第4代正統カリフ。在位656-661年。シーア派初代イマーム。預言者ムハンマドのいとこ。その娘ファーティマをめとり,彼女との間にハサンal-Ḥasan b.`Alī(624・625-669・670)とフサインの2子をもうけた。改宗の時期は2,3位を争うほど早く,若くからイスラム教団の発展に尽くした。第3代カリフ,ウスマーンの殺害者たちに推されてカリフを宣言したが,もろもろの対抗勢力との抗争で精力を使い果たし,結局彼の理想を実現することなく生涯を終えた。すなわち,656年12月,ムハンマドの未亡人アーイシャとクライシュ族の有力者ズバイルおよびタルハとの連合軍をバスラ近郊で破り(ラクダの戦),クーファを首都としたものの,ウスマーンの血の復讐を求めるシリア総督ムアーウィヤ1世の反抗にあい,これを討つべくユーフラテス川を上った。657年7月シッフィーンの荒野で決戦を挑んだが勝敗決せず,調停によって事態の収拾を図ったが,結局失敗し,661年2月この調停の過程でアリーと袂を分かったハワーリジュ派の一人,イブン・ムルジャムIbn Muljam(?-661)に暗殺された。ウスマーン殺害から,アリーの死までを第1次内乱と呼び,カリフ制度による統治が問われた時期といえる。彼を支持した人々はシーア・アリー(アリーの党派)と呼ばれたが,のちアリーが省略されてシーア派という名となった。アリーの子孫は,シーア派にとってイマームであるだけでなく,預言者の血を引くものとしてイスラム世界で広く尊敬された。彼は直情径行の人で武力にも秀でていたが,理想が高いわりには政治的能力に欠けていた。
執筆者:花田 宇秋
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600頃~661(在位656~661)
第4代の正統カリフ。クライシュ族のハーシム家の出身。ムハンマドのいとこにあたり,かつその娘ファーティマと結婚した。即位の直後,ラクダの戦いで政敵を破り,クーファを都とした。ウスマーン殺害に関する彼の責任を問うムアーウィヤと争い,その最中,ハワーリジュ派の刺客に暗殺された。シーア派の初代イマームである。
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イスラムの第4代正統カリフ(在位656~661)。シーア派初代イマーム。メッカのクライシュ人のハーシム家に生まれ、預言者ムハンマド(マホメット)とは従兄弟(いとこ)で、その娘ファーティマとの間にハサンとフサインの2子を得た。ウスマーン亡きあとカリフとしてクーファに拠(よ)り、シリア総督ムアーウィヤと争った。661年かつての部下で、ハワーリジュ派の1人に暗殺された。イラクのナジャフは彼の埋葬地。
[花田宇秋]
中国で工業合作社、農村工業化に貢献したニュージーランド人。1927~1937年上海(シャンハイ)共同租界工部局の工場監督官として工場行政の近代化に努めるかたわら、罹災(りさい)者救済、揚子江(ようすこう)の築堤工事などに参加。日中戦争の激化後は戦線の「大後方」にあって工業合作社を組織、抗日戦争の物質的基盤と国共合作の政治的基礎を固めることに貢献した。解放後も農村工業化と技術教育に協力して現在に至る。『道なきにしもあらず』(1952)、『China Hinterland』(1961)、『Travels in China, 1966‐71』(1973)などのほか漢詩の英訳がある。
[加藤祐三]
パキスタンの政治家、外交官。現バングラデシュ、ボーグラー県生まれ。1930年カルカッタ大学卒業後ベンガル州政界に入り、1945~1946年同州政府財務相、1947年州首相。1947年パキスタン独立後はビルマ(現ミャンマー、1948)、カナダ(1949)、アメリカ(1952、1955)、日本(1959)で各駐在大使を歴任。1953~1955年首相在任中、1954年の東南アジア条約機構(SEATO(シアトー))加盟など西側従属外交を展開した。1962~1963年アユーブ・ハーン政権の外相を務めた。
[浜口恒夫]
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…教義上イスマーイール派の影響が顕著だが,シリアの土着的宗教伝統のうえにキリスト教とイスラムを折衷したものともみられる。人類史の七循環期においてそれぞれ奥義を体現するサーミト(沈黙者)をナーティク(語る者,預言者)より上位に置き,その結果,第4代カリフ,アリーを神格化し,またアリー,ムハンマド,教友のペルシア人サルマーンの3人――頭文字をとってアイン(‘),ミーム(m),シーン(s)――の組合せ(月,太陽,天空に比せられる)を重視する。オスマン帝国下で19世紀前半までは一定の自治が認められ,またフランスのシリア委任統治は分割支配政策としてその自治権を強調し操縦した。…
…サワードのザンジュはイスラム時代になってからこの乱以前にも2度反乱を起こしたことが記録されている。 9世紀末のこの反乱の指導者は,アリー‘Alī b.Muḥammad(?‐883)で,第4代カリフ,アリーの子孫と称するアラブ貴族であった。彼はアラビアのバフラインで宗教改革運動を始め,信徒を得て863∥864年に武装蜂起したが失敗した。…
…スンナ派とともにイスラムを二分する一派で,預言者ムハンマドのいとこで女婿でもあるアリーを預言者の跡を継ぐべき者として奉ずるイスラム諸分派の総称(図)。シーアとは〈党派〉を意味する語で,本来,〈アリーを支持する党派Shī‘a ‘Alī〉の略称。…
…この結果,両者をともに超越する根本原理として,ズルバーンZurvān(時)を定立する,いわゆるズルバーン教が勢力を得た。 シーア派の第4代イマーム,アリーはササン朝最後の王ヤズダギルドの娘から生まれたとする口承が流布し,多くのゾロアスター教徒がシーア派イスラムを受容する因となり,イランのイスラム化がすすんだ。他方,10世紀以降ゾロアスター教徒のインドへの移住が行われた結果,現在ボンベイを中心にインドにパールシー教徒とよばれる約8万人のゾロアスター教徒がいる。…
…人口12万8000(1990)。15世紀,ティムール朝のスルターン・フサイン(在位1470‐1506)の治世に,第4代カリフ(シーア派の初代イマーム)アリーの墓がここで発見されたといわれ,墓廟が建てられた。それがマザーリ・シャリーフ(聖者の墓)と呼ばれ,スンナ派,シーア派両派の信者の参詣の対象となり,門前町が発達し,バルフに取って代わった。…
※「アリー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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