日本大百科全書(ニッポニカ) 「アデン」の意味・わかりやすい解説
アデン
あでん
Aden
アラビア半島南部、イエメン共和国南西部の都市。人口40万0783(1993)、51万0400(2002推計)。紅海入口のバベル・マンデブ海峡から東へ160キロメートルのアデン湾北岸に位置する。火山のカルデラが侵食されて生じた港湾は自然の良港である。気候は高温乾燥で、年平均気温29℃、降雨は冬にあり、年20ミリメートルと少ない。夏の南西季節風は高温と80%近い湿度をもたらす。アデンは、町と港のある東側半島と、対岸のリトル・アデンとよばれ大精油所のある西側半島よりなる。アデンの町は3地区に分かれ、クレイター地区は火口内に建設されたアラビア風の旧市街、クワヒ地区は近代的な官庁、ビジネスセンター、そして近くのマアラー地区には埠頭(ふとう)、港湾施設などがある。アデンの経済は、港の物資集散、中継、給油基地と、リトル・アデンの精油所に依存する。製塩、皮革品、コーヒー、香料、穀物、魚類、石油製品などを輸出し、外国から原油、食料品、機械などを輸入する。産業はせっけん、たばこ、皮革品、繊維、アルミニウムなど、小規模のものしかない。かつてアデン港はスエズ―インド間最大の港として栄えたが、スエズ運河閉鎖(1967)で大打撃を受け、その後1975年の再開以降も以前の繁栄を取り戻せず、また生産能力年間800万トンの精油所の操業率も40%近くに落ちた。アラブで唯一のマルクス・レーニン主義の国であった南イエメンの首都であったため、アデン港にはソ連の軍事施設が置かれていた。1990年、北イエメンと統合し、イエメン共和国となり、アデンは首都ではなくなった。
[原 隆一]
歴史
古くから南海貿易の中継地として知られ、『エリトラ海案内記』にエウダイモーン・アラビア、プトレマイオスの『地理書』にアラビア・モンポリウムとしてその名がみえる。古くから交易と戦略上の要地として、諸勢力によりその帰属が争われた。575年にササン朝の領有に帰し、628年にはイスラム支配下に入った。十字軍戦争のときはサラディンが遠征軍を送り、確保した。1513年にポルトガルのアルブケルケにより攻略されたが、1538年にオスマン・トルコのスレイマン大帝が奪回し、約100年間トルコの支配を受けた。1839年にイギリス東インド会社が武力によって奪取して以後、1869年スエズ運河開通により中継地、軍港としての比重が増し、イギリスは周辺の土侯国を漸次保護下に入れた。第一次世界大戦後インド総督の管轄下に入り、1937年に直轄植民地となり、アデン総督の統治下に置かれた。第二次世界大戦後は、1963年南アラビア連邦に加わり、その首都となり、1967年に独立したイエメン民主人民共和国(南イエメン)に所属した。1990年南・北イエメン統一で、首都はサヌアとなった。統一後も南北対立で内戦が発生、1994年4月、南イエメンが独立を宣言、その首都となった。しかし、同年7月北側の攻撃を受けアデンは陥落、北側の勝利で内戦は終結した。
[佐藤圭四郎]