界全体として公的支援を要請したり、新しい配給システムへ挑戦するなど、新しい時代の映画のあり方に沿う道を模索している。

 そのほか、2000年代の代表的な監督と作品には、センベーヌによる『母たちの村』(2004)、モーリタニアのアブデラマン・シサコAbderrahmane Sissako(1961― )の『Heremakono(ヘレマコノ)』(2002)や『バマコ』(2006)、カンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞したチャドのマハマット=サレー・ハルーンMahamat-Saleh Haroun(1961― )の『終わりなき叫び』(2010)、セネガルのアライン・ゴメスAlain Gomis (1972― )による『Tey(今日)』(2012)などがある。

[吉田未穂]

『白石顕二著『アフリカ直射思考』(1985・洋泉社)』『シネマクシオン編『ブラック・アフリカの映画』(1987・彩流社)』『白石顕二著『ポップ・アフリカ』(1989・勁草書房)』『フィルムアート社編集部編『ワールド・シネマ!』(1999・フィルムアート社)』『白石顕二著『アフリカ映画紀行』(2000・柘植書房新社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「アフリカ映画」の意味・わかりやすい解説

アフリカ映画 (アフリカえいが)

アフリカを舞台にした劇映画やアフリカの記録映画(いずれも白人によって撮られたもの)を別にすれば,1960年代に入るまで〈真のアフリカ映画〉は存在しなかった。〈真のアフリカ映画〉とは,〈アフリカ黒人によるアフリカ黒人のためのアフリカ黒人の映画〉(ジャン・ルーシュ),すなわち〈黒人たちだけが脚本を書き,出演し,撮影し,演出し,アフリカ語を話す長編劇映画〉(ジョルジュ・サドゥール)のことである。60年を中心に植民地時代を脱して独立しはじめたアフリカ新興国が,国威発揚と経済的および教育的目的のために映画製作に乗り出したが,機材も人材も上映組織もないうえに言語の問題(方言が多く,ほとんどのことばが相互に通じないこと)もあり,映画の産業化は規模も小さく遅れがちだった。80年現在,〈フランス語圏〉には約320館の映画館があり,年間1200本の長編映画が上映されているが,それらはほとんどすべて外国映画(フランス映画,アメリカ映画など)で,フランスの2社(コマシコComacicoおよびセクマSecma)とアメリカの1社(アフラムAfram)によって配給されている。国営の現像所をもつギニア以外の国では,撮影したフィルムをすべてフランスに送って現像してもらわなければならない等々,映画製作の条件はまだきわめて不十分である。それでも,1961年にはアフリカ映画のトーキー第1作《愛は障害を越えて》がソマリア(1960年7月独立)のホッセン・マブルークによって作られる。さらに,セネガル(1960年6月独立)の作家ウスマン・サンベーヌの映画が国際的評価を得たこと(アフリカ映画史上最初の長編作品《黒人女》がフランスで1965年度ジャン・ビゴ賞,《郵便為替》が68年ベネチア映画祭審査員特別賞,《エミタイ》が71年モスクワ映画祭銀賞を受賞),1946年以来アフリカで一連の〈人種学映画〉を撮り続けているフランスの人種学者であり映画作家であるJ.ルーシュの影響(〈シネマ・ベリテ〉と呼ばれる一種の〈演出された〉ドキュメンタリー《われは黒人》(1958),《人間ピラミッド》(1960),《ジャガール》(1967)等々に出演した黒人たちがその後みずから映画を作り始める),そして外国(とくにフランス)に留学して映画の技術を学んだ若い世代(例えばコートジボアールの映画作家デジレ・エカレはフランスの高等映画学院(IDHEC)の出身である)が帰国して映画を作り始めたこと等々といったことが集積して,60年代後半から70年代にかけてアフリカ映画が〈映画の第三世界〉としてにわかに注目されるに至った。映画の内容も,当然ながら文明=植民地主義=白人社会の中で疎外された黒人の運命を主題にしたものが多い。セネガルにはウスマン・サンベーヌ(モスクワでマルク・ドンスコイに師事して映画を作り始めた)のほか,ポーリン・ビエイラ,ブレーズ・サンゴール,マハマ・トラオレ,ババカール・サム・マカラム(初の長編作品《コドゥー》はフランスで1971年度ジョルジュ・サドゥール賞を受賞),コートジボアール(1960年8月独立)には《亡命のためのコンチェルト》(1968年イェール青春映画祭グランプリ)でデビューしたデジレ・エカレ,ニジェールにはJ.ルーシュ監督《われは黒人》に出演したあと映画を作り始めたウマルー・ガンダらがいるが,J.ルーシュの〈映画教育〉の最大の成果は74年の《コケコッコー! にわとりさん》というフランス・ニジェール合作映画で,ダムレ・ジカとラム・イブラヒという2人の黒人(ともにルーシュの他の映画に出演している)とルーシュの3人が,それぞれの名まえの頭をとって合成した〈ダラルーDALAROU〉の名で撮った作品である。J.ルーシュのことばによれば,〈ラムがニワトリ商人についての記録映画のアイデアを出し,その主題をもとに劇映画を作ることになり,ダムレとラムがタルー・ムズラーヌというもうひとりの仲間と出演してそれぞれ自分のセリフを作り,私が同時録音でルポルタージュ映画のようにワンシーン・ワンカットの手法でカメラを回した〉という作品である。そのほか,ガボン,カメルーン,ザイール(現,コンゴ民主共和国),コンゴ,ギニア,英語圏のナイジェリア,ガーナ等々にも〈アフリカ映画〉はある。これらの〈アフリカ映画〉は,しかしながら,フランス語圏のものはフランス語で,英語圏のものは英語で作られているのが現状だが,その中でウスマン・サンベーヌの《郵便為替》(1968)が初めて西アフリカの土着の言語(約150万人に理解されうる)ウォロフ語で,すなわち真のアフリカ語で撮られたことは画期的なできごとになったが,この作品はその後ネガごと火事で焼失したため,伝説的な作品でもある。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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