《カメラをもつ男/これがロシアだ》(1920)で知られるロシアの前衛的記録映画作家ジガ・ベルトフが1922年に,大新聞《プラウダ》に対して自分の撮るニュース映画はその付録として〈映画(キノ)に撮られた新聞〉であるという意味で〈キノ・プラウダ〉と名づけたが,フランスの映画史家ジョルジュ・サドゥールがこれをフランス語に直訳し(キノ=シネマ=映画,プラウダ=ベリテ=真実),1950年代後半から60年代にかけて台頭したフランスの新しいドキュメンタリー映画,とくにアフリカを舞台に活躍していた人種学者ジャン・ルーシュの一連の作品に与えた名称である。なかでも,黒人たちに彼ら自身の現実の生活を〈演じ〉させ,スクリーンに再現させた《私は黒人》(1959)は,かつてロバート・フラハティが《極北の怪異(ナヌーク)》(1922)で試みた方法を推進し,体系化して,〈人間の真実を現実の磁場で生々しくとらえる〉というシネマ・ベリテの最初の傑作として評価された。カメラの前で現実の人間に〈真実〉を語らせるというシネマ・ベリテの方法は,ルーシュの手持ちカメラと社会学者エドガール・モランのインタビューを通して1961年の夏のパリの〈状況〉を生々しくとらえた《ある夏の記録》,そして同じ方法で62年5月のパリの〈状況〉を生々しくとらえたクリス・マルケルの《美しき五月》をへて,やがてテレビのインタビュー番組やドキュメンタリー番組の方法に移行し,一般化し,風化していくことになる。しかし他方では,ジャン・リュック・ゴダールが劇映画のなかにカメラを目撃者として生の人間にインタビューを行うというシネマ・ベリテの方法を採り入れて衝撃的な成果をあげたことも注目される。
シネマ・ベリテは,新しいドキュメンタリー映画の方法=運動として,ジャン・ルーシュの映画のカメラマンをつとめたカナダ人のミシェル・ブローを通じてカナダにも広がっていく。また,アメリカではリチャード・リーコックとロバート・ドルーによる〈リビング・シネマ〉から,D.A.ペネベーカーやデビッド・メースルズ,アルバート・メースルズ兄弟らに至る〈ダイレクト・シネマ〉の動きがあり,こうした〈カメラをもつ男〉たちによる現実肉迫のドキュメンタリー映画全般をひっくるめてシネマ・ベリテと呼ぶようになっている。その意味では,これは《三里塚》シリーズ(1968-73),《にっぽん国古屋敷村》(1983)の小川紳介,《パルチザン前史》(1969),《水俣》シリーズ(1971-82)の土本典昭の方法にもつながるものともいえよう。
執筆者:山田 宏一
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ロシア語の「映画の真実(キノプラウダ)」をフランス語にいいかえたことば。1960年前後に輩出したフランスのドキュメンタリー映画の傾向をさすのに使われた。
[岩本憲児]
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…それでも,1961年にはアフリカ映画のトーキー第1作《愛は障害を越えて》がソマリア(1960年7月独立)のホッセン・マブルークによって作られる。さらに,セネガル(1960年6月独立)の作家ウスマン・サンベーヌの映画が国際的評価を得たこと(アフリカ映画史上最初の長編作品《黒人女》がフランスで1965年度ジャン・ビゴ賞,《郵便為替》が68年ベネチア映画祭審査員特別賞,《エミタイ》が71年モスクワ映画祭銀賞を受賞),1946年以来アフリカで一連の〈人種学映画〉を撮り続けているフランスの人種学者であり映画作家であるJ.ルーシュの影響(〈シネマ・ベリテ〉と呼ばれる一種の〈演出された〉ドキュメンタリー《われは黒人》(1958),《人間ピラミッド》(1960),《ジャガール》(1967)等々に出演した黒人たちがその後みずから映画を作り始める),そして外国(とくにフランス)に留学して映画の技術を学んだ若い世代(例えばコートジボアールの映画作家デジレ・エカレはフランスの高等映画学院(IDHEC)の出身である)が帰国して映画を作り始めたこと等々といったことが集積して,60年代後半から70年代にかけてアフリカ映画が〈映画の第三世界〉としてにわかに注目されるに至った。映画の内容も,当然ながら文明=植民地主義=白人社会の中で疎外された黒人の運命を主題にしたものが多い。…
※「シネマベリテ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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