ハワーリジュ派(読み)ハワーリジュハ

デジタル大辞泉 「ハワーリジュ派」の意味・読み・例文・類語

ハワーリジュ‐は【ハワーリジュ派】

《〈アラビアKhawārij は離脱者たちの意。単数形でハーリジー(Khārijī)派とも》イスラム教成立初期に存在した政治・宗教的党派。第4代正統カリフアリームアーウィヤが争った際に、調停による解決に反対してカリフ軍から離脱した強硬派を起源とする。敬虔けいけんムスリムなら誰でもカリフになる資格があるとし、自派以外の教徒を不信仰者とみなした。アリーを暗殺し、ムアーウィヤが開いたウマイヤ朝にもしばしば反乱を起こしたが、弾圧を受けて衰退。現在は、同派から分かれたイバード派のみが残る。

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改訂新版 世界大百科事典 「ハワーリジュ派」の意味・わかりやすい解説

ハワーリジュ派 (ハワーリジュは)

イスラムにおける最初の政治・宗教的党派。ハーリジー派Khārijī(単数形)ともいう。過激で非妥協的な行動により,第4代カリフのアリーとウマイヤ朝の支配体制を混乱させる一方,宗教・思想の面では,カリフの資格とムスリムの罪の問題を初めて提起した。657年のシッフィーンの戦で,アリーとムアーウィヤ1世の双方が調停によって事態の収拾を図ろうとした時,人間による調停に反対したアリー軍の一部の者が〈判決は神にのみ属する〉を合言葉にアリーのもとを去り,クーファの近くのハルーラーに集まった。彼らはハルーリーヤ(ハルーラーに集まった者),またはムハッキマ(判決は神にのみ属すると主張する者)と呼ばれた。次いで658年2~3月に調停工作が失敗した時,クッラーコーラン読誦者)を含む数千の戦士がクーファを脱出し,先の集団に合流した。この脱出行為が彼らの集団名,すなわち〈脱出した人々〉(ハワーリジュKhawārij)になった。クッラーの影響によってしだいに統一され理論化されていった彼らの主張は,神政国家としてのイスラム国家をコーランの規定をそのまま政治に反映させることによって再生しなければならないというものであった。しかし,658年7月,アリーの討伐を受け,ナフラワーンで400~500人を残して全滅した。ウマイヤ朝時代に入ると,南イラクを中心としてゲリラ活動を行いながら勢力を拡大し,とくに第2次内乱中に,アラビア半島,西南ペルシアにも活動を広げた。しかし,路線・思想の相違により,過激派のアズラク派,穏健派イバード派などの諸派に分かれた。その後は,一時的に勢力を増すことはあってもしだいに活動は衰え,アッバース朝の成立後,イラクにおける活動が途絶した。以後,その活動の舞台は東アラビアと北アフリカ(ルスタム朝はイバード派の王朝)に移り,現在では,オマーンイエメン,北アフリカ,および17世紀にオマーンから伝えられた東アフリカのザンジバルに少数のイバード派が残るだけである。

 彼らのカリフ論の特徴は,その平等主義から,敬虔なムスリムであれば,だれでもカリフになれるとするもので,この点でスンナ派,シーア派と対立する。また同派は調停に同意したアリーをはじめ,同派以外のムスリムを致命的な罪を犯したとして,カーフィル(無信仰者)とみなしたが,そのことが,ムスリムにとっての罪とは何であるのか,また罪は人間の責任かという問題を提起することになった。タキーヤ(危害を加えられる恐れのある場合に意図的に信仰を隠すこと)は最初ハワーリジュ派によって認められ,のちシーア派によって継承された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ハワーリジュ派」の意味・わかりやすい解説

ハワーリジュ派
はわーりじゅは
Khawārij

イスラム教の最初の政治・宗教的分派。ハーリジーKhārijī派ともいう。第4代正統カリフのアリーとのちにウマイヤ朝を創設することになるムアーウィヤとが657年にスィッフィーンで戦った際に、ムアーウィヤ側からコーランによる調停の申し入れがあり、アリー側の兵の大半はそれを承諾したが、一部の者は、それは神のことばの上に人間の審判を置くことであるとして反対し、その場を去った。このアリーの陣営を「離脱した者たち(ハワーリジュ)」はその調停の不満足な結果からさらに増加した。ここにこの派は起源をもつとされ、ウマイヤ朝期(661~750)を通じてしばしば反政府的反乱を引き起こした。教義の面では、道徳的に欠点がなくカリフとして働く能力があれば、いかなる信者もその血統・身分に関係なくカリフに選ばれうるとし、また行為を伴わない信仰は無意味であり、重罪を犯した者は背教者として殺害されるべきであるとするなど、道徳的厳格さを極端にまで主張し、この派に属さないイスラム教徒を不信仰者とみなした。ハワーリジュ派は種々の傾向をもついくつかの支派からなり、そのなかの穏健な一派は現在までアラビア半島のオマーンに存続している。

[鎌田 繁]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ハワーリジュ派」の解説

ハワーリジュ派(ハワーリジュは)
al-Khawārij

イスラームで最初の分派。アラビア語で「離脱者」のこと。第4代カリフアリームアーウィヤと和平を試みたことに反発し,アリーの陣営を去った人々をさす。アリーを含む他の信者の罪の問題を提起し,敬虔な信者にカリフの資格が認められる理想国家など,スンナ派ともシーア派とも異なる教義で知られる。現在ではオマーンだけで公式教義とされる。

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世界大百科事典(旧版)内のハワーリジュ派の言及

【イスラム】より

…車座の中心にいた師はハサン・アルバスリーで,彼の教えの中心は禁欲主義にあり,自由意志か予定かといった問題の立て方はしなかったが,罪についての人間の責任を重くみて,神に責任を転嫁することを固く戒めた。ハワーリジュ派の提起した罪の問題については,彼は大罪を犯した者をムナーフィクーンmunāfiqūn(偽善者)と呼び,このような者を殺してはならないが,地獄に落ちる可能性がきわめて高いので,正しい道に引き戻してやる必要があると考えた。彼の意図したことは,支配者・被支配者の双方を拘束するイスラムの宗教的・倫理的規範の確立にあり,コーランと,預言者ムハンマドの言葉と行為とによって確立された慣行(スンナ)とを手がかりに,その規範を模索していたのである。…

【カイラワーン】より

…アラブの軍人ウクバ・ブン・ナーフィーが670年に築いた軍営都市(ミスル)が起源で,マグリブ最古のイスラム都市。ベルベル人の指導者クサイラによる占領(7世紀末)やイスラムの異端派ハワーリジュ派による占領(8世紀中ごろ)など,政治的に不安定な状態が続いた。9世紀にアグラブ朝の都になるとともに繁栄し始め,マグリブにおける政治,経済,宗教,学問の中心地になった。…

※「ハワーリジュ派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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